序. ところが今や

 月一回、ローマの信徒への手紙から御言葉を聴いて参りましたが、今日の箇所は、この手紙の中心的なところであると言われています。この箇所の小見出しは「信仰による義」となっています。今日の説教の題もこれに合わせて「信仰による義」といたしました。つまり、この手紙でパウロが語ろうとする中心的なことは「信仰による義」だということであります。しかし、「信仰による義」という題を聞いただけではここで何を語ろうとしているのかということをすぐに理解するのは難しいと思います。ところで、この手紙の最初の挨拶の中で、パウロは、「キリスト・イエスの僕、神の福音のために選び出され、召されて使徒となったパウロから」と書いて、すぐその後で、「この福音は、神が既に聖書の中で預言者を通して約束されたもので、御子に関するものです」と述べて、「福音」の説明を始めました。つまり、パウロはこの手紙によって「福音」のことを語りたかったのであります。そして、11617節には、この手紙の要約とも言うべきことが書かれているのですが、そこにはこう書かれていました。「わたしは福音を恥としない。福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです。福音には、神の義が啓示されていますが、それは、初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです。」――ここには「福音」ということと、「神の義」ということと「信仰」ということとの関係が手短に要約されています。しかし、それぞれの中身については記されていません。そこで118節以下の本論に入ったわけですが、そこから今日の箇所の手前までは、一言で言えば人間の罪について語られて来たのでありました。そして、<ユダヤ人もギリシア人も皆、罪の下にあって、正しい者は一人もいない>ということが語られて来たのであります。そうなると、当然予想されるのが、<ユダヤ人には神様から律法が与えられていてそれを守っているから正しいのではないか>という反論であります。それに対して、今日の箇所の直前の20節ではこう言っております。「なぜなら、律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされないからです。律法によっては、罪の自覚しか生じないのです。」つまり、律法というものは人間の罪を明らかにすることは出来るけれども、神様の前で義とされる、即ち正しい者と認められることにはならない、ということです。これは絶望的な状況、暗闇のような状況であります。ところが今日の箇所では、その絶望的な暗闇のような状況に、夜が明けて日の光が射し込むような喜ばしい知らせ、つまり福音が告げ知らされるのであります。それが、「信仰による義」ということであります。
 「ところが今や」という言葉で始まっています。待ちに待った新しい時代が始まったことを告げる、喜びに満ちた言葉であります。では、暗闇の中に明るさをもたらす光の源、光源とは何でしょうか。そして私たちはその光に、どのようにして与ることが出来るのでしょうか。――それが今日の箇所から聴き取るべきことであります。
 今日の箇所はこの手紙の中心メッセージが語られているところでありますし、大切なことが沢山含まれていますので、12節ずつ4~5回に分けて丁寧に取り上げたり、21節から31節までの全体をテキストにしながら、34回の説教で取り上げたりすることが多いのですが、今回はここ全体で伝えようとしていることの要点をしっかりと聴き取りたいと思います。

1. 神の義

 まず、21節ですが、ここには暗闇の中に明るさをもたらす光の源が何であるかという答えが早速示されています。こう書かれています。ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。――「神の義」が私たちに明るさをもたらす光源であります。「神の義」とは神様の正しさであります。神様の正しさは、それまでは神様が与えてくださった律法によって示されているとユダヤ人は考えて来ました。十戒をはじめとする旧約聖書に書かれている掟、ここに神の義が示されているのですから、ユダヤ人は律法を忠実に守ることに努めて来たのであります。パウロ自身もそうでありました。ところが今や、その律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示された、と言うのです。「律法とは関係なく」というところは、口語訳聖書では「律法とは別に」と訳されていましたが、<ユダヤ人が律法を自分たちの力で守ることによって神様の義を達成しようとしていたこととは別に>、という意味で、その律法とは別のことというのが、22節にあるように、すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です、ということです。イエス・キリストを信じるという別の道が開かれた、ということです。しかしその道は突然に現れたというよりも、「律法と預言者によって立証されて」示された、と言っています。「律法と預言者」とは、旧約聖書の「律法の書」と呼ばれるモーセ五書(創世記から申命記まで)と「預言書」と呼ばれる歴史や預言者の書のことで、合わせて、旧約聖書全体を意味すると理解することが出来ます。つまり、旧約聖書の中で預言され、または暗示されて来たところの救い主イエス・キリストによって、神様の義(正しさ、筋道)が示されたということです。ですから、「神の義」は突然に示されたわけではなくて、旧約聖書の中にも現わされていたのですが、それがイエス・キリストによって、その御言葉と御業によってはっきりと示されたということです。けれども、イエス・キリストによって現わされた「神の義」は、そこに「信じる」という人間の側の応答がなければ、「神の義」は私たちのものにはなりません。この「信じる」こと、即ち「信仰」のことについては27節以下でもう少し詳しく述べられていますので、そこでもう一度取り上げることにいたしますが、ここで述べられていることの要点は、私たちに明るさをもたらす光の源は「神の義」であり、それはイエス・キリストを信じることによって与えられるということであります。これがパウロが私たちに伝えようとしている「福音」という光であります。
 なお、22節の最後に、そこには何の差別もありません、とあります。これまでに人間の罪のことが語られて来た中でも、「ユダヤ人もギリシャ人も皆、罪の下にあるのです」と語られて来ましたが、「神の義」から発する光を受けるのも、ユダヤ人とかギリシア人とか、律法を守っているかいないかといったような差別は何もないということです。

