序. エルサレムに近づいて

 2月に入りましたが、教会の暦では来週からレント(受難節)に入ります。主イエスのお苦しみと十字架の死を覚える期間であります。そのレントを前にして、今日与えられている聖書の箇所は、主イエスがいよいよ十字架の待っているエルサレムに入られた時の出来事が書かれています。この箇所は普通、受難週に入る主日(棕櫚の主日)に取り上げられることが多いのでありますが、今年はこの箇所をレントの前に取り上げさせていただいて、その後、このマルコ福音書とルカ福音書によって受難週と十字架の出来事を見て行く予定にしています。
 さて、今日の箇所の冒頭には、一行がエルサレムに近づいて、とあります。「一行」というのは、9章の初めの頃は主イエスと弟子たちでありましたが、途中からは、ちょうど過越しの祭のためにエルサレムに向かう巡礼の人々とも一緒でありました。しかし、これまでに見て来ましたように、弟子たちは、主イエスが御自分の死と復活のことを三度も予告されても、そのことを深く真剣に受け止めることが出来ませんでしたし、多くの人々も主イエスが癒しの業などをされたので、尊敬をし、この方こそイスラエルを救うお方ではないかと期待を抱いたりしましたが、やはりエルサレムで何をなさろうとしているかということについてはよく分かっていませんでした。そんな集団の一行がエルサレムに近づいたのであります。
 こんな一行の姿というのは、こうして礼拝に集まって来ている私たちの姿を映し出していると言えるのではないかと思います。エルサレムというのは神様を礼拝する神殿があるところであります。人々はそこで、過越しの祭という、イスラエルの民をエジプトでの奴隷状態から解放してくださった恵みを思い起こす祭りを祝うためにやって来ております。それは神様が定められた律法に従った行為であって、その意味では、御心に適ったことをしているのであります。しかし、主イエスがエルサレムでなさろうとしておられることは、伝統的な過越しの祭に参加するだけではありませんでした。かつての出エジプトの時には子羊の血を家の柱と鴨居に塗ることによってイスラエルの人々が災いから逃れ、エジプトの奴隷状態から脱出出来たのですが、今度は主イエスがエルサレムで、ご自身の血を十字架上で流されることによって、すべての人々を罪の奴隷状態から解放する御業をなさろうとしておられるのであります。しかし、そのことを、エルサレムに向かう多くの人たちは知りませんし、弟子たちすらよく分かっていなかったのであります。そんな弟子たちや人々の姿は、こうして神様を礼拝するために教会にやって来ている私たちの姿でもあるのではないでしょうか。今日は、このエルサレムに入られる主イエスと弟子たちや人々の姿を通して、主イエスが私たちに何をしてくださったのか、そして今の私たちに何を望んでおられるのかということを聴き取りたいと思います。そして、御心に適った礼拝をして、主の御心に従って行く者たちへと変えられたいと思うのであります。

