序. ヤコブ、ヨハネの願いとバルティマイの願い

 先週は、今日の箇所のすぐ前の箇所から御言葉を聴きました。そこには、こんなことが書かれていました。主イエスが三度目に死と復活の予告をされたすぐあとで、弟子のヤコブとヨハネが主イエスに、「お願いすることをかなえていただきたいのですが」と言ったので、主イエスが「何をしてほしいか」と問われると、彼らは「栄光をお受けになるとき、わたしどもをあなたの右と左に座らせてください」という厚かましいことをストレートに申しました。これに対して主イエスは「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない」と言われて、そのあとやり取りがあったあと、最後は「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい」と教えられました。二人の弟子は、主イエスに何を願い、何を期待すべきかを全く弁えておりませんでした。
 今日の箇所は、引き続き主イエスの一行が十字架の待つエルサレムへと向かわれる途中のエリコの町での出来事ですが、バルティマイという盲人の物乞いと主イエスの出会いが語られています。ここでは、バルティマイが「わたしを憐れんでください」と叫び続けるので、主イエスは彼を呼び寄せられて、二人の弟子に問われたのと同じように、「何をしてほしいのか」とお尋ねになりました。すると彼はストレートに「目が見えるようになりたいのです」と言うのですが、それに対して主イエスは「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った」とおっしゃって、盲人は、すぐに見えるようにされたのであります。
 二人の弟子とバルティマイは同じように、「何をしてほしいのか」と問われて、自分たちの願いをストレートに主イエスに申し上げたのですが、主イエスの対応は全く違っているように見えます。この違いは何を示しているのでしょうか。そして私たちは主イエスに対して何を願うべきなのでしょうか。主イエスは私たちに対して何を求められ、何を与えようとしておられるのでしょうか。――今日は、ヤコブとヨハネの願いとバルティマイの願いに対する主イエスの対応の違いに着目しながら、主が私たちに望んでおられること、そして私たちをどのような者として下さろうとしているのかを聴き取りたいと思います。

1.「憐れんでください」

 さて、今日の箇所の出来事は、主イエスが弟子たちや大勢の群衆と一緒に、エリコを出て行こうとされたときのことであります。主イエスのエルサレムへの旅は最終段階に入っています。十字架の時が近づいています。「大勢の群衆と一緒」だったのは、過越しの祭りに参加するために巡礼の旅をする人たちと一緒だったからでしょう。主イエスがエリコを出て行こうとされたとき、ティマイの子でバルティマイという盲人の物乞いが道端に座っていました。マタイやルカの併行記事を見ますと、盲人が二人だったり、エリコを出るときではなくてエリコに近づかれたときだったり、食い違いがみられるのですが、今日はこのマルコの記事に従って見ていくことにいたします。ここで注目したいのは、バルティマイという名前がはっきりと記されていることです。これは、聖書が書かれた数十年先までこの人の名前が憶えられていたということで、恐らく初代教会の一員として、このときの出来事と共によく知られていたことを示していると考えられます。
 彼は盲人でしたから、主イエスが通りかかられるのを目で見たわけではなくて、大勢の人たちのざわめきの声を聞いたのでしょう。そして、誰かが「ナザレのイエスだ」と教えてくれたようであります。おそらく以前から主イエスのことを噂で聞いていて、多くの人の病気を癒したり、目の見えない人を見えるようにされたことを知っていたのでしょう。そこで、絶好の機会だとばかりに、「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と叫び始めます。ところが多くの人々が叱りつけて黙らせようとしました。なぜでしょうか。主イエスの話されることを聞きたいと思っている人も大勢いたでしょうから、うるさいというこということがあったでしょう。しかし、それだけではありません。「ダビデの子」という言い方は、「来たるべき救い主メシア」という意味が込められていましたから、いい加減に誰に向かっても言って良いことではありませんし、主イエスに敵対する人にとっては聞き捨てならない言葉です。だから、軽々しく口にするなということで黙らせようとしたのでしょう。しかし、バルティマイは構わず、ますます、「ダビデの子よ、わたしを憐れんでください」と叫び続けたのであります。ここに彼の必死さを読み取ることができます。彼は盲人であったがために、道端で物乞いをするしか生きて行けないという哀れな境遇です。そこから何とか脱出したいという必死の思いが伝わって来ます。主イエスの話を聞きたい他の人に迷惑がかかるかもしれないとか、主イエスが敵対者たちから妬まれるかもしれないなどということを考える余裕はありません。自分の苦悩から脱出できる可能性に必死ですがろうとしているのであります。「憐れんでください」という言葉が繰り返されています。自分の方には差し出すべき何物もありません。ただ、主イエスの憐れみを乞うほかはないのであります。この点では、先週聞いた弟子のヤコブとヨハネの場合とは違っています。弟子たちの場合は、自分たちの生活を捨てて主イエスに従って来たという実績があります。主イエスから「このわたしが飲む杯を飲むことができるか」と、予想される苦難を受ける覚悟を問われた時にも、「できます」と明言しました。それに比べると、バルティマイの場合は、ただ「憐れんでください」と言うほかないのであります。
 この必死の叫び声を聞きつけられた主イエスは、立ち止まって、「あの男を呼んで来なさい」と言われました。万人を救うために来られ、十字架への道を歩んでおられたお方が、名もない一人の盲人の必死の叫びに耳を止め、立ち止られたのであります。主イエスは、このような必死の叫びを聞き洩らされないお方であります。そして、憐れみをもって、御自分のところへ招き寄せてくださるお方であります。

