序. 呪いの中に福音を聴く

 今日は教会の暦ではレント(受難節=四旬節)の第一主日であります。レントというのは、イースターの46日前から始まるのですが、その最初の日を「灰の水曜日」と呼んで、今年は先週の水曜日210日がそれでありました。初期のキリスト教会ではレント(受難節)の間、主イエスが荒れ野で40日間誘惑を受けられたことを偲んで、日曜日を除く40日間の断食をしたそうであります。今はそういうことを致しませんが、この期間に主イエスの御受難を偲びつつ過ごすということは意義のあることであります。当伝道所の主日礼拝では、この期間にマルコによる福音書に記された受難週の出来事から順に御言葉を聴いて参ることにしております。
 今日与えられております箇所は、先週聴いた受難週第一日(棕櫚の日曜日)のエルサレム入城の翌日と、その翌朝の出来事であります。ここには空腹を覚えられていた主イエスが、<葉ばかりで実がなっていないいちじくの木>に向かって呪われたことと、翌朝、その呪われたいちじくの木が枯れていたことが書かれていて、何だかいつものお優しい主イエスとは違う印象を受けるのであります。礼拝説教というのは、聖書から福音を聴き取って語らなければならないのですが、ここに記された出来事から福音を聴き取るのが大変に難しく思える、説教者泣かせの箇所であります。そこで突き止めなければならないのが、<葉ばかりで実がならないいちじくの木>が何を表わしているか、ということであります。今日は、このことを問いながら与えられた箇所から、ご一緒に喜びの福音を聴き出したいと思っております。

1. 実のないいちじくの木への呪い

 まず冒頭の12節ですが、こう書かれています。翌日、一行がベタニアを出るとき、イエスは空腹を覚えられた。――「翌日」というのは、すぐ前に書かれていますエルサレム入城の日の翌日であります。主イエスの一行はエルサレムに入城されるとすぐ神殿の境内に入って、辺りの様子を見て回った後、町を出てベタニアへ出て行かれたことが書かれていました。おそらくそこに住んでいたマルタ、マリア、ラザロ姉妹兄弟の家で宿泊されたのではないかと思われます。翌日、一行はそこを出発して、エルサレムに向かわれたのでありますが、なぜか空腹を覚えられました。ベタニアの家で朝食もとらずに出発されたのでしょうか。前日に神殿の様子を見て、このあと15節以下に記されているような「宮清め」と言われていることを急いで行う必要を感じられて、食事もとらずに出発されたのかもしれません。詳しい事情は分かりませんが、十字架の時が近づいているという強い切迫感と緊迫感をここから感じ取ることが出来るのではないでしょうか。
 そのような緊迫感の中で、13節には、主イエスが葉の茂ったいちじくの木を遠くから見て、実がなっていないかと近寄られたが、葉のほかは何もなかった。いちじくの季節ではなかったからである、と書かれています。過越しの祭の時期ですから、その頃はいちじくの葉はよく茂っているのですが、実は初夏が来るまでは実りません。しかし、去年の実が年を越して残っている場合があったようですし、まだ熟してはいないが食べられる青い実がついていたことが考えられますので、主イエスはそんなことをよく知っておられて、実があることを期待されたのかもしれません。だが実は一つもありませんでした。そこで14節にあるように、主イエスはその木に向かって、「今から後いつまでも、お前から実を食べる者がないように」と言って、呪われたのであります。これは、期待外れのいちじくの木に対して腹立ちまぎれに悪態をついておられるようにも思えるのですが、そのように見るべきではありません。これは、いちじくの木が実をつけていなっかたことを象徴的に捉えて、主イエスの思いを伝えようとされたと考えるべきであります。それはどのような思いでしょうか。その思いを読み解くには、「実をつけないいちじくの木」によって何が表わされているのかを考える必要があります。そこでヒントになることがいくつかあります。
 一つは、ここに至るまでに聴いてきたことですが、主イエスと一緒にエルサレムにやってきた弟子たちや人々は十字架に向かわれる主イエスの思いを理解していなかったということです。つまり、実がならないいちじくは、主イエスに勝手な期待を抱くだけで主イエスがエルサレムで何をなさろうとしているかを理解しない弟子たちや人々のことではないか、ということです。
 二つ目のヒントは、今日の聖書箇所からは省いた15節から19節までの中にヒントがあるのではないかということです。そこには主イエスが神殿に行かれてそこで商売をしていた人々を追い出されたことが書かれているのでありますが、そこには「祈りの家」であるべき神殿が「強盗の巣」になってしまっているという嘆きが記されています。これは、神殿での礼拝のあり方に対する批判であります。前日に神殿の様子を見て回られて、その感を一層強められたのかもしれません。つまり、葉ばかりで実がならないいちじくの木は、エルサレム神殿のことであり、ひいては当時の宗教指導者を初めとするイスラエルの人々のことではないか、ということです。
 三つ目のヒントは、ルカ福音書13章にある「実のならないいちじくの木」の譬えであります。ぶどう園の主人が実のならないいちじくの木を切り倒すように園丁に命じたのですが、園丁は自分が木の周りを掘って、肥しをやってみますので、来年まで待ってくださいとお願いしたという譬えです。そこでのいちじくの木とは、イスラエルの民のことと受け取ることが出来ます。
 
