「向こうの村へ行きなさい。村に入るとすぐ、まだだれも乗ったことのない子ろばがつないであるのが見つかる。それをほどいて、連れて来なさい。もし、だれかが、『なぜ、そんなことをするのか』と言ったら、『主がお入り用なのです。すぐここにお返しになります』といいなさい。                   (マルコによる福音書1123 

 主イエスの一行が、十字架の待っているエルサレムに近づいたとき、主イエスは二人の弟子たちを使いに出そうとして、標記のように命じられた。二人が出かけて行くと、主の言葉通りのことが起こり、子ろばを借りることができた。これは主イエスが予知能力をお持ちであることを語ろうとしているのではない。ここで大切なことは、①主イエスが、凱旋将軍が乗るような勇猛な馬ではなく、見栄えのしない「子ろば」に乗って入城しようとされたこと、②「まだだれも乗ったことのない子ろば」が用いられたように、主がなさっていることはこれまで誰も為しえなかった「聖なる御業」であること、③「がお入り用です」と、御自身のことをすべてを支配する「主」であるとお示しになったこと、④そして何よりも重要なことは、すべてのことを、御自分の御意志で計画され、それを実行しようとされていて、その背後には祈りによって受け取られた神様の御心があるということである。
 弟子たちは自分の服(上着=命を守る大切なものであった)をろばの背にかけ、多くの人々も上着を道に敷いて、「ホサナ」と歓呼して主イエスを救い主として迎えた。だが、主イエスは、彼らの叫びがやがて「十字架に架けろ」との声に変わることを御存知でありつつも、十字架に向かって敢然とエルサレムに入城されたのである。
 この光景は、礼拝に来ている私たちの姿を映し出しているのではないか。私たちも主イエスに対して手前勝手な期待を抱いて集まって来ているものの、その信仰は不確かな者たちなのであるが、主イエスは神様の御心に従って、「子ろば」として、私たちの罪を担って十字架に架かってくださる真の主なのである。この主イエスを、私たちの心の内に、また日常生活の内に喜んでお迎えしたいものである。

主日礼拝説教<要 旨> 2016年2月7日  山本 清牧師 

 聖  書:マルコによる福音書11:1-11 
 説教題:「
子ろばに乗る王」 説教リストに戻る