2.上着を脱ぎ捨て、躍り上がって

 主イエスのこの言葉によって、おそらく弟子たちだと思われますが、

盲人を呼んで、「安心しなさい。立ちなさい。お呼びだ」と言いました。これは主イエスの直接の招きのお言葉ではありませんが、この言葉を境に、バルティマイの人生は大きく変わることになります。この言葉を聞くと、盲人は上着を脱ぎ捨て、躍り上がってイエスのところに来た、と書かれています。「上着を脱ぎ捨て」ということには、何を表わしているでしょうか。あわてふためいたということでしょうか。急ぐために邪魔なものを脱ぎ捨てたということでしょうか。当時の上着というのは、一枚の大きな布であります。それは衣服としても用いられますが、寝具にもなりますし、雨露をしのぐ屋根にもなるものです。そういう意味では身を守る大切なものであります。ですから、主の律法では、「もし、隣人の上着を質にとる場合には、日没までに返さねばならない。なぜなら、それは彼の唯一の衣服、肌を覆う着物だからである。彼は何にくるまって寝ることができるだろうか」(出222526)と述べられています。ですから、バルティマイは自分の安全を確保する物を投げ捨てたということになります。その上、物乞いにとって上着は、道に敷いてお金などを恵んでもらうことにも使う商売道具ですから、それを放り出すことによって、これまでの生活さえも投げ捨てたということであります。全財産を放棄したにも等しいのであります。これは10章にありました「金持ちの男」の場合と大違いであります。彼の場合は、主イエスから、物を売り払って貧しい人々に施すように言われて、それが出来なくて、悲しみながら主イエスの許から立ち去らなければなりませんでした。

 「躍り上がって」という言葉にも、バルティマイの喜びが表わされています。これまではずっと道端に座り込んでいる生活でありました。そこから立ち上がることが出来ませんでした。しかし今は、立ち上がるだけでなく、喜んで躍り上がるのであります。

3.「何をしてほしいのか」/「目が見えるようになりたい」

 躍り上がってやって来たバルティマイに対して主イエスは、「何をしてほしいのか」と言われました。主イエスが、彼の願いを御存知ない筈はありませんし、何が必要かも御存知であります。しかし、敢えて彼に問いかけられます。それは彼自らが自分の願いを言葉に出して言う必要があるからであります。そして、その願いが的を得たものであるかどうかが吟味され、信仰を試される必要があります。試すというよりも、主イエスの問いの答えることによって、信仰を確かなものへと育て上げられたと言った方がよいかもしれません。喜びの絶頂にあった彼も、もう一度自分の現実に立ち帰らされます。そして彼は、「先生、目が見えるようになりたいのです」と率直に答えます。これは実際的な願いを述べたに過ぎないのですが、<あなたこそ、私の目を見えるようにしてくださるお方です>という、全てを主イエスに委ねる信仰を言い表す、信仰告白の言葉でありました。

