序. 正しい人はいない?

 ローマの信徒への手紙を読んで参りました。1章の初めには、小見出しにあるように「挨拶」があり、「ローマ訪問の願い」があって、その次の「福音の力」とあるところでは、この手紙のテーマが述べられているのですが、そのあとの118節から本論に入って、今日の終わりの320節までが一つのまとまりになっています。そこでは「人間の罪」のことと、それに対する神様の裁き(怒り)のこと、そしてユダヤ人が誇っている「律法」のことが語られて来たのですが、今日の箇所はその最後の結論的な箇所で、小見出しは「正しい者は一人もいない」となっています。説教題も「正しい者はいない」とさせていただきました。そして、このあとの321節からの箇所には、パウロがこの手紙で述べたい中心的なメッセージが語られるのでありますが、その前にどうしても語らねばならないことが、今日の箇所で述べられる「正しい者は一人もいない」ということなのであります。
 なぜ、「正しい者はいない」ということが語られなければならないのでしょうか。――それは、このあとで、<どのようにして私たちが正しい者とされるか>というこの手紙のテーマを語る前に、自分たちが正しい者ではないことをはっきりと知る必要があるからであります。ところが、当時のユダヤ人は、自分たちは神様に選ばれ、律法を与えられた特別な民であって、その律法を守ることによって、正しい者であることができると思っていました。この手紙を書いているパウロ自身も、生粋のユダヤ人として、以前はそう思っていました。そして自分の正しさを確信していました。しかし、そのパウロがイエス・キリストに出会って、自分の間違いに気づかされたのでありました。
 では、ここで「正しい者がいない」ということを強調しているのは、そのようなユダヤ人の間違いを指摘するためでしょうか。そうではありません。9節の最初を見ていただきますと、こう言っております。では、どうなのか。わたしたちには優れた点があるのでしょうか。―ここで、「わたしたち」と言っております。この「わたしたち」とは、前の段落まで、ユダヤ人のことを語って来ましたから、ユダヤ人のことだと解釈することもできますが、この後を見ますと、「ユダヤ人もギリシア人も」という言葉が出てきます。この手紙の宛先であるローマの教会の人たちの中には、ユダヤ人もおりますが、ローマ人もいた筈であります。ですからユダヤ人だけのことではないでしょう。むしろ、すべての人に問いかけているのであります。ということは、今、この手紙の言葉を聞いている私たちにも問いかけていることであります。
 私たちは誰でも、自分を「正しい者」としたいのであります。自分のことを何の間違いもない完璧に正しい者だとは誰も思っていないでしょう。しかし、人から後ろ指を指されるようなことはしていない、という自信を持っているのではないでしょうか。これまで歩んできた自分の人生、そして今の生き方には、大きな間違いはないし、その上、家族のため、周りの人のためにもそれなりの貢献はしている、大きな非難を受けるような生き方はしていない、という誇りがあるのではないでしょうか。そして、なお足りないところを、こうして教会に来て、キリスト教の信仰によって補われて、より正しい者とされて、神様にも喜んでもらえるようになりたい、そして、最終的には天国の端の方にでも入れていただきたい、と思っているのではないでしょうか。
 ここで「正しい者はいない」と言われているのは、日々の生活の中で時々問題を起こしたり、まだイエス・キリストに出会っていないために、自分中心にしか生きられないでいる人たちのことなのでしょうか。そうではありません。ここでは10節にもあるように、「正しい者はいない。一人もいない」と言っています。「ユダヤ人もギリシア人も」とあるように、民族や宗教の違い、神の選びの民であるかどうか、教会に来ているかどうか、といった区別を超えて、私たちすべてが、「正しい者」ではないと言うのです。この宣告をきっちりと受け止めることなしには、私たちの救いはないということであります。

