序. 新年度の出発に当って

 今日は午後に2016年度の定期総会を行います。昨年の諸報告を聞いて、その中にあった神様の恵みを覚えるとともに、反省すべきこと、悔い改めるべきことを総括いたします。その上で、今年の課題を確認し、体制を整えて、新しい歩みの目標に向かって出発したいと考えています。そのような新しい出発の日の礼拝に与えられている御言葉はイザヤ書の51章であります。イザヤ書を月一回読んで来まして、偶々51章に至ったのでありますが、神様はこの時に相応しい御言葉を備えてくださったという思いを強くしております。
 51章の全体から聞いてもよいし、はじめから16節までが一つの小見出しになっているように、まとまりがあるのですが、今日は8節までに絞って聞くことにいたしました。というのは、ここまでに「わたしに聞け」という言葉が3回繰り返されているからであります。1節の冒頭が「わたしに聞け」で始まっています。二つ目は4節で、「わたしの民よ、心してわたしに聞け」とあります。そして三つ目は7節で、「わたしに聞け」で始まっています。ここに今年の新しい歩みを始めようとしている私たちが聞くべき御言葉が語られているように思います。今年の年間目標は「御言葉は魂を救う」ということで、礼拝ごとに与えられる御言葉によって私たちの魂の救いを与えられることを願っていますが、今日はこの三つの「わたしに聞け」から始まる御言葉によって、魂の救いにあずかりたいと思います。
 そこでまず、1節からの御言葉に入る前に、この箇所が書かれた背景について復習しておきたいと思います。今日の51章が書かれたのは、イスラエルの民がバビロン捕囚から解放された後と考えられていますが、ペルシャ王キュロスによって解放が告げられても、イスラエルの民の全員がすぐに喜んでユダの地に帰ろうとしたのではなくて、バビロンでの50年以上にわたる生活に定着してしまっていて、荒れ果てたユダの地に帰って苦労をしたくないと思う人々もいたようです。異教の地で生活する中で、神様に対する信頼も揺らいで、もう一度ユダの地でやりなおす信仰が萎えてしまいがちでありました。今日の箇所の中に「神の義」を表わす「ツェデク」という言葉が、日本語では色々に訳されていますが5回も出てきています。1節の「正しさ」、5節の「正義」、6節最後の「恵みの業」、72行目の「正しさ」、それに8節最後の「わたしの救い」というのが皆、「ツェデク」から来た言葉であります。なぜ「神の義」という言葉が繰り返されるのかと言えば、イスラエルの民の現実の中で、一体「神の義」(神様の正しさ、神様の救いの御意志)はどこにあるのかという疑念が広がっていて、信仰に立ち戻って、将来に対して希望を持つということが出来なくなっているという事情があったからであります。
 では、私たちはどうでしょうか。昨年の教会の歩みの中で、感謝すべきこともいくつか挙げることも出来ますが、同時に、礼拝出席者数が低迷している状況の中で、神様はこの伝道所を通して本当に救いの御業をなしてくださっているのだろうか、と思ってしまうことがあります。また、広く日本や世界の情勢を見ましても、様々な不正義がまかり通っているような状況があります。一体、キリスト教は何の力も持たなくなっているのだろうか、神様はどうしておられるのだろうかと思いたくなることがあります。そんな私たちに対して、今日、一年の歩みを始めるに当って、神様はこの箇所の御言葉をお与えになって、「わたしに聞け」と言っておられるのではないでしょうか。

