イエスはその木に向かって、「今から後いつまでも、お前から実を食べる者がないように」と言われた。14・・・ペトロは思い出してイエスに言った。「先生、御覧ください。あなたが呪われたいちじくの木が、枯れています。」そこで、イエスは言われた。「神を信じなさい。・・・」(2122)      (マルコによる福音書11142122

 主イエスはエルサレム入城の翌日、空腹を覚えられて、葉の茂ったいちじくの木を見て、実がなっていないかと近寄られたが、葉のほかには何もなかったので、標記(14)のように呪われた。そして翌朝、通りがかりに、そのいちじくの木が根元から枯れているのを見たペトロが驚いて標記(21)のように言った。
 この枯れたいちじくの木は何を表わしているのだろうか。一つは、主イエスに勝手な期待を抱くだけで、主がエルサレムで何をなさろうとしているかを理解しない弟子たちや人々のことと考えられる。また、ルカ福音書にある「実のならないいちじくの譬え」から、イスラエルの民のことと受け取ることも出来る。更に、この日主イエスは神殿に行って、商売をしていた人々を追い出されたことが記されているので、祈りの場であるべき神殿の腐敗と滅びを指摘されたと見ることもできる。だが、ここで私たちは、私たち自身が「実のならないいちじくの木」ではないか、ということを思わねばならない。
 では、主イエスは、不信仰で無理解な弟子たちや私たちを、ただ呪うためだけに、このような厳しい言葉を語られたのであろうか。ペトロは主イエスが呪われた木が枯れていたことに驚いたようであるが、ここで彼が思い出さねばならなかったのは、主イエスがエルサレムに来られたのは、十字架を負うためであったことである。いちじくの木が実をつけていなかったのは、いちじくの季節ではなかったからであり、いちじくには何の問題もない。そのいちじくの木が枯れたのは、罪なくして十字架にお架かりになる主イエスを指示しているのではないか。
 主イエスが「神を信じなさい」(22)と言われたのはなぜか。単に神の奇跡的な力を信じなさいということではなく、本当なら枯れるしかない私たちが、主イエスによる救いの御業によって新しい命に甦ることを信じなさい、ということではないか。私たちの中に巣食っている罪こそが、私たちの前を遮っている最大の山であるが、主イエスはそのような山をも、十字架と復活の御業によって動かしてくださるのである。

主日礼拝説教<要 旨> 2016年2月14日  山本 清牧師 

 聖  書:マルコによる福音書11:12-14、20-25 
 説教題:「
枯れたいちじくの木」 説教リストに戻る