序. 礼拝の場に入って来られる主

 キリスト者の生活の中心は礼拝であります。礼拝は神様との交わりの時であります。礼拝が正しく守られていないと、神様との関係が乱れて、キリスト者としての生活が乱れてしまいます。では、礼拝を正しく守るということはどういうことなのでしょうか。毎週日曜日に教会に来ておればよいということなのでしょうか。礼拝で語られる説教に耳を傾け、そこに示される神様の御心に従う生活を行うことなのでしょうか。心を込めて讃美歌を歌い、祈りを行うことなのでしょうか。あるいは、精一杯の献金をお献げするとともに、私たちの日常生活を神様と人のために献げるということなのでしょうか。――今述べたことは、確かに礼拝を正しく守ることの一面を表わしていますが、礼拝を正しく守ることの核心を示しているとは言えないように思います。というのは、今述べたことは、私たち人間が、礼拝を中心とした生活において行うべきことでありますが、礼拝というのは、私たちが作り出すことではなくて、そもそもは神様が作り出してくださることであります。私たち人間が正しい礼拝を行うことが出来るようになるために、神様は御子イエス・キリストを送ってくださいました。イエス・キリストが聖霊において私たちの礼拝に来てくださることによって、礼拝が清められ、正しい礼拝とされるのであります。そうでなければ、私たちが努力しただけでは、正しい礼拝にならないばかりか、間違った礼拝、サタンの支配する礼拝になってしまうのであります。
 今日与えられております聖書の箇所は、主イエスが十字架の御業を前にしてエルサレムに入られた翌日になさった「宮清め」と呼ばれる御業について書かれているところであります。神様を礼拝する場である神殿で行われていることの間違いを正された場面であります。冒頭の15節の前半を見ますと、それから、一行はエルサレムに来た。イエスは神殿の境内に入り、とあります。前日にエルサレムに入られた主イエスと弟子たちの一行は、さっそく神殿の境内に入って、辺りの様子を見て回ったことが11節に書かれていましたが、もはや夕方になっていたので、エルサレムの城壁の外のベタニアという所で宿泊されて、翌日、また神殿に来られたのであります。そこはイスラエルの民の礼拝の場であります。主イエスがそこに入って来られたのであります。そして「宮清め」と呼ばれる御業を行われました。このように主イエスは私たちの礼拝の場にも入って来られるのであります。そして、私たちの教会の礼拝についても「宮清め」の業を行われるのであります。主イエスが私たちの礼拝を神様の御心に適ったものへと清めてくださるのであります。―――では、どのようにして、私たちの礼拝を清めてくださるのでしょうか。今日は、そのことを与えられた箇所から聴き取りたいと思います。

1. 神殿――葉ばかりのいちじくの木

 2月14日の主日に、今日の箇所の前後の箇所から御言葉を聴きました。そこには「枯れたいちじくの木」の話が書かれていました。主イエスが葉の茂ったいちじくの木をご覧になって、実がなっていないかと近寄られたのですが、葉ばかりで実がなかったので、その木に向かって「今から後いつまでも、お前から実を食べる者がないように」という呪いの言葉を語られたのでありますが、翌朝、同じところを通られると、そのいちじくの木が根元から枯れていたというのです。そういう話の間に、今日の「宮清め」の記事が挟み込まれているのであります。これは時間的な経過の順に書いたので、こういう順になったということではなくて、この福音書を記したマルコの理解の中では、この「いちじくの木」の出来事と「宮清め」に深いつながりがあると見ていたからであります。つまり、葉ばかりで実がなっていない「いちじくの木」とは、当時の神殿の状況を表わしていると理解したのであります。主イエスが実をつけていないいちじくの木を呪って枯らされたように、正しい礼拝が行われていなかった神殿を潰して建て直そうとされたのであります。それは、この日の「宮清め」と呼ばれる行為だけによるのではなくて、十字架と復活にまで至るエルサレムにおける一週間の御業によって、礼拝の根本的な改革を行われたのでありました。そして、その主イエスが今日も私たちの礼拝の場所に入って来られて、私たちの礼拝を清め、礼拝の改革を行なってくださるのであります。

