序. 救いの時が来たのに

 月に一度、旧約聖書のイザヤ書から御言葉を聴いております。今日は521節から12節までですが、ここは、イザヤ書40章から始まった第二イザヤと呼ばれる救いの預言のクライマックスであります。この箇所が書かれたのは、先月も申しましたように、バビロンで捕囚になっていたイスラエルの民が、既にペルシャ王キュロスによって解放が告げられた後と考えられていますが、イスラエルの民はすぐに喜んでエルサレムに帰ろうとはしなかったという事情がありました。それは、バビロンでの50年以上にわたる生活に定着してしまって、荒れ果てたエルサレムの地に帰って苦労したくないという思いがあったからであります。先月は、51章の前半の箇所から、そんな中で語られた「わたしに聞け」という言葉で始まる三つのメッセージを聴きました。もう一度その三つのメッセージの要点を振り返ってみましょう。
  第一は、年老いて子がなかったアブラハム夫婦に天の星を仰がせて、「あなたの子孫はこのようになる」と約束されて、それが実現したように、主なる神様は、廃墟になってしまったエルサレムを「エデンの園」「主の園」にされて、「そこには喜びと楽しみ、感謝の歌声が響く」ようにするという約束であります。第二は、救いがイスラエルの民だけでなく、すべての諸国民にも及ぶ、という約束でありました。そして第三は、人に嘲られたり、ののしられることを恐れるな、神様の恵みの業と救いは永遠のものである、という約束でありました。
 このような約束のメッセージが語られたあと、51章の9節には、「奮い立て、奮い立て」と主なる神への願いが語られ、17節には「目覚めよ、目覚めよ」とあって、励ましの言葉が語られているのですが、先月はそれらには触れずに、今日の52章に続くことになるのですが、52章の初めの1節には「奮い立て、奮い立て」とあって、これは51章の9節と同じ言葉ですが、ここではそれが人々への励ましの言葉になっていて、更に11節にも「立ち去れ、立ち去れ」という、励ましの言葉があります。これらの励ましの言葉が語られた対象は、まだバビロンに残っている人々とも考えられますが、「シオンよ」とか「エルサレムよ」とも呼びかけられているので、バビロンに捕囚とならずにエルサレムに残っていた人々であるとも考えられるのですが、むしろ、そのような区別を超えて、捕囚になった人も残されていた人も、すべてのイスラエルの民に向かって語られている励ましの言葉として受け取ってよいのではないかと思います。そしてこの励ましの言葉は、現代の私たちにも語りかけられている言葉としても受け取ることが出来ます。――最近の世界の情勢を見ていますと、日増しに状況が悪くなっているように見えます。シリアにおける政府と反政府勢力とIS(イスラム国)との三つ巴の戦いをはじめとする中東情勢は混沌の度を深めていて、難民のヨーロッパへの流入は止まらないようです。北朝鮮をめぐる韓国、アメリカ、中国、そして日本の関係も緊迫の度を深めております。日本の経済も、アベノミックスで上向くのかと思いきや、中国の成長が鈍ったことや原油価格の低落などの影響もあって不透明になって来ております。――ここは、そんな政治や経済の問題を論じる場ではありませんが、世界中のあちこちで起こっている色々な問題の先行きが見え難くなって、不安が増しているように思われます。その中にあって、教会は揺るぎない確信と希望をもって福音を語ることが出来ているかどうかが問われているのではないでしょうか。ところが、この国では教会の礼拝に集まる人がどんどん減って来ています。若い人たちに福音が届いていません。福音が今の時代に合わなくなって来ているのでしょうか。聖書が語る救いが、もはや今の社会の複雑で新しい問題に追いついていないということなのでしょうか。そんなことはありません。先月の箇所で「わたしに聞け」と言われていました。問題は私たちが信頼をもって御言葉に耳を傾けていないのであります。神様は今日も御言葉をもって私たちを励まそうとしていてくださいます。その御言葉に真剣に耳を傾けたいと思います。