1.皆、罪の下に

 さて、9節の後半を見ますと、こう書かれています。既に指摘したように、ユダヤ人もギリシア人も皆、罪の下にあるのです。――ここで「罪」という言葉が登場いたします。実は、この手紙で「罪」という言葉が名詞で出て来たのは、ここが初めてです。この新共同訳では、2章1節に「自分自身を罪に定めている」とありましたが、これは「有罪の判決をする」という動詞ですし、2章12節にある「罪を犯した者は皆」というところも「罪を犯す」という動詞であります。動詞だから罪については触れていないということではありませんが、これまでのところでは、自分の主体的な行為の中で犯している罪のことが述べられて来たのです。ところが、ここでは「皆、罪の下にあるのです」と言っていて、人間が何か間違ったことをする、というよりも、人間を有無を言わせずに抑え込んで、支配下に治めて、引きずって行くような、巨大な力のことが述べられているのであります。だからと言って、罪を犯しているのは私たちの責任ではない、ということではありません。そうではなくて、私たちが陥っている罪は、私たちがちょっと反省するとか、心を入れ替えれば解決するというようなものではない、ということであります。私たちが良い行いを積み重ねるとか、教会に熱心に通うとか、人のためや教会のために時間や労力や金銭を献げるといったことで克服できるようなものではない、ということです。むしろ、そうしたことを行うことの中に、自分を誇る罪が入り込んで来るのであります。もちろん、良いことをするのが無意味だと言っているのではありません。罪はどこにでも忍び込む可能性があるので、自分の精進や努力で解決したり克服できるものではないということを十分に知っておく必要があるということであります。また、「皆、罪の下にある」と、「皆」と言っていることも大切です。特別な立場や事情によるのではない、ということです。誰も言い訳することは出来ませんし、例外はないということであります。

2.罪の実態と本質――神への畏れがない

 次の10節から18節までは、このような、罪に支配されている人間の実態を、旧約聖書の言葉を引用しながら語っています。

 まず、102行目から12節ではこう言っております。正しい者はいない。一人もいない。悟る者もなく、神を探し求める者もない。皆迷い、だれもかれも役に立たない者となった。善を行う者はいない。ただの一人もいない。

正しい者はいない。一人もいない」というところは先ほども触れました。普通に考えると、確かに世の中には悪い人がたくさんいるけれども、立派な人、正しい人もいるように思います。けれども聖書は「正しい人は一人もいない」と断言します。それは、「皆、罪の下にあるのです」とあったように、「罪」という視点、即ち神様の目から見ると、一人の例外もなく、全てのものが罪の支配下に置かれているので、正しい者はいない、ということです。その罪の支配を受けているために、「悟る者もなく、神を探し求める者もいない」ということになってしまって、結局、「皆迷い、だれもかれも役に立たない者となった」と言うのです。「役に立たない」というのは、「無益な、実を結ばない」ということで、神様の御栄光のためには何の役にも立たない者になってしまっている、ということです。それは具体的にはどういうことか。そのことが13節以下に述べられています。

2-1.言葉の罪

 まず、1314節には、「のど」「舌」「唇」「口」と、口に関係あるものが並んでいます。ここでは人間が「言葉」によって犯す罪のことを言っているのでしょう。彼らののどは開いた墓のようであり、彼らは舌で人を欺き、その唇には蝮の毒がある。口は、呪いと苦味で満ち、と言っています。ユダヤの墓は遺体をそのまま安置していましたから、開いた墓は異臭を放ちます。そのように、人間の口からは、ここに挙げられているような、(あざむ)き(嘘・偽りの類)とか、人を傷つける呪い(悪口・中傷の類)といった聞くに耐えない言葉が出てきます。表向きは耳障りのよいことを語っているようで、人の心を傷つけたり、自分を誇るような鼻もちならない言葉であったりします。ヤコブの手紙にはこんなことが書かれています。「舌を制御できる人は一人もいません。舌は、疲れを知らない悪で、死をもたらす毒に満ちています。わたしたちは舌で、父である主を賛美し、また、舌で、神にかたどって造られた人間を呪います。」(ヤコブ3810)――これが罪の力に支配されている私たちの見苦しい姿であります。