2. 宮清め――「強盗の巣」の破壊

 神殿の境内に入られた主イエスは、そこで売り買いしていた人々を追い出し始め、両替人の台や鳩を売る者の腰掛けをひっくり返された。また、境内を通って物を運ぶこともお許しにならなかった、とあります。ここで神殿の境内というのは、「異邦人の庭」と呼ばれる誰でも入れるエリアだったと考えられます。「両替人」というのは、当時、ユダヤ人は諸国に散っていて、その人たちが毎年、巡礼として神殿にやって来て献金を納めるのですが、彼らが持っているのはローマかギリシャの貨幣で、神殿ではユダヤの貨幣しか受け付けませんので、両替が必要だったので、境内で台を置いて、両替を行なっていたのであります。「鳩を売る者」というのは、神殿では犠牲の動物を献げなければなりませんが、遠くからやって来る人たちが牛や羊を連れて来るわけには行かないので、鳩を売っていたのであります。ですから、「売り買いしていた人々」と言っても、観光地で土産物を売っているようなことではなくて、礼拝の便宜のためにサービスを提供していたのであります。しかし、商人たちはそれで利益を得られるわけで、出店の許可は神殿が出店料を取って与えていたので、神殿の収入源でもあったのでしょう。また、「境内を通って物を運ぶこともお許しにならなかった」とあるのは、神殿の境内は非常に広いので、町の一方から他方に行くには、神殿の境内を通るのが近道だったので、よく使われていたようです。主イエスはこうしたことをしていた人々を追い出すとともに、商売道具をひっくり返すという激しい行動をとられました。

 主イエスがエルサレムに入られた時は、おとなしい子ろばに乗って入られた「柔和な方」のお姿でありましたが、今回はなぜ、これほどまでに過激な行動に出られたのでしょうか。――確かに、境内で商売が行われている背景には、不正とは言えないまでも、祭司が利権を高く売りつけていたということは十分に考えられることですし、商人たちは、礼拝者たちの弱みに付け込んで、高い値段で売りつけるとか、両替人は法外な手数料を取っていたのかもしれません。主イエスが17節で、「あなたたちは、それを強盗の巣にしてしまった」とおっしゃったのは、神殿がそのような法外な利益追求の場になってしまっていて、礼拝者から強引にお金をふんだくっていることを表現されたのだと受け取ることも出来ます。しかし、主イエスは単に社会正義を主張しておられるのではありませんし、単に宗教的な清廉潔白さを求めておられるのでもありません。この時の主イエスの行動と言葉には、もっと深い意味が込められていたと思われるのであります。