1. 奮い立て/買い戻される

 まず1節ではこう呼びかけられています。奮い立て、奮い立て、力をまとえ、シオンよ。輝く衣をまとえ、聖なる都、エルサレムよ。――519節の「奮い立て」は、神様が立ち上がられることへの願いとして語られていたと申しましたが、ここでは、神様が奮い立たれ、立ち上がられることに対応して、イスラエルの人々が奮い立ち、立ち上がることを呼びかけているのであります。イスラエルの人々だけが頑張らなければならないのではありません。神様が先頭に立って、立ち上がられ、力を発揮してくださるのであります。「輝く衣をまとえ」とも呼びかけられています。この「輝く衣」とは祭の時に着る晴れ着のことであります。捕囚の五十年の間は、神殿は破壊され、祭りを行うことが出来なかったのでありますが、その神殿が建て直されて、晴れ着を着て祭りを行う日が来ることを告げているのであります。無割礼の汚れた者が、あなたの中に攻め込むことは再び起こらない、とも言っております。「無割礼の汚れた者」とは、異邦人のことを指しますが、ここでは、かつてエルサレムを征服し、神殿を破壊したバビロニアの軍隊のことであります。これを現代の教会の状態に引き写すことが出来るように思います。人々の関心や興味が世俗的なことに向けられる中で、教会の礼拝への人々の関心が薄れて、礼拝が成り立たなくなるようなケースが出て来てしまっています。かつてエルサレムの神殿が破壊されたように、今も、異教的で世俗的なこの世の力によって教会が成り立たなくなることが起こりかねない状況があります。
  しかし、ここで告げられていることは、そのようなことは「再び起こらない」と言われているのであります。なぜなら、神様が立ち上がってくださっているからであります。そうであれば、世俗的な力が攻め込むことは出来ません。2節では、立ち上がって塵を払え、捕らわれのエルサレム。首の縄目を解け、捕らわれの娘シオンよ、とも呼びかけられています。廃墟のエルサレムが瓦礫に覆われたままでありました。けれども、瓦礫が取り払われ、人々は捕囚の縄目の状態から解放されるというのであります。どうしてそのようなことが行われるのでしょうか。3節にはこう述べられています。主はこう言われる。「ただ同然で売られたあなたたちは、銀によらずに買い戻される」と。――イスラエルの民がバビロン捕囚にされたときは「ただ同然」で連れて行かれたのであります。それを解放してもらうためには、高い代価が必要な筈です。それを払ってくれる誰かがいたわけではありません。それなのに解放されたのは、「銀によらず」、即ち金銭を払ってではなくて、神様がペルシャ王キュロスを用いて、一方的に解放してくださったのでありました。
 私たちが罪の奴隷状態から解放されるのも、教会がこの世の力に流されず、それに打ち勝って自由な活動が出来るのも、私たちの良い働きとか、教会が経済的な代価を支払うとか、社会的に評価されるということによるのではなくて、神様が一方的に、御子イエス・キリストの十字架という大きな代価を払ってくださったからであります。
 次の4節から6節の段落は、説明のために書き足されたのではないかと思われる箇所ですが、イスラエルの抑圧の歴史が回顧されています。エジプトで奴隷状態であったことがあります。北の大国アッシリアによって搾取されたことがあります。そして、バビロニアによる五十年にわたる捕囚の憂き目を経験しました。それは、イスラエルの民が「故なく搾取され」「ただ同然で奪い取られる」経験であるだけでなく、「わたしの名は常に、そして絶え間なく侮られている」とあるように、神様が辱めを受ける歴史でありました。しかし、6節にはこう述べられています。それゆえ、わたしの民はわたしの名を知るであろう。それゆえその日には、わたしが神であることを、「見よ、ここにいる」と言う者であることを知るようになる。つまり、創り主なる神こそが唯一の神であり、救い主であることが分かるようになる、ということです。教会もまた、この神の救いのもとにあるのであります。

2. あなたの神は王となられた

 続く7節から10節までは、エルサレムに救いがもたらされる様子を生き生きとしたヴィジョンで描いています。まず7節では、いかに美しいことか/山々を行き巡り、良い知らせを伝える者の足は。彼は平和を告げ、恵みの良い知らせを伝え/救いを告げ/あなたの神は王となられた、と/シオンに向かって呼ばわる、と述べられています。解放の知らせを伝える者は、山々を越えて行き巡って来るのですから土にまみれて汚れている筈ですが、「いかに美しいことか」と言っております。なぜなら、伝える内容が「良い知らせ」であり、「平和を告げ」、「恵みの良い知らせ」であり、「救い」であるからであります。そして、良い知らせの中心は、「あなたの神は王となられた」ということであります。バビロニアの王ではなく、また異教の神々が王になるのではなく、真の神がイスラエルの王となってくださるという知らせであり、宣言であります。

 次に8節では、エルサレムの町の見張りの様子が描かれています。廃墟になっていた町に見張りがいたということはなかったでしょうが、喜びの知らせが届いた時の幻を描いているのであります。9節は知らせを聞いたエルサレム全体の喜びが表現されています。現実は廃墟が広がっているのですけれども、解放の知らせを聞いて歓声をあげ、喜び歌おうと呼びかけています。なぜなら、主はその民を慰め、エルサレムを贖われたからであります。そして更に10節では、主は聖なる御腕の力を/国々の民の目にあらわにされた、地の果てまで、すべての人が/わたしたちの神の救いを仰ぐ、と言っておりますように、全世界の人々の目に神様の救いが明らかになる、と言うのです。

 ここに記された「あなたの神は王となられた」という知らせが届くときの幻は、私には、先日マルコ福音書によって聴いたイエス・キリストがエルサレムに入城されたときの様子と重なるように思えました。主イエスは子ろばに乗って入城されました。それは凱旋した王様が馬に乗って入城するのとは違っていました。人々は歓呼して主イエスを迎えましたが、やがて彼らも主イエスを「十字架に架けろ」と叫ぶようになります。その点でもこここに描かれている喜びの幻とはぴったりと重なるわけではないのですが、十字架に架かられる主イエスこそが本当の王であり、そのような主イエスがエルサレムに入られたことが、救いの始まりであり、良い知らせ(即ち、福音)であるという意味で、重なり合うのではないでしょうか。このあと讃美歌の130番を歌います。これは平和の主である主イエスを称え、神の国が始まったことを喜ぶ歌でありますが、今日の箇所の、イザヤが描く良い知らせが伝えられる喜びと重なるように思いますので、元気に歌いたいと思います。