三つのヒントを取り上げましたが、それらを基に、「実のならないいちじくの木」を弟子たちや当時のイスラエルの民や宗教指導者のこととして読み取っただけでは、主イエスの深い思いを受け取ったことにはならないでしょう。ここで私たち自身が「実のならないいちじくの木」ではないだろうか、ということに思い至らなければならないのではないでしょうか。米子伝道所は昨年、「御言葉が実を結ぶ」ということを目標に掲げて歩んで参りました。そして、私たちが特段の働きをしたわけでもないのに、思いがけない実を結ぶことが出来たのでした。しかし、私たち自身はどうであったか、ということを顧みるならば、主イエスのご期待には沿わない「実をつけないいちじくの木」でしかなかったのではないか、厳しい呪いの言葉を受けても仕方のない者でしかなかったのではないか、と思わざるを得ないのであります。
 しかし、聖書は私たちの反省を促すためにだけ、このような「実のならないいちじくの木」のことを書き留めたのでしょうか。主イエスは、不信仰で無理解で実を結ばない弟子たちや私たちを、ただ呪うためだけに、このような厳しい言葉を語られたのでしょうか。

2. 枯れたいちじくの木

 間の1519節を飛ばして20節、21節を見ますと、「実のならないいちじくの木」の悲劇的な結末が記されています。翌朝早く、一行は通りがかりに、あのいちじくの木が根元から枯れているのを見た。そこで、ペトロは思い出してイエスに言った。「先生、御覧ください。あなたが呪われたいちじくの木が、枯れています。」――翌日の朝早くにベタニアを出て同じ道をエルサレムに向かわれたのでしょうが、あの「実のならないいちじくの木」が根元から枯れているのをペトロが発見いたしました。ペトロは主イエスの呪いが現実となったことを、驚きをもって受け止めています。ペトロはこのとき、「実のならないいちじくの木」が枯れたことの意味を理解できたのでしょうか。ただ、主イエスの呪いの言葉が現実となったことに驚いているだけなのでしょうか。しかし、聖書がこのことを記しているのは、ただ主イエスの御言葉の不思議な力を伝えようとしているだけではないでしょう。先ほども述べましたように、主イエスの期待に応えられないいちじくの木である弟子たちやイスラエルの民や、教会に連なる私たちは、枯れざるを得ない者たち、死ぬべき者たちであるということを、自分たちのこととして受け止めなければならないでしょう。