 これに比べて、先週に聞いたヤコブとヨハネはどうだったでしょうか。彼らは主イエスの前に進み出て、「先生、お願いすることをかなえていただきたいのですが」と言いました。そして主イエスが同じように「何をしてほしいのか」と問われました。それに対して二人の弟子は、「栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください」と言いました。主イエスに次ぐ栄光の座を求めました。正直な願いではありますが、他人よりも自分たちが上に立つことを求める願いでありました。彼らは他人に仕えるよりは、他人の上に立って他人を自分に仕えさせることを求めました。これに対してバルティマイの願いは、通常の人には与えられているものが欠けているという、最低の状況の中からの人並みのものを望むものでありました。この時点で、彼は主が十字架にお架かりになることまでは分かっていませんでしたが、主イエスが苦しみの中にある者を憐れみ、その愛によって、どんな困窮の中にある者も救い出してくださるお方であることを素朴に信じて、信頼していました。そして、「お呼びだ」という言葉を聞くと、上着を脱ぎ捨てたことに表わされていますように、これまでの自分を支えていた大事な物さえ捨てて、すべてを主イエスに委ねて従おうとしました。このように、主の前に出られるなら、何を捨てても構わないという主イエスに対する信頼と喜びが、躍り上がって主イエスのところにやって来た彼の姿に現れていました。そして、主イエスに問われるままに、「先生、目が見えるようになりたいのです」と言いました。それは願いの言葉でありますが、信仰の告白の言葉であります。

4.「あなたの信仰があなたを救った」

 そこで、主イエスは言われました。「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」――これは主イエスの宣言であります。これはバルティマイの信心が救いを招き寄せたとか、宗教心が立派だったから功を奏した、ということではありません。バルティマイの<何とか苦境から脱出したい>という素朴な願いから出た「わたしを憐れんでください」という叫びを、主イエスが聴き取られて、彼を憐れまれて、本物の信仰へと導かれた、ということでしょう。
 主イエスが「あなたの信仰があなたを救った」と宣言されると、盲人は、すぐ見えるようになり、なお道を進まれるイエスに従った、とあります。この「なお道を進まれる」という言葉は、直訳すると「途上にある」という意味で、32節で「一行がエルサレムへ上って行く途中」と書かれているのと同じ言葉が使われているのであります。つまり、バルティマイはこのあと、主イエスに従って、十字架が待つエルサレムへの道を進むのであります。そして、エルサレムで十字架にお架かりになった主イエスを見るのであります。そんな姿を見て失望したでしょうか。そうではなくて、主イエスの憐みの御心をはっきりと捕えることが出来たのではないでしょうか。そして、主の憐みの御心が自分を救ったことを知って、主イエスの復活の後に形成されることになる初代教会の群れに加えられることになったと考えられます。だからこそ、先ほど触れましたように、バルティマイという名前が、教会の中で知られるようになって、ここにはっきりと記されているのだと考えられるのであります。
 私はこの物語を与えられて、7月に受洗されたS兄のことを思わざるを得ませんでした。彼は2年前に奥様を癌で亡くされて、それまで自信を持って来られた御自分の加持祈祷の力に頼れないことを思い知らされて、仏教に希望がないことに気づかれて、失意の中で聖書に出会われて、聖書には復活の希望があり、救いがあることを発見されたのでありました。そして、昨年7月に洗礼を受けられました。けれどもS兄には、もう一つの悩みがありました。それは息子さん娘さんとの関係であります。特に、娘さんが御姑さんの介護をしたくないと言って離婚したことや、家の大事な物を勝手に持ち出すといったことがあって、そんな子に育てた筈がないという悩みを語っておられました。信仰を持つようになってもその問題が解決されないことに苦しんでおられました。そんなS兄に対して、私は、ヨブの例を引き合いに出して神様に全てを委ねるべきことや、忍耐が必要なことなどをお話ししてきました。そして、内心では、S兄が御自身の問題の解決という御利益を求めておられることに批判の気持ちを持っていました。そのために、S兄に主にある喜びと平安をお伝え出来ないままになっておりました。その結果、11月中旬から礼拝を休まれるようになったのですが、このたび、米子市内の他の教会に行っておられることが分かり、そちらに転出されることを願い出られました。そこの教会で平安を見出せたということのようであります。――このS兄のことと、今日のバルティマイのこととが重なります。バルティマイが願ったことは、目が見えるようになるという、いわば御利益を求めたのであります。しかし、主イエスはそんな彼の叫びに深く心を寄せられて、お呼び寄せになって、確かな信仰へと導かれたのであります。主イエスはバルティマイの願いを、御利益を求めている手前勝手な期待だとして排除なさるようなことはされませんでした。むしろそこに、主イエスに信頼する本物の信仰へと育つ芽があることを見られたのであります。そして、主イエスの憐れみの御心がその信仰の芽を確かな信仰へと育て上げたということであります。私は、S兄の悩みをこの主イエスのような深い憐みの心で見ていなかったのではないか、そのために、主にある平安へとお連れすることが出来なかったのではないか、と思わされているのであります。