2. 無償で義とされる

 次に23節から26節の部分に入りますが、ここは私たちに光をもたらす「神の義」の中身について述べられているところであります。まず23節では、人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっています、と言われています。人間は皆、罪を犯しているということは、既にこれまでのところで詳しく述べられて来たのですが、ここで新しく出て来たことは、「神の栄光を受けられなくなっています」ということです。「神の栄光」ということについて普段私たちはあまり考えたことがないと思いますが、ある人はこう説明しております。「『神の栄光』とは、人間がもし神に造られたままの状態であれば、本来、与えられて備えているはずのもので、無垢の人間の輝いた姿である。ちょうど月が太陽に光を受けて輝くように、人間が神の恵みの力を受けて、気高く、力強く、豊かに生きている状態である」(大宮溥)と。創世記によれば、人間は、神に似せて造られて、神様の祝福を受けて生きておりました。それは栄光に満ちた姿でありました。しかし、人間は神の栄光を受けて輝くよりも、自分で自分の栄光を輝かそうとして、罪を犯してしまいました。その結果、神様の栄光を受けて輝くことが出来なくなりましたし、自分の栄光を輝かすことも出来なくなりました。罪の状態から離れて、もう一度、神の栄光を受けることが出来る状態に戻していただかなければ、輝くことが出来ません。宗教改革者カルヴァンは「神の栄光のために」ということを強調しました。神の栄光のために生きるとは、神様の栄光を受けて、神様を礼拝することを大切にする生き方のことであります。では、どうすればそのような姿、そのような生き方に立ち帰ることが出来るのでしょうか。そこには罪の問題が大きく立ちはだかっています。その解決は私たち人間の精進努力によって達成されることではありません。

この罪の問題の解決のために神様がなさったことが24節から25節に、こう書かれています。ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。それは、今まで人が犯した罪を見逃して、神に義をお示しになるためです。――ここにはイエス・キリストによって為された「贖いの業」のことが書かれています。「贖い」とは奴隷を解放するために代価を払って買い取ることを意味する言葉であります。私たちは罪の奴隷であって、罪に縛られて、死と滅びから逃れることが出来ない状態にあります。しかし、イエス・キリストが御自分を犠牲として私たちの死と滅びを引き受けて下さって、罪の奴隷状態から解放してくださったのであります。神はキリストを立てて「罪を償う供え物となさいました」とも書かれています。旧約の時代には、年に一度、神殿において大祭司が命のシンボルである雄羊の血を注ぎました。それは雄羊の命が捨てられたことで、イスラエルの民が新しく生まれ変わることを意味しました。キリストの十字架の死は、キリストの血が流されることによって、人間の罪が赦されて新しい命に生きることが出来るようになったことを意味しています。そして、「それは、今まで人が犯した罪を見逃して、神の義をお示しになるためです」とあります。ここに「神の義」という言葉が出てきます。神様は人間の罪を曖昧になさいません。罪の赦しということは罪を大目に見るということではありません。神の義、即ち正しさが貫かれなければなりません。それには罪に対する犠牲が必要であります。それがイエス・キリストの十字架であり、それによって神様は「神の義」を貫かれたのであります。

26節は、この神の義を貫かれた御業が何のためであったかをもう一度述べています。このように神は忍耐してこられたが、今この時に義を示されたのは、御自分が正しい方であることを明らかにし、イエスを信じる者を義となさるためです。――ここに「神は忍耐してこられた」とあります。これは人間の罪は神様にとっても耐え難い重荷になっていたということであります。すぐ人間を罰して滅ぼすのは簡単であるかもしれないのですが、そうはなさらずに耐えておられたのであります。その挙句にイエス・キリストを犠牲にされて、正しさを貫かれたのであります。そして、そのイエス・キリストを信じる者が罪の罰をうけることなく「義となさる」、つまり正しい者として扱えるようにしてくださったのであります。この愛と憐みに満ちた扱いこそが「神の義」と言われることの中身なのであります。