1.荒れ地を主の園とされる

 まず1節でこう言われています。わたしに聞け、正しさを求める人/主を尋ね求める人よ。あなたたちが切り出されてきた元の岩/掘り出された岩穴に目を注げ。
 ここで「正しさを求める人」「主を尋ね求める人」と呼びかけられているのは、先程申しましたように、「神の義」(ツェデク)を求めている人のことですが、「神の義」を確信しているというよりも、五十年以上の捕囚生活の中で「神の義」に対して疑問を抱かざるを得なくなっている人たちであります。諦めが心を支配し、神の御業に期待を持てなくなっている人たちであります。それはまた新しい年の歩みについて希望や確信を持ちにくくなっている私たちのことであります。
 そんな者たちに向けて、「あなたたちが切り出されてきた元の岩/掘り出された岩穴に目を注げ」と言われています。「元の岩」「岩穴」とは、2節を見ると、あなたたち父アブラハム/あなたたちを産んだ母サラに目を注げ、とありますように、イスラエルの信仰の原点である、アブラハムとその妻サラのことであります。創世記15章以下にはこんな物語が記されています。アブラハムは既に高齢に達していましたが、子供がなかったので、家の僕であるエリエゼルに跡を継がせようとします。ところが神様は「その者が跡を継ぐのではなく、あなたから生まれる者が跡を継ぐ」と言われて、彼を外に連れ出して満天の星を仰がせて、「あなたの子孫はこのようになる」と約束されたのであります。しかし、妻のサラには子供が生まれなくて、女奴隷のハガルに子を産ませたりしますが、神様は妻のサラに男の子が誕生することを約束なさいます。しかし、アブラハムもサラもそれが信じられなくて笑います。ところが遂に、イサクが百歳になったときに、サラに男の子が生まれました。それがイサクであります。そしてイサクの子のヤコブの子孫がイスラエルの民となったのであります。2節の後半にはこう書かれています。わたしはひとりであった彼を呼び/彼を祝福して子孫を増やした。――神様はなぜアブラハムとサラに、なかなか子供をお授けにならなかったのでしょうか。それは神様の約束の言葉を信じる信仰を与えるためでした。そしてこうして信仰を与えられたアブラハムとサラを指して、「あなたたちが切り出されてきた元の岩/掘り出された岩穴に目を注げ」と言われます。これが信仰の原点であります。人間の可能性にではなくて、神様の約束に立ち返って、神様に信頼すること、これがイスラエルの民が聞くべき御言葉でありました。パウロはローマの信徒への手紙の中で、このアブラハムの物語を引用してこう述べています。「神はアブラハムやその子孫に世界を受け継がせることを約束されたが、その約束は・・・信仰による義に基づいてなされたのです。・・・死者に命を与え、存在していないものを呼び出して存在させる神を、アブラハムは信じ、その御前でわたしたちの父となったのです。彼は希望するすべもなかったときに、なおも望みを抱いて、信じ、『あなたの子孫はこのようになる』と言われていたとおりに、多くの民の父となりました」(ローマ41318)――これがイスラエルの民にとっての信仰の原点でありますが、これは私たちにとっても信仰の原点であります。教会は更に、イエス・キリストを通して、確かな救いの約束を与えられています。人間の弱さや不信仰が神様の約束を見えにくくしてしまいますが、救いの約束はイエス・キリストによって教会において必ず実現するのであります。
 イザヤは更に次の3節でこう語っています。主はシオンを慰め/そのすべての廃墟を慰め/荒れ野をエデンの園とし/荒れ地を主の園とされる。そこには喜びと楽しみ、感謝の歌声が響く。
 「シオン」とはエルサレムのことであります。五十年前にエルサレムはバビロニアによって徹底的に破壊されて廃墟となり、荒れ果てました。しかし、その荒れ地が「エデンの園」「主の園」とされると言うのであります。「エデン」とは<喜び>という意味の言葉だと言われます。荒れ地とされたエルサレムにおいては、嘆き悲しむ声ばかりがありましたのに、そこが「喜びと楽しみ、感謝の歌声が響く」ところの「エデンの園」になると言うのです。
 私たちにとって「荒れ野」や「荒れ地」とは何でしょうか。もしかすると、家庭や職場が「荒れ野」になっているかもしれません。住んでいる地域やこの国が、表面的な姿とは異なって、いつの間にか「荒れ野」になってしまっているかもしれません。もしかすると教会までもが、喜びや希望のない「荒れ野」に思えてしまうことがあるかもしれません。しかし、神様は私たちに「わたしに聞け」と呼びかけておられます。そして、「荒れ野をエデンの園とし、荒れ地を主の園とする」とおっしゃいます。それは物理的に元の美しい姿に復興するというだけではありません。そこには「喜びと楽しみ、感謝の歌声が響く」と言われています。喜びと楽しみが回復され、感謝と賛美の歌声が響くところに作り替えられるのであります。