1.子ろばの準備

 今日の箇所の前半には、エルサレムに入るに先立って、主イエスの指示に従って、二人の弟子が村に入って、主イエスがお乗りになる子ろばを調達したことが書いてあります。主イエスは二人にこう命じられました。「向こうの村へ行きなさい。村に入るとすぐ、まだだれも乗ったことのない子ろばのつないであるのが見つかる。それをほどいて、連れて来なさい。もし、だれかが、『なぜ、そんなことをするのか』と言ったら、『主がお入り用なのです。すぐここにお返しになります』と言いなさい。」こうして二人は出かけると、主イエスのお言葉どおりに子ろばのつないであるのを見つけて、それをほどいていると、主イエスがおっしゃったように居合わせた人にとがめられたので、二人が言われたとおり話すと、許してくれました。これは何を示しているのでしょうか。これは、主イエスが予知能力のような奇跡的な力をお持ちであったということを語ろうとしているのでしょうか。あるいは、主イエスご自身が前もって何らかの方法でろばの持ち主と連絡をとって、話をつけてあっただけのことかもしれません。大切なことは、簡単に子ろばを借りることが出来たことにあるのではありません。
 大切なことの第一は、主イエスが「子ろば」に乗って、エルサレムに入ろうとされたことであります。ろばは見栄えがしない動物であります。馬のように堂々とはしていませんし、勇猛ではありません。戦場で用いるのは馬であって、ろばではありません。凱旋将軍が乗るのも馬であります。ろばは忍耐深く、寡黙であります。そのようなろばは、平和の君、十字架の主であるイエス・キリストに相応しい乗り物であります。
 大切なことの第二は、主イエスが指定されたのは「まだだれも乗ったことのない子ろば」であったということです。旧約聖書の考え方によれば、聖なる目的に用いられる動物や物は、まだ使われたことのないものでなければならないとされていました。主イエスがこれからエルサレムでなさろうとしておられることは、聖なる御業でありますし、主イエスより前には誰も為し得なかったことであります。だからこそ、「まだだれも乗ったことのない子ろば」でなければなりませんでした。
 大切な第三のことは、「主がお入り用なのです」と言うように命じられたことです。ここで主イエスは、御自分のことを「主」と言っておられます。福音書の中で、御自分のことをそのように言われたことがないので、これはろばの飼い主とあらかじめ連絡をとっておられて、その飼い主のことを「主」と言われたという解釈も考えられますが、むしろ、これまで自分のことを「主」とはおっしゃらず、むしろ人々に仕える僕として歩んで来られたのですが、ここで、子ろばに乗ってエルサレムに入る者こそ、すべてを御支配なさる主であることを示されたと見ることが出来るのではないでしょうか。
 そして、第四のことは、これが最も重要なことなのですが、すべてのことを御自分の御意志でご計画され、それを実行しようとされているということであります。もちろん、その背後には、神様の御意志があった筈であります。1節に、オリーブ山のふもとにあるベトファゲとベタニアにさしかかったとき、とあります。このあとの十字架までの記事を見て参りますと、主イエスは昼間は神殿などで論争をしたりなさるのですが、夜はベタニアに戻って宿泊されたようであります。その近くにはオリ-ブ山がありまして、そこからはエルサレムの神殿が見えました。そのオリ-ブ山のふもとにあるのがゲッセマネの園であります。最後の晩餐のあとで苦渋の祈りをされた場所であります。ですから、この時も、ゲッセマネで深い祈りをされ、その中で神様の御心をお聴き取りになったということが想像されます。そして、御心に従ってエルサレムに入る準備をされたのではないでしょうか。そういう意味では、ここで「主」というのは、父なる神様のことを指して言われたのかもしれません。今、主イエスは神様の御心を受けて、十字架の待っているエルサレムに入って行こうとされているということであります。

2.子ろばに乗る王

 主イエスの一行がエルサレムに入られた時の様子は78節にこう記されています。二人が子ろばを連れてイエスのところに戻って来て、その上に自分の服をかけると、イエスはそれにお乗りになった。多くの人が自分の服を道に敷き、また、ほかの人々は野原から葉の付いた枝を切って来て道に敷いた。先ほど「子ろば」が用いられた意味について御説明いたしましたが、旧約聖書の朗読で読んでいただきましたゼカリア書の9章9節にも、こう書かれていました。娘シオンよ、大いに踊れ。娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者、高ぶることなく、ろばに乗って来る。雌ろばの子であるろばに乗って。――ここには勝利の凱旋をする王が、子ろばに乗って来て、歓呼をもって迎えられることが預言されています。先ほども申しましたように、戦いに勝利して凱旋する者は軍馬に跨って入城するのですが、真の救い主であり、王であるキリストは、高ぶることなく柔和なろばに乗って入城されるのが相応しいのであります。