3. 祈りの家へ

 そのことを示しているのが17節にある主イエスの言葉であります。そして、人々に教えて言われた。「こう書いてあるではないか。『わたしの家は、すべての国の人の祈りの家と呼ばれるべきである。』」――これは先ほど朗読していただきましたイザヤ書56章の7節にある言葉を引用しておられるのですが、このイザヤの言葉は、イスラエルの民がバビロン捕囚から帰って、神殿を再建した時期に語られたものであるとされておりまして、散らされたユダヤ人が再び神殿に集められるとともに、異邦人も神殿に招かれて礼拝が出来るようになる、ということが背景にあるのであります。それはバビロニアによって破壊された神殿が物理的に再建されたというだけではなくて、新しい礼拝の民が結集されて、新しい礼拝が始まることを意味しました。主イエスが商売をしていた人たちを追い出されたのは、正に「異邦人の庭」と呼ばれ、異邦人が祈り、神様に礼拝を捧げるべき場所でありました。そこが商売の場になっていたのであります。
 しかし、主イエスがここで「わたしの家は、すべての国の人の祈りの家と呼ばれるべきである」とおっしゃったのは、「異邦人の庭」の使い方の問題だけを指摘されたのではないでしょう。むしろ神殿全体が「祈りの家」になっていないことを問題にされたのではないでしょうか。当時の神殿で祈りが行われなかったわけではありません。しかし、動物の犠牲を献げる儀式が中心になっていて、それでもって救われるとされて、心からの悔い改めや祈りが失われていたのでありましょう。神殿は宗教的な儀式が行われているという意味では極めて宗教的な場であっても、そこに信仰が見られず、祈りがなくなっていては、礼拝の場とは言えません。神殿が人間の罪に蓋(ふた)をするための装置のようなものになってしまっていたのでは、そこは人間に都合のよい場であっても、神様がどこかへ追いやられてしまっているのであります。神様の前に自分が打ち砕かれて、御心に聞き従うということがなければ、祈りの家とは言えません。主イエスが「強盗の巣にしてしまった」とおっしゃったのは、祭司や商売人が不当な利益を得ているという意味もあるかもしれませんが、それ以上に、本来神様に属するべきものを神様から奪っているという意味の「強盗」という意味でありましょう。神殿は神様が主権を行使されるべき所であります。しかし、神様の主権が奪われ、人間の利益や人間の安心のために神様が利用されているとするならば、それは「強盗の巣」であります。「祈り」とは、神様に属するものを神様に帰することであります。祈りは、神様に何物かを一方的に期待して、それを強奪することではなくて、神様に栄光を帰し、神様に信頼して、私たちの全てを委ねることであります。現代の神殿である教会も本来そのような祈りの家であります。
 私たちの教会の礼拝はどうでしょうか。ただ礼拝という名の儀式に参加するだけで、神様に向き合うのでなく、心からの祈りが消えたなら、それは講演会場であったり、典礼会館であったり、親しい者の社交の場に過ぎなくて、神様が主宰され、神様が崇められる礼拝の場ではなくなってしまいます。もしそんな教会になり、そんな礼拝しか行われていないならば、主イエスはそこから私たちを追い出されるでしょうし、神様がそんな教会を潰されてもおかしくありません。