 しかしここでよく考えなければならないのは、主イエスは弟子たちやイスラエルの民や教会に連なる私たちを呪って滅ぼすためにエルサレムに来られたのではないということであります。ペトロは「あなたが呪われたいちじくの木が、枯れています」と申しました。しかし、ペトロは主が何のためにエルサレムに来られたかを思い起こさなければなりません。主イエスは既に三度も十字架のことを予告なさいました。主イエスご自身が人々の罪を背負って十字架の上で枯れようとなさっているのであります。何の罪もない主イエスが神様の呪いを受け、裁きを受けようとなさっているのであります。13節を見直すと、そこには「いちじくの季節ではなかったからである」と記されています。実がなっていなくて当然であります。いちじくの木そのものには、枯れるべき理由はないのであります。何の問題もないいちじくの木が枯れたのであります。このことから考えられることは、このいちじくの木で表わされているのは、罪なくして十字架にお架かりになったイエス・キリストのことではないか、と気づかされるのであります。

3.「神を信じなさい」

 このあと22節で、主イエスは「神を信じなさい」と言われて、信仰のことを話し始められ、信仰をもって祈るべきことを教えられます。この話とこれまでの「実のならないいちじくの木」の話とはどうつながっているのでしょうか。主イエスの呪いの言葉で、まるで奇跡のように枯れたいちじくの木が、どんなに難しいことでも、疑わずに信じて祈れば実現する、ということを表わしていると言っているのでしょうか。ここではそのようなつながりはないと思われます。
 ここまで見て来ましたように、十字架に向かわれる主イエス・キリストとのつながりの中で、「神を信じなさい」というお言葉を聴かなければならないのではないでしょうか。「実のならないいちじくの木」とは、弟子たちのことであり、イスラエルの民のことであり、私たちのことでありました。そんないちじくの木である私たちは、枯れて当然、滅びて当然であります。しかし、そんな者たちのために主イエスが枯れたいちじくの木になってくださるのであります。十字架に架かって命を捨ててくださったのであります。そして、枯れるべき私たちが新しい命に甦ることが出来るのであります。そのような救いの御業をなしたもう「神を信じなさい」と言っておられるのではないでしょうか。そういう続き具合で受け取るべきであります。
   1519節のところでは、祈りの家であるべき神殿が強盗の巣になっていることに対して主の怒りが示されたことが書かれています。やがてエルサレム神殿は、「実のならないいちじくの木」が枯れるように、ローマの手によって滅ぼされることになります。しかし、主イエスの十字架と復活の後に、神殿は祈りの教会として新しく生まれ変わって生き続けることになるのであります。
 現代の教会も、そして私たちのこの小さな教会も、その内と外にある罪のゆえに、呪いを受けて滅ぶべき存在であります。神様の厳しい裁きを覚えて、たとえ悔い改めたとしても、自分たち自身の力で生まれ変わることは決して出来ません。そうした中で、主イエスは私たちに「神を信じなさい」とおっしゃるのであります。
 そして23節でこう言われます。「はっきり言っておく。だれでもこの山に向かい、『立ち上がって、海に飛び込め』と言い、少しも疑わず、自分の言うとおりになると信じるならば、そのとおりになる。」――とうてい動きそうにない山も、疑わずに信じて祈るならば、動くとおっしゃるのであります。私たちにとっての「山」とは何でしょうか。私たちの人生の行き先に大きな山が立ち塞がっているように思える時があります。障害を持つ人たちの癒しを願っても、なかなか光が見えて来ません。教会に連なる求道者一人一人の信仰が育てられ、教会の群れが大きく成長することを願っても、現実の社会の状況の中では、自分たちの力では動かせない「山」があるように思えます。また、私たち自身の中に巣食っている罪こそが、私たちの救いを遮っている最大の山かもしれません。けれども主イエスは、そのような動きそうにも思えない山も、少しも疑わずに信じて祈るならば、そのとおりになる、と言われるのであります。それは、私たちの熱心な祈りに力があるということではありません。祈りとは私たちから神様への働きかけのことで、それを繰り返しているうちに、神様もついに根負けして、山を動かしてくださるということではありません。山を動かされるのは神様の御意志によることであり、あくまでも神様がなさる働きであります。祈ること自体も神様の働きであります。神様を私たちの家来であるかのように、私たちの思い通りに動かすことは出来ません。それは祈りではありません。神様を信頼して御心に委ねるときに、祈りが芽生えるのであります。神様が祈りを導いてくださいます。
 24節では、だから、言っておく。祈り求めるものはすべて既に得られたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになる、と言われています。祈りとは、私たちの願いを叶えるためにするというよりは、神様が私たちのために既に備えていてくださることを見出していくこと、発見していくことであります。神様は私たちに必要なものを御存知であり、もっともよい時期に、もっともよい形で与えてくださいます。そのことを信じて祈る時に、私たちの祈り自体が、神様の御心に合わせられ、その祈りが叶えられるのであります。
 最後に25節では、赦しのことが教えられています。また、立って祈るとき、だれかに対して何か恨みに思うことがあれば、赦してあげなさい。そうすれば、あなたがたの天の父も、あなたがたの過ちを赦してくださる。――ここには、祈ることと、人の罪を赦すことと、自分の罪が神様によって赦していただくことの関係が語られています。ここで言われていることは、主の祈りの中で「我らに罪を犯す者を我らが赦すごとく、我らの罪をも赦したまえ」と祈るのと同じことが語られています。これらは、言葉の表面だけ聞くと、私たちが先に人を赦さないと神様は私たちを赦してくださらないかのように聞こえます。けれども、人の罪を赦すことが、私たちの罪を神様に赦していただくための交換条件だというのではありません。既に神様は私たちの罪の赦しのために、独り子イエス・キリストを十字架に送ってくださいました。そのことによって私たちの罪を赦してくださっているのであります。しかし、私たちの罪が赦されていることの恵みは、私たち自身が、人の罪を赦すことが出来ますようにと神様に祈ることによって、神様との交わりに生きることの中で与えられるのであります。

