イエスは立ち止まって、「あの男を呼んで来なさい」と言われた。人々は盲人を呼んで言った。「安心しなさい。立ちなさい。お呼びだ。」盲人は上着を脱ぎ捨て、躍り上がってイエスのところに来た。
                      (マルコによる福音書104950 

 主イエスと弟子たちの一行が十字架の待つエルサレムに向かってエリコの町を出ていこうとしたとき、バルティマイという盲人の物乞いがイエスだと聞くと、「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と叫び始めた。ところが人々は叱りつけて黙らせようとした。それは単にうるさいからだけではなく、「ダビデの子」とは「救い主」を意味し、軽々しく口にしてはならない言葉だったからである。だが彼は、ますます叫び続けた。そこに、これまでの境遇から脱出したいとの必死の思いを読み取ることができる。この声を聞きつけた主イエスは標記のように呼び寄せられると、彼は上着を捨て、躍り上がって、主イエスのところに来た。当時の「上着」は、一枚の大きな布で、衣服としても寝具としても使う大切なもので、物乞いの彼にとっては道に敷いて金銭を恵んでもらう商売道具でもあったから、過去の身の安全と生活の手段を放棄したことを意味する。彼は主イエスに出会うことによって、過去の全てと訣別したのである。
 主イエスが「何をしてほしいのか」と言われ、彼は端的に「目が見えるようになりたいのです」と答えると、主は「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った」と宣言されて、目を見えるようにされた。
 ところで、「何をしてほしいのか」という問いは、弟子のヤコブとヨハネが願いごとをかなえてもらおうとした時と同じ言葉である。彼らは「栄光をお受けになるとき、一人を右に、もう一人を左に座らせてください」と、他人より高い位置に着くことを願った。そんな彼らに主イエスは「偉くなりたい者は、皆に仕える者になりなさい」と教えられた。この二つの出来事の違いは何を示しているか。主イエスはすべてを捨てて主イエスのところに来ることを喜ぶバルティマイに「信仰」を見出されたのに対して、弟子たちには信仰の危うさを見られたのだ。この時点では、バルティマイも弟子たちも主イエスの十字架のことは理解していない。バルティマイはこの時から主イエスに従って行き、エルサレムで十字架の場面に出会い、そこに救いの恵みを知って、後の初代教会の一員になった。弟子たちは十字架の場面では主を裏切ってしまうことになるが、そんな彼らも、復活後、本来の弟子として働く者とされる。主イエスはその深い憐みの御心をもって、私たちの中にも本物の信仰を創り出してくださるのである。

主日礼拝説教<要 旨> 2016年1月17日  山本 清牧師 

 聖  書:マルコによる福音書10:46-52 
 説教題:「
安心しなさい。立ちなさい」 説教リストに戻る