3.立ち去れ、そこを出よ

 最後の段落の1112節では、バビロンから立ち去ってエルサレムに帰るようにとの勧めが語られています。立ち去れ、立ち去れ、そこを出よ/汚れたものに触れるな。その中から出て、身を清めよ/主の祭具を担う者よ。――ここで「立ち去る」とは、バビロンから立ち去ることですが、かつてのエジプトからの脱出の再現と捉えられていて、バビロンから立ち去ることは第二の出エジプトと理解されているのであります。けれども、今回は単なる脱出ではありません。「身を清めよ、主の祭具を担う者よ」と言われています。なぜ祭具のことが出て来るかと申しますと、バビロニアによってエルサレム神殿が破壊されたときに、神殿で使われていた純金製の祭具が戦利品として持ち去られました。今回、バビロンから出る時にはそれを持ち出すことを述べているのであります。それは、単に奪われたものを取り返すということではなくて、エルサレムでの祭儀の復活ということがあるでしょうし、更には祭儀的、霊的な意味づけが加えられていて、罪と不信仰によって汚れた状態から立ち去るという意味を込めているのであります。
  12節に、しかし、急いで出る必要はない、逃げ去ることもない、と言われています。かつてエジプトを出るときは、エジプトの軍隊が追いかけて来るかもしれなかったので、大急ぎで出発しなければなりませんでした。パンの粉をこねていた人はパンの種を入れないまま出発しなければなりませんでした。このことを記憶するために、過越しの祭には種入れぬパンを食べることにしていました。しかし、今回は逃げるわけではなくて解放されたので、急いで出る必要はありません。
 あなたたちの先を進むのは主であり/しんがりを守るのもイスラエルの神だから、と言われています。かつての出エジプトの時は、昼は雲の柱、夜は火の柱が、イスラエルの民を守ったと出エジプト記には書かれているのですが、今回の第二の出エジプトでは、神様ご自身が前からも後ろからも守ってくださると言うのであります。
 この第二の出エジプトとされるバビロンからの解放は、第三の出エジプトとも言うべきイエス・キリストによる罪からの解放を指し示す出来事だと受け取られています。主イエスは、「わたしは良い羊飼いである」と言われ、「良い羊飼いは羊のために命を捨てる。羊飼いでなく、自分の羊を持たない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして逃げる」(ヨハネ101112)とおっしゃいました。主イエスは十字架に架かって私たちの罪の身代わりになって命を捨ててくださいました。正に、「良い羊飼い」になってくださったのでした。

結. 良い知らせを伝える者の足

 今日はイザヤ書52章の言葉を聴くに当って、最初に、現代世界の先行きの見えない不透明な状況のことや、教会が不振に陥っていることを述べて、その中にあって教会が揺るぎない確信と希望を人々に語っているだろうかということを申しました。しかし、聖書には人々に確信と希望を与える御言葉がないわけではありません。かつてイザヤがバビロン捕囚からの解放に当って語った言葉は、イエス・キリストの十字架と復活の御業によって、罪の捕囚状態からの解放として実現しました。問題はその良い知らせ(福音)が現実の世界に向けて、また私たちの生活の中で、語られ聴かれているかということであります。今日の7節に、「いかに美しいことか、山々を行き巡り、良い知らせを伝える者の足は」とありました。パウロはローマの信徒への手紙1014節以下で、このイザヤの言葉を引用しながらこう述べています。「信じたことのない方を、どうして呼び求められよう。聞いたことのない方を、どうして信じられよう。また、宣べ伝える人がいなければ、どうして聞くことができよう。遣わされないで、どうして宣べ伝えることができよう。『良い知らせを伝える者の足は、なんと美しいことか』と書いてあるとおりです。」――かつて、イスラエルの民をエジプトから導き出し、バビロンから解放された主なる神様は、今も、王として世界を治めておられて、私たちを罪の奴隷状態から導き出そうとしてくださっています。そのことを知らされている私たちは、希望を与えられています。真の平和の道がどこにあるのかも知らされています。そのことを、私たちは自分の生活の中で、生き方の中で、聴き続け、言い表して行く者たちでありたいと思います。祈りましょう。

祈  り

私たちの王であり、父である、主なる神様!御名を讃美いたします。
  イザヤが語った言葉を通して、主なる神が今も愛と力をもって私たちを御支配なさり、イエス・キリストにおいて罪と死の力に勝利してくださり、私たちを捕らわれから救い出そうとしていてくださる恵みを覚えて、感謝いたします。
  どうか、このあなたの恵みに身を委ねて、御心に従って行く者とならせてください。またどうか、この福音を証しすることのできる者たちとならせてください。
  主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

主日礼拝説教<全原稿> 2016年2月28日  山本 清牧師 

 聖  書:イザヤ書52:1-12 
 説教題:「
主は王となられる」         説教リストに戻る