結. 赦しに生きる

 今日は「実のならないいちじくの木」をめぐって、御言葉を聴いて参りました。「実のならないいちじくの木」とは、弟子たちやイスラエルの民や当時の誤った宗教指導者たちのことであると共に、正に私たち自身のことであることを思い知らされたのであります。しかし、そのような者たちのためにこそ、神様は主イエス・キリストをお遣わしになり、十字架へと向かわされたのでありました。そして、主イエスご自身が「枯れたいちじくの木」になって死んでくださいました。そのことによって、私たちをもう一度、実のなるいちじくの木にしてくださったのであります。そこには神様の大きな愛があり、赦しがあります。私たちはその赦しの御心の中に生きることへと招いていてくださるのであります。それは、私たちが人を赦す生き方を始めることであり、私たち自身の人生や私たちの教会の前に立ち塞がるように見えている大きな山が動き出すことでもあります。私たちはそのことを為してくださっている神様を信じて祈るのであります。祈りましょう。

祈  り

救い主イエス・キリストをお遣わしくださった父なる神様!
  その深く大きな愛を覚えて、御名を賛美いたします。
  私たちの中には、なおあなたに全てを委ね切れない不信仰があり、葉ばかりで実のならないいちじくの木のような者であって、枯れて滅びるしかないような者でありますが、そのような者をも赦しの恵みの中に招き入れようとしてくださっていることを、覚えさせていただきました。感謝いたします。
  どうか、素直に信じ、招きの御言葉に従う者とならせてください。そしてどうか、私たちのような者でも、少しでもあなたに喜んでいただける実をつけることができる者とならせてください。
  人生に立ち塞がる大きな山のために立ちすくんでいる方々に、あなたの恵みの招きの言葉が届きますように。この世の幸せや楽しみに甘んじて、神の国の喜びに心を向けようとしない人々が、実のならない木になって枯れることがありませんように、どうか、あなたが憐みをもって顧みてくださいますように。
 主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

主日礼拝説教<全原稿> 2016年2月14日  山本 清牧師 

 聖  書:マルコによる福音書11:12-14、20-25 
 説教題:「
枯れたいちじくの木」         説教リストに戻る