2-2.行いの罪

 次に、15節から17節には「足」とその足で歩く「道」のことが述べられていますが、これは私たちの「行い」や「生き方」のことであります。足は血を流すのに速く、その道には破壊と悲惨がある。彼らは平和の道を知らない、と言っております。私たちは口で人を傷つけるだけでなく、行いによって人の血を流すというのです。少し大げさな表現ですが、実際に暴力をふるってしまうこともありますし、そこまで行かなくても、私たちの自分勝手な行動が、人に大きな迷惑をかけたり、損害を与えることがあります。そういうことは、身近な人間関係でも起こりがちなことですし、国と国、民族と民族の間でも起こっています。正義を掲げながら、罪のない人を傷つけたり、殺害したりすることさえ行われています。平和を守るとか、人命を守ると言いながら、戦争への道を歩み始める愚かさがあります。本当に人を生かす道を歩まず、本当の平和の道を知らないのであります。これはテロリストやこの国の現政権のしていることが当てはまるというだけではありません。私たちの日常の行いや生き方の中にも、同じ芽があるのではないか、ということが鋭く指摘されているのであります。自分の正しさを主張し、自分の利益を守ろうとする時に、その道には破壊と悲惨があり、平和の道が見えなくなってしまうのであります。それが罪に支配されている私たちの姿なのであります。

2-3.神への畏れがない

 旧約聖書からの引用の最後が18節です。こう言われています。彼らの目には神への畏れがない。――これが、罪に支配されている人間の根本にある問題であります。神様を畏れることなく語る口、即ち「言葉」は、開いた墓のようであって、人を欺き、毒があり、呪いと苦味で満ちてしまうのであります。神様を畏れないで動かす足、即ち「行い」は、血を流すのに速く、その道には破壊と悲惨があり、平和の道を開くことが出来ないのであります。

 では、「神への畏れ」とはどういうことでしょうか。この「畏れ」というのは、恐怖という意味とは少し違うので、「畏怖」という意味の字を当てていますが、だからと言って、神様の厳しさや圧倒的な力を軽んじては、神様と正しい関係を持つということにはなりません。では、神様を畏れるとはどういうことでしょうか。ある説教者(横浜指路教会藤掛牧師)の説明を引用しますと、こう述べておられます。「神を畏れるとは、神の前に自分が罪人であることを本当に認め、その罪の赦しを願い求めてひれ伏すことでしょう。たとえ敬虔そうな顔をして神を礼拝していても、形の上でひれ伏していても、神の前で自分が罪人であることを認めておらず、罪の赦しを願い求めていないなら、本当に神を畏れ敬っているとは言えません。そして本当に神を畏れ敬っていないことが、その人が罪の支配下にいることの印なのです。つまり、自分が罪に支配されていることを認めない人こそが罪に支配されているのです。罪に支配されてなどおらず、自分でしっかり生きていると思っているから、神の御心を悟ろうとせず、神を探し求めず、罪の赦しを願い求めようとしないのです。」――罪とは「的外れ」という言葉ですが、神様の方をまっすぐ向いていないことです。神様の方へ顔と心を向けるならば、私たちの罪が見えて来ます。すると、ひれ伏して自分の罪の赦しを願わざるを得なくなります。それが「神を畏れる」ということであり、礼拝するということであります。

