いかに美しいことか/山々を行き巡り、良い知らせを伝える者の足は。彼は平和を告げ、恵みの良い知らせを伝え/救いを告げ/あなたの神は王となられた、と/シオンに向かって呼ばわる。(イザヤ書527 

 イスラエルの民に、五十年にわたるバビロン捕囚からの解放が告げられたが、廃墟となったエルサレムに戻ろうとしない人があり、エルサレムに残されていた人々も立ち上げる元気を失っていた。そんな中で「奮い立て、力をまとえ」と呼びかけられている。しかしこれは、イザヤの単なる励ましの言葉ではない。神が先頭に立って立ち上がられ、力を発揮されるからであり、「無割礼の汚れた者(=異邦人であるバビロンの軍隊)が、あなたの中に攻め込むことは再び起こらない」し、「ただ同然で売られたあなたたちは銀によらずに買い戻される」とあるように、神がペルシャ王を用いて、無償で、一方的に開放してくださるからだ、と言うのである。
 また、標記のように、解放を知らせる者の足を称えているが、その知らせの中心は「あなたの神が王になられた」ということで、バビロンやペルシャの王でもなく、異教の神々でもなく、真の神がイスラエルの王になるという宣言である。そして、「立ち去れ、そこを出よ」と呼びかけ、「あなたたちの先を進むのは主であり、しんがりを守るのもイスラエルの神だから」と言う。かつてイスラエルの民は神の手によってエジプトでの奴隷状態から解放されてエジプトを出たが、バビロン捕囚からの解放は「第二の出エジプト」と理解されていて、「身を清めよ、主の祭具を担う者よ」と言われているのは、バビロニアによって奪われた祭具を持ち帰って、エルサレムでの祭儀が復活されることを述べているのであり、ここには、罪と不信仰によって汚れた状態から「立ち去る」という意味が込められている。
 ところで、現今の世界情勢や、日本の政治・経済が不透明な中で、かつて、エルサレムの神殿が破壊されたように、異教的・世俗的なこの世の力によって教会が破壊されかねない状況がある。教会は揺るぎない確信と希望をもって福音を語ることが出来ているだろうか。イザヤは「歓声をあげ、共に喜び歌え」と言い、「主はその民を慰め、エルサレムを贖われた。…地の果てまで、すべての人がわたしたちの救いを仰ぐ」と告げている。これは主イエスのエルサレム入城を思わせる知らせである。バビロンからの解放は、第三の出エジプトとも言うべき、イエス・キリストによる罪からの解放を指し示している。パウロはローマ1014以下で、「いかに美しいことか、山々を行き巡り、良い知らせを伝える者の足は」と述べている。私たちは不透明な状況の中でも、イエス・キリストの十字架と復活による罪の捕囚状態からの解放を知っており、それを喜んで、確信をもって告げる者とされているのである。 

主日礼拝説教<要 旨> 2016年2月28日  山本 清牧師 

 聖  書:イザヤ書52:1-12 
 説教題:「
主は王となられる」 説教リストに戻る