ユダヤ人もギリシア人も皆、罪の下にあるのです。・・・「正しい者はいない。一人もいない。・・・彼らの目には神への畏れがない。
                        (ローマの信徒への手紙3:9,10 

 パウロは321節以下で「信仰による義」という、この手紙の中心テーマを述べるのであるが、その前に、標記のように「正しい者は一人もいない」ことを語る。ユダヤ人たちは、律法を守ることによって、正しい者とされると思っていた。だがパウロはイエス・キリストに出会って、自分の間違いに気づかされた。しかし、ここでは「ユダヤ人もギリシャ人も」と語っているように、民族や宗教の違い、神の選びの民(ユダヤ人)であるかどうか、教会に来ているかどうか、といった区別を超えて、すべての者が「正しい者」ではないと宣告し、「罪の下にある」と言っている。「罪」とは、人間が何か間違ったことをするというより、人間を有無を言わせず抑え込んで、支配下に治めて、引きずって行くような、巨大な力のことである。この罪は、私たちが反省するとか、心を入れ替えれば解決するようなものではなく、良い行いを積み重ねるとか、教会に熱心に通うとか、人のためや教会のために奉仕することで克服できるようなものでもない。
 そしてパウロは、罪に支配されている人間の実態を、旧約聖書を引用して語っているが、そこでは、「のど」「舌」「唇」「口」から発せられる「言葉」によって犯す罪と、「足」「道」で述べられている「行い」や「生き方」に表われる人間の罪の姿が描かれていて、それらの根本にあるのが「神への畏れがない」ことだと述べている。「神を畏れる」とは、神の前に自分が罪人であることを認め、その罪の赦しを願い求めてひれ伏すことである。  神はユダヤ人に律法を与えられたが、それは律法を守って自分の正しさを誇るためではなく、神が何を望んでいるかを知って、その望みに応えられない自分の愚かさに気づき、「罪の自覚を生じ」させるためである。
 こうして、自分が罪の支配下にあることを知った者は、どうすればよいのか。自らの反省や、努力では克服することは出来ない。それは、この後に述べられるように、主イエス・キリストの十字架と復活によって実現した罪の赦しを信じる信仰によるしかないのである。

主日礼拝説教<要 旨> 2016年1月31日  山本 清牧師 

 聖  書:ローマの信徒への手紙3:9-20 
 説教題:「
正しい者はいない」 説教リストに戻る