3.律法の役割

 さて、ここまで「正しい者は一人もいない」ということを、旧約聖書の言葉を引用しながら語って来たのですが、このあと1920節は律法のことが語られています。なぜここで律法のことを語らねばならないのでしょうか。――それは、律法に対する誤解があるからであります。律法が何のために与えられたのか、その役割について誤解があるからであります。ユダヤ人は神様から十戒を初めとする律法を与えられていることを誇りとしていました。そのこと自体は間違いではありません。確かに神様は、ユダヤ人を特別に選んで、律法を与えられました。ここでいう律法とは、十戒や旧約聖書の中の律法の書と呼ばれているものだけではなくて、旧約聖書全体のことで、先ほど10節から18節までで引用されていたものも、広い意味では律法であります。そこには、人間の言葉や行いが如何に罪の支配のもとにあるかということが述べられていました。ところがユダヤ人たちは、律法を、自分たちの正しさを誇る隠れみののように扱ってしまっていたのであります。律法を守っている自分たちは、律法を守っていない人たちに比べて正しい者であるように勘違いしていたのであります。
 そこでパウロは19節でこう言います。さて、わたしたちが知っているように、すべて律法の言うところは、律法の下にいる人々に向けられています。それは、すべての人の口がふさがれて、全世界が神の裁きに服するようになるためなのです。――つまり、ユダヤ人も含めて全ての人が罪の支配下にあって、神様の裁きに服さなければならないということを明らかにするのが律法の役割である、ということです。ユダヤ人は律法を与えられているから罪がないのではなくて、罪のない正しい人は一人もいない、自分たちも正しい者ではないということが明らかになるためにこそ律法を与えられたのだということです。これはユダヤ人にだけ言われていることではありません。「全世界が」とあるように、私たちも律法によって罪を自覚させられるのであります。
 続けて20節で、こう言います。なぜなら、律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされないからです。律法によっては、罪の自覚しか生じないのです。――ユダヤ人は律法を実行しているから自分たちは正しい(義とされる)と思っていました。そうなると、神様なしで自分の力で正しい人になれるという自信を持ってしまいます。神様との関係なしに生きることが出来るように思ってしまいます。それは、律法の本来の目的ではありません。律法の本来の目的は自分の正しさを誇るためではなくて、神様が何を望んでおられるかを知って、その望みに応えられない自分を深く知らされて、神様に依り頼むことによって生きる者とされることであります。ところが、「律法によっては、罪の自覚しか生じないのです」と言っておりますように、律法が人の罪を暴き出すだけに終わってしまっているのであります。罪を自覚させて、人を苦しめるだけでは、律法の本来の役割を果たすことが出来ていません。そうなったのは、正に、人間の罪によることであります。神様に依り頼もうとしない罪が、律法という神様からの恵みの賜物を無にしてしまうのであります。

結.神の義

 では、罪の支配の下にある私たちはどうすればよいのでしょうか。自分の罪を反省して、それを克服する努力を進めるということでしょうか。そうではありません。自分の反省や努力で罪の支配から脱出できると思うことこそ、神様の御心から遠ざかることになります。では、絶望しかないのでしょうか。そうではありません。そのことが、いよいよ、この後21節から語られることになる「信仰による義」ということであります。主イエス・キリストの十字架と復活によって実現した罪の赦しを信じる信仰によってこそ救われるという福音が語られて参ります。この福音を信じる信仰こそが神様との本来の関係を回復するのであります。それが「神の義」であります。 祈りましょう。

祈  り

救い主イエス・キリストの父なる神様!
  今日は、パウロの残しました手紙を通して、「正しい者は一人もいない」との御言葉を賜りました。感謝いたします。私たちは、自らの過ちや不信仰を軽く考え、むしろ自分の正しさを強調したり誇ったりする罪深い者であることを思わされております。どうか、お赦しください。あなたは私たちが誇ることのないように、律法を与えてくださっています。どうか、律法を自分を誇る根拠とするのではなく、自らの罪深さを自覚し、御子イエス・キリストによる救いに依り頼む者とならせてください。そしてどうか、畏れをもってあなたのみ前にぬかずく者とならせてください。
  主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

主日礼拝説教<全原稿> 2016年1月31日  山本 清牧師 

 聖  書:ローマの信徒への手紙3:9-20 
 説教題:「
わたしに聞け」         説教リストに戻る