2.わたしの腕は諸国の民を裁く

 次に、4節から6節までの言葉を聴きましょう。わたしの民よ、心してわたしに聞け。わたしの国よ、わたしに耳を向けよ。教えはわたしのもとから出る。わたしは瞬く間に/わたしの裁きをすべての人の光として輝かす。わたしの正義は近く、わたしの救いは現れ/わたしの腕は諸国の民を裁く。島々はわたしに望みをおき/わたしの腕を待ち望む。天に向かって目を上げ/下に広がる地を見渡せ。天が煙のように消え、地が衣のように朽ち/地に住む者もまた、ぶよのように死に果てても/わたしの救いはとこしえに続き/わたしの恵みの業が絶えることはない。

 ここで見落としてはいけない第一のことは、4節の最後の行にある「すべての人」という言葉、5節の2行目にある「諸国の民」という言葉、そして5節3行目の「島々」という言葉です。つまり、ここでは救いの対象がイスラエルの民だけではなくて、すべての諸国民にも及ぶことが示されているということであります。注目すべき第二ことは、「わたし」という言葉が何度も出て来ます。数えてみると14回あります。そしてその「わたし」が「諸国の民」になさることが、4節と5節にある「裁き」、5節にある「正義」、5節と6節にある「救い」、そして6節の最後にある「恵みの業」であります。つまり、すべての人々が「わたし」である神様の主導のもとで、救いに導かれる、ということであります。私たちの目は身の回りのことや足元のことしか見えていません。自分のことで精一杯になりがちであります。しかし、6節ではこう語られています。「天に向かって目を上げ、下に広がる地を見渡せ。」すべてを主導しておられる神様に目を向けて、神様を信頼することが大切であります。そして、神様がすべての人々を救いに導こうと働いておられることを覚えるべきなのであります。6節の⒊,4行目に「天が煙のように消え、地が衣のように朽ち、地に住む者もまた、ぶよのように死に果てても」とありますが、これはエルサレムの滅亡とバビロン捕囚を経験した人たちの考えていた虚無的な人生観・世界観を表わしているとされますが、その中にあって神様は、「わたしの救いはとこしえに続き、わたしの恵みの業が絶えることはない」と言われるのであります。神様はイスラエルの民の罪のゆえに、エルサレムを滅ぼし、バビロン捕囚の苦難をお与えになりましたが、すべての民を救いに導びこうとされる父なる神様は、その御業を全世界で進めておられるということです。その御業は遅々として進んでいないように私たちには見えるかもしれません。しかし、43行目以下を見ると、「教えはわたしのもとから出る。わたしは瞬く間に、わたしの裁きをすべての人の光として輝かす」とあります。「教え」とは「律法」と訳すことも出来ますが、広く「神の言葉」を意味するとみてよいでしょう。また「裁き」と訳されている言葉は「仲裁の決定」という意味の言葉で、口語訳聖書では「道」と訳されていました。つまり、神様の御言葉が語られ、瞬く間に歩むべき道が光として示される、ということです。新約聖書によれば、主イエスは「わたしは道である」と言われ、「わたしは光である」とも言われました。ここで語られたことは、主イエスによって実現いたします。主イエスによってすべての民の救いが実現したのであります。

 私たちの目には、救いが遅々として進んでいないように見えるかもしれません。むしろ後退しているのではないかとさえ思えることがあります。しかし、救いの光は主イエス・キリストによって輝き始めていて、すべての民のための救いの恵みの業は絶えることなく進められているのであります。