 子ろばを連れてきた二人の弟子は、主イエスを鞍のないろばの背中に直にお乗せするのは申し訳ないと思ったのか、或いは主イエスの入城を少しでも立派なものにしたいと考えたのでしょうか、「自分の服をかけ」ました。ここでは「服」と訳されていますが、原文は「上着」であります。上着と言えば、すぐ前の、盲人バルティマイが主イエスに呼ばれて、喜んで躍り上がった時に、上着を脱ぎ捨てたことが書かれていました。その時に、当時の上着というのは身を守る大切なものであったということを申しました。二人の弟子がその大切な上着を提供したのであります。主イエスは喜んでその上にお乗りになりました。

 8節には、「多くの人が自分の服を道に敷き」とあります。列王記には、イエフという人が急に王とされた時に、人々が取り敢えず自分たちの上着を敷いたという故事が記されていますが、ここでも多くの人が自分の服を道に敷きました。これは自分の安全を手放して、身を委ねることを意味する行為であります。また、「ほかの人々は野原から葉の付いた枝を切って来て道に敷いた」とも書かれています。これも恭順を示すしるしだと言われます。人々はこうして主イエスを新しい王になるべきお方として歓迎したのであります。ここに「多くの人」、また「ほかの人々」とあります。11節になってから「エルサレムに着いて」とありますから、まだエルサレムの町に入る前のことを書いているわけで、これらの人々というのはガリラヤ地方から一緒にやってきた人々だと考えられます。その中には、あの盲人であったバルティマイもいたと思われます。彼らはこれまでの主イエスの御言葉や御業を見聞きして、新しい王になるべきお方だと思って、本気でこの方に従って行こうと考えていたのでしょう。しかし主イエスは、この先どういうことが起こるかを御存知であった筈であります。やがて数日後には、人々は主イエスに失望して、「十字架に架けよ」と叫ぶことになります。主イエスはそのことをすべて御承知の上で、黙々と子ろばに乗って、エルサレムに入って行こうとされるのであります。

3.ホサナ――だが受難週へ

 9節、10節には人々が叫んだ言葉が記されています。「ホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように。我らの父ダビデの来るべき国に、祝福があるように。いと高きところにホサナ。」
 これは詩編118編の25節以下から取った言葉で、本来はエルサレム神殿を訪れる巡礼者たちが祭司に述べる祝福の言葉だったのではないかと言われますが、ここにはダビデ王の子孫として生まれるとされた救い主メシアを歓迎する言葉として叫んでいるのであります。「ホサナ」というのは、「今救ってください」という意味の言葉です。つまり、イスラエルの民が長く待ち望んできた救い主の到来が、主イエスによってここに成就することを期待して、叫んでいるのであります。盲人であったバルティマイが「ダビデの子イエスよ」と叫んだ時は、周りにいた多くの人々が叱りつけて黙らせようとしました。それは、皆が主イエスのお話を聞こうとしているのにやかましいから黙らせようとしたということもあったかもしれませんが、それよりも、主イエスの命を狙っている人たちに聞こえると、彼らの攻撃を受けかねなくて危険だからということがありました。ここエルサレムでは、そういう命を狙っている人たちがいる危険性はもっと高かった筈ですのに、ここでは、そういうことにお構いなしに、「前を行く者も後に従う者も」、主イエスがダビデの子孫に生まれるとされていた救い主になってほしいということをはっきりと口に出しているのであります。それは、盲人のバルティマイの目が開かれたことなどもあって、主イエスに対する人々の期待が一層高まったということもあるかもしれません。ルカ福音書の平行記事によりますと、そこにファリサイ派の人々がいて、主イエスに向かって「先生、お弟子たちを叱ってください」と言ったのに対して、主イエスは「言っておくが、もしこの人たちが黙れば、石が叫び出す」と言われたことが記されています。もはや、主イエスに期待する声は止めることが出来ない、ということであります。しかし主イエスは、彼らの叫びが本物ではないことを知っておられます。やがて彼らは、主イエスがこの世的な期待を満たしてくれる王ではないと見ると、失望して、ついに彼らの声は「十字架に架けろ」という声に変わることも御存知であります。そして、その民衆の声が、ローマ総督ピラトをも動かして、十字架へと引き渡されることになることも御存知であります。そして主イエスはその御受難に向かって敢然とエルサレムに入って行こうとされているのであります。それが父なる神様の御心であり、主イエスの御使命であります。その御使命を果たそうとの強い御心・御決意が、子ろばに乗ってエルサレムに入られる主イエスのお姿によって表わされているのであり、それが旧約聖書の中で預言されている救い主到来の成就なのであります。