3. 信仰による義

 さて、ここまでのところで、神様がイエス・キリストの十字架の贖いの御業によって神の義が貫かれたことを聴いてきたのでありますが、そのことがどのようにして個々の人間の救いに結びつくのか、ということが27節以下で語られています。その鍵になることが「信仰」ということであります。
 まず27節で、では、人の誇りはどこにあるのか、と問いかけています。人は誰でも自分の功績を誇りたいのであります。しかし、キリストの贖いの業よって無償で義とされるということであれば、救われるために人間の側で果たすことがないわけで、人間には誇れることは何もないのか、ということになります。この問に対してパウロはすぐ、それは取り除かれました、と答えています。人間の側に誇るべきことは何も残っていない、ということであります。そこでパウロは、人間の側で誇ることが出来なくなったのは、どんな法則によってか、と問うてみせます。そして、それに対する答えは、行いの法則によるのではなくて、信仰の法則によってです、と言い切るのであります。そして続けて、28節で、なぜなら、わたしたちは、人が義とされるには律法の行いによるのではなく、信仰によると考えるからです、と言います。「行いによる」というのは、人間が神様に認められるような善い行いをすることによって義とされる(正しいと認められる)ということで、その方が分かりやすいのですが、今はそうではなくて、信仰が求められるだけである、というのです。では、「信仰による」とはどういうことでしょうか。それは神様が差し出してくださった贖いの業によって義とされるということを、ただ信じて受け取るということであります。今日の最初に、律法によってはだれ一人神の前で義とされない暗闇の状態のことを述べましたが、今や、イエス・キリストによって現わされた神の義という光の源が与えられています。私たちはその光を、拒否するのでなく、信じて感謝して受け取るだけでよいのです。そうすることによって、罪の暗闇から解放されるのであります。ここには「福音」という言葉は登場いたしませんが、これこそ正に、パウロが何とかして伝えたいと考えている「福音」であります。
 29節、30節は、ユダヤ人と異邦人の問題を取り上げています。ユダヤ人は律法を神様から与えられており、それを守ることによって、神様から義と認められると思って来ました。それが今や崩されて、ユダヤ人でも行いによって救われるのでなくて、信仰のゆえに義とされるのでありますから、唯一の神様は、割礼のない異邦人も何の差別もなく、信仰によって義とされることになるわけです。

4.信仰が律法を確立する

 最後の31節は、信仰によって義とされるということだとすると、ユダヤ人が大切にしてきた「律法」はどうなるのか、大切にして来た律法というものは無になるのか、不必要なのか、という問題について述べられています。この問題についてパウロは、決してそうではない、と答えております。律法が無視されたのでも、無用の長物になったのでもない、とはっきり言っております。そして最後に、むしろ、律法を確立するのです、と言っております。パウロはここでは律法の役割について、これ以上に語ってはいません。しかし、イエス・キリストご自身がこう言っておられます。「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。」(マタイ517)律法自体は決して悪いものなんかではなく、むしろ神様が何を望んでおられるかを私たちに教えてくれる大切な役割があります。しかし、その教えるところを自分の力で達成できると思うところに過ちがあり、傲慢になり、神様との関係を崩してしまうことになります。私たちは律法によって自分自身の罪に気づかされて、神様の前に立つときに、神様がイエス・キリストによって示された神の義に出会うことによって、罪が赦されるとともに、律法の趣旨に沿う生き方が出来る者に変えられるのであります。

結. 神の栄光を受けて

 最後に、もう一度23節で述べられていた「神の栄光」という言葉に立ち戻りたいと思います。そこで申しましたように、人間は本来、神様の栄光を受けて輝くものとして造られました。しかし、傲慢にも自分の力で輝こうとして、罪に陥ってしまいました。そして、罪の暗闇の世界をさ迷うほかなくなったのでありました。しかし今や、神様はイエス・キリストの十字架の贖いの御業によって、神の義(神の正しさ)を貫いてくださいました。そのことによって、暗闇の世界に神の栄光の光が射し込んで来たのであります。あとは、私たちがその光を、信仰をもって感謝して受け取るだけであります。そうすると、私たちのような者も本来の輝きを取り戻すことが出来るのであります。そして、神様の御栄光を輝かすことさえできるのであります。
 感謝して祈りましょう。

祈  り

栄光の主である、父なる神様!御名を賛美いたします。
  力のない者でありますのに、傲慢にも自分の力で自分の人生を輝かそうとして、あなたの御心から逸れた生き方をしてしまって、あなたの光を見失ってしまうことが多い、愚かで罪深い者でございます。
  そんな私たちのために、今日も御言葉によって、あなたの義をはっきりとお示しくださり、あなたの恵みの光の下へと立ち帰ることができるようにしてくださったことを感謝いたします。
  どうか、イエス・キリストの御業によって現わされているあなたの御栄光の光を仰ぎ続けるものとならせてください。どうか、私たちの生活のすべてにわたって、あなたの光を行き渡らせてください。
  主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

主日礼拝説教<全原稿> 2016年2月21日  山本 清牧師 

 聖  書:ローマの信徒への手紙3:21-31 
 説教題:「
信仰による義」         説教リストに戻る