3.わたしの救いは代々に永らえる

 三つ目の「わたしに聞け」は7節、8節の言葉であります。こう言われています。わたしに聞け/正しさを知り、わたしの教えを心におく民よ。人に嘲られることを恐れるな。ののしられてもおののくな。彼らはしみに食われる衣/虫に食い尽くされる羊毛にすぎない。わたしの恵みの業はとこしえに続き/わたしの救いは代々に永らえる。
 ここでは具体的に、捕囚から解放された直後の状況を念頭に置いて、励ましの言葉が語られています。「正しさを知り、わたしの教えを心におく民よ」と呼びかけられています。呼びかけられているのは、バビロン捕囚で苦労したことや、そこからの解放を、神様がなさったこととして受け入れている人たちのことでしょう。ところが、先に申しましたように、エルサレムに帰ることに否定的な人々がいます。彼らは、自分がエルサレムに帰る行動を起こさないだけでなく、神の御言葉に従って帰ろうとする人たちを嘲ったり、ののしったりすることが予想されます。また、神様を知らない周辺の諸国民はイスラエルの民を批判するでしょう。神様はそうした人々からの嘲りやののしりを「恐れるな」「おののくな」と言って励ましております。そして、そのように嘲ったりののしったりする者たちのことを「彼らはしみに食われる衣、虫に食い尽くされる羊毛にすぎない」と言っております。彼らは見かけの上、あるいは一時的に素晴らしい着物のように見えるけれど、やがて虫に食われてぼろぼろになる着物と同じように、決して長続きはしない、と断じているのであります。そして、「わたしの恵みの業はとこしえに続き、わたしの救いは代々に永らえる」と言って、神様の救いの確かさと永続性が強調されています。
 ここに「嘲られ」「ののしられ」とありますが、これらの言葉で思い起こすのは、イエス・キリストの十字架の場面であります。主イエスが私たちの先頭に立って、人々の嘲りとののしりを受けてくださいました。そして、十字架にお架かりになることによって、罪深く弱い私たちが負うべき死の裁きから解放してくださいました。この恵みの救いの御業こそ、とこしえに続き、代々に永らえるのであります。
 しかし、エルサレムに帰ったイスラエルの人々目の前には荒廃した荒れ野が広がっていたでありましょう。私たちの教会の周りにも、目に見えて救いが広がって行かない現実があります。心が萎えそうになることがあります。

結.わたしに聞け

 けれども神様は今日も私たちに呼びかけておられます。「わたしに聞け、正しさを求める人」、「わたしの民よ、心してわたしに聞け」「正しさと知り、わたしの教えを心におく民よ」と呼びかけておられます。そして、「荒れ野をエデンの園とし、荒れ地を主の園にする」「わたしの裁きをすべての人の光として輝かす」「わたしの救いはとこしえに続き、わたしの恵みの業が絶えることはない」「わたしの救いは代々に永らえる」と約束してくださいます。
 今年の年間目標は「御言葉は魂を救う」であります。「魂を救う」とは、今年最初の礼拝で申しましたように、<心を救う>ということも含まれますが、それだけではなく<命を救う><生活や行いを救う>という意味が込められています。今日聴きました約束の御言葉も、私たちの心を慰めたり励ましたりするだけではなく、私たちの命を救い、生活や行いまでも救う言葉、魂を救う御言葉であります。この礼拝の場は、そのような御言葉を聴くことのできる「エデンの園」であり、「主の園」であります。このような園で救いの御言葉を聴き続ける一年でありたいと思います。祈りましょう。

祈  り

荒れ野にたたずむ私たちのために、救いの御業をなしたもう父なる神様!御名を賛美いたします。
  今日も私たちに力強い御言葉を語りかけてくださり、萎えがちな魂を元気づけてくださいましたことを感謝いたします。
  どうか、アブラハムや信仰の先人たちとともに、あなたの約束を信じて、荒れ果てた地においても、御言葉を聴き続け、語り続ける者とならせて下さい。どうか、主にある喜びと楽しみと感謝の歌声が響く「主の園」を、この地上にもたらせてください。どうか、まだあなたの救いを知らない多くの方々を、この園にお招きください。
  主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

主日礼拝説教<全原稿> 2016年1月24日  山本 清牧師 

 聖  書:イザヤ書51:1-8
 説教題:「
わたしに聞け」         説教リストに戻る