結.エルサレムに着いて

 最後に11節にはこのように記されています。こうして、イエスはエルサレムに着いて、神殿の境内に入り、辺りの様子を見て回った後、もはや夕方になったので、十二人を連れてベタニアへ出て行かれた。
 こうして主イエスの一行は、エルサレムに入られると、まっすぐに神殿の境内に行かれました。もし主イエスがこの世の王になられるのであれば、熱狂的になっている多くの群衆を引き連れてピラトの官邸に押し寄せれば、大きな社会変革を成し遂げることが出来たかもしれません。しかし、主イエスは神殿に行って、辺りの様子をご覧になりました。それは主イエスが政治的な改革ではなく、神殿の改革、礼拝の改革をなさろうとしておられたからであります。翌日には、神殿に行かれて「宮清め」と呼ばれることを行なわれたことが書かれています。この日はもう夕方になっていましたので、弟子たち十二人だけを連れて宿泊場所のベタニアに戻られました。それは単に夜の憩いの時を持つためだけではなかったでしょう。もう一度神様に祈って、明日からの戦いに向けて、そして十字架に向けて、御心をお確かめになるためだったに違いありません。
 今日の冒頭で、エルサレムで何が起こるのかもよく分からないままエルサレムに向かっている弟子たちや大勢の人々の姿は、礼拝に集まって来ている私たちの姿を映し出している、ということを申し上げました。そのような私たちも、ここまで子ろばに跨ってエルサレムに入られた主イエスのお姿を見て、主イエスの御心を少し理解することが出来たのではないでしょうか。私たちもまた、主イエスに様々な期待をいたします。そして、バルティマイの懸命な求めを信仰とみなしてくださったように、私たちの切実な求めに応えてくださるお方でもあります。しかし、主イエスが私たちに与えようとしておられることは、もっと大きいことでありました。イエス・キリストの大きな犠牲を伴うものでありました。その御業のことを知らしめるために、主イエスは今日も、私たちのエルサレムである教会の礼拝に、御言葉をもって来てくださったのであります。その主イエスを、私たちもありったけのものを献げて賛美して、心の内に、また私たちの日常の生活の内にお迎えしたいものであります。
  主イエスはまだ誰も乗ったことのない「子ろば」を「主がお入り用なのです」と弟子に言わせて、御自分のエルサレム入城のためにお用いになられました。私たちも、力のない「子ろば」に過ぎない者でありますが、そのような私たちをも、「入り用だ」と言って、用いてくださるのであります。
 お祈りいたします。

祈  り

救い主にして王なるイエス・キリストの父なる神様!
  主イエスを私たちの王としてお迎えするために、私たちをこの場所にお招きくださいましたことを感謝いたします。私たちは、主イエスに対して手前勝手な期待を抱いてしまう者であり、主イエスをお苦しめするだけの者であることを恐れます。どうか、そんな私たちをお赦しください。どうか、憐みの御心のこもった救いの御業が、私たちのためであることを深く思い知らせてください。そしてどうか、主の御用の一端でも担うことのできる一匹の「子ろば」として用いられ、御栄光を表わすことの出来る者としてくださいますように。
  主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。

主日礼拝説教<全原稿> 2016年2月7日  山本 清牧師 

 聖  書:マルコによる福音書11:1-11 
 説教題:「
子ろばに乗る王」         説教リストに戻る