4.殺そうかと謀った――十字架による清め

 では、主イエスは「強盗の巣」になっていた神殿を批難されて、そこで商売をしていた人々を追い出されただけで終わられたのでしょうか。そうではありませんでした。
 18節を見ますと、祭司長たちや律法学者たちはこれを聞いて、イエスをどのようにして殺そうかと謀った、とあります。主イエスがなさったことに対して、神殿を司っていた祭司の反発を買うのは必至でありますし、かねてから敵視していた律法学者たちが殺意を固めたのも当然の成り行きでありました。27節以下には、さっそく、祭司長、律法学者、長老たちが主イエスを咎めるためにやって来たことが記されています。主イエスが逮捕され最高法院で裁判を受けられた時には、その訴えの理由として、主イエスが「わたしは人間の手で造ったこの神殿を打倒し、三日あれば、手で造らない別の神殿を建ててみせる」(1458)と言われたことが挙げられています。そしてその先には十字架が待ち受けています。十字架に架けられた主イエスに対して投げかけられた嘲りの言葉も、「おやおや、神殿を打倒し、三日で建てる者」(1529)でありました。主イエスがそれらのことを覚悟なさった上で、この行動に踏み切られたのであります。主イエスは単に現状を批判されただけでなく、御自分の身を挺して、神殿の改革を実行しようとされているのであります。ですから、主イエスのこの時の激しい行動とこのお言葉は、これから主イエスが十字架の御業をなさろうとしておられる事と結びついていました。主イエスの十字架とは、それまでの犠牲の動物の代わりに、御自分が人々の罪のための犠牲の供え物になられることであります。神の子である主イエスが犠牲になられれば、もはや動物の犠牲は要らなくなります。そうすれば、神殿の境内で動物を売る必要がなくなります。礼拝の仕方が全く変わってしまうのであります。もちろん異邦人も自由に礼拝が出来るようになります。かつてイザヤが「祈りの家を呼ばれるべきである」と言ったことが、本当の意味で実現するのであります。それは単に商売を止めさせる「宮清め」や、神殿の制度の改革といったものではありません。主イエスは「祈りの家と呼ばれるべきである」と言われました。「祈り」とは神様との交わりであり、人間にとって祈りが出来ることは救いであります。主イエスが御自身の犠牲によって、神様と人との関係を修復され、罪からの救いを実現し、神様に真実の祈りを捧げることが出来るようにしようとされるのであります。かくて、神殿が新しい礼拝の場として、すなわち教会として再建されることになるのであります。
 並行記事のヨハネによる福音書218節以下(p166)を見ますと、そのことがはっきりいたします。こう書かれています。
 ユダヤ人たちはイエスに、「あなたは、こんなことをするからには、どんなしるしをわたしたちに見せるつもりか」と言った。イエスは答えて言われた。「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる。」それでユダヤ人たちは、「この神殿は建てるのに四十六年もかかったのに、あなたは三日で建て直すのか」と言った。イエスの言われる神殿とは、御自分の体のことだったのである。」(ヨハネ21819
 ここで主イエスが神殿の建て直しのことを言っておられるのは、御自分の死と復活のことであります。主イエスが十字架にお架かりになり、三日目に復活なさることによって、旧来の神殿は意味がなくなり、新しく、キリストの体としての教会という神殿が誕生するのであります。主イエスが、神殿で売り買いしていた人々を追い出すとか、両替人の台や鳩を売る者の腰掛をひっくり返されたのは、そのような新しい礼拝の開始を告げる象徴的な行為であったのであります。
  私たちの礼拝は、もしかすると、未だに自分の幸せや満足を求めるだけの場になっているかもしれません。この教会の現状は「祈りの家」とは言えない状態にあるかもしれません。しかし、主イエスはそのような私たちと私たちの教会のためにこそ、御自身の命をかけて、礼拝を清めてくださり、礼拝の改革を実行してくださり、「祈りの家」へと、「新しい神殿」へと造り変えてくださったのであります。

結. 新しい神殿

 パウロはコリントの信徒への手紙の中でこう言っております。
 「知らないのですか。あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。だから、自分の体で神の栄光を現しなさい。」(Ⅰコリント61920
 主イエスは既に、代価を払って、私たちの体を買い取ってくださって、聖霊が宿る神殿にしてくださったと言っているのであります。
 ということは、神様が私たち一人一人の中に住んでおられるということであります。そして私たちの中で礼拝が起こるようにしていてくださるということです。私たちが新しい神殿にされ、「祈りの家」にされたのであります。
 しかし、ともすれば私たちは「祈りの家」を強盗の巣にしてしまいかねない者たちでもあります。そんな私たちのために、主イエスは今朝も私たちに聖書を通して出会ってくださり、「宮清め」をしてくださり、真実の礼拝が出来るように、導いていてくださるのであります。 畏れと感謝をもって、祈りましょう。

祈  り

救い主イエス・キリストの父なる神様!
  主イエス・キリストがこの日も私たちの礼拝の場に来てくださり、厳しい怒りと深い憐みのお言葉をもって宮清めをしてくださり、私たちを「祈りの家」へと造り替えてくださいましたことを感謝いたします。
  どうか、あなたとの出会いの礼拝を生活の中心に置いて、祈りにおいて御心を問いつつ、御心に従って行く者たちとしてください。
  主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

主日礼拝説教<全原稿> 2016年3月6日  山本 清牧師 

 聖  書:マルコによる福音書1:15-19 
 説教題:「
祈りの家」         説教リストに戻る