結.「安心しなさい。立ちなさい」

 最後に、49節で、主イエスが「あの男を呼んで来なさい」とおっしゃって、弟子と思われる人々がバルティマイに言った、「安心しなさい。立ちなさい。お呼びだ」という言葉に着目したいと思います。これは主イエス自身がおっしゃった言葉ではありませんが、主イエスの御心を伝えた言葉であります。「安心しなさい」という言葉は、「勇気を出しなさい」とか「元気になりなさい」とも訳せる言葉であります。しかしこれは、悩んでいる者をただ言葉だけで励ましているのではありません。主イエスが呼び寄せて、目が見えるようにして、主イエスに従って行く本当の信仰へと救い出そうとして招かれているところから来た言葉であります。「立ちなさい」とも言っています。バルティマイはこれまで道端に座っているだけで、立ち上がって前に向かって歩こうとはしませんでした。しかし、立ち上がって主イエスのところに行くことで、目が開かれ、主イエスに従う新しい人生が開けるのであります。その人生に向けて呼び出されたのであります。そこにあるのは、単に目が見えるようになるという奇跡的な出来事が起こされるということではありませんでした。十字架の主イエスに出会うということが待ち受けていたのであります。主イエスが御自分の命を捨てて罪ある者たちを救われるという出来事でありました。(イザヤ35章)
 主イエスは今日もその主の憐れみと愛の道に私たちを招こうとして、そして、確かな主イエスに従って行く信仰の生活を歩むようにと、「安心しなさい。立ちなさい」と呼びかけておられるのであります。
 今日は、先週に聴いたヤコブとヨハネの身勝手な願いと対比しながらお話ししました。弟子たちの信仰は、主イエスの願っておられることとは違っておりました。しかし、弟子たちは主イエスから捨てられたわけではありません。彼らは結局、十字架の場面では主イエスを捨てて裏切ることになるのですが、主イエス御自身が約束されたように、彼らも「杯を飲む」ことになるのであります。つまり、主イエスと共に苦難を負いつつ、初代教会を建てる働きに用いられることになるのであります。主イエスは、身勝手であった弟子たちをも、また、ただ道端に座っているしかできなかったバルティマイにも本物の信仰をお与えになって、主に従うことによって、大きな働きをする者たちとされるのであります。その主イエスの憐れみ深い御心は、今日、バルティマイの物語を聴いた私たちにも向けられているのであります。 祈りましょう。

祈  り

憐れみ深いイエス・キリストの父なる神様!
  今日も盲人のバルティマイに向けられた主イエスの憐れみに満ちた愛の御業を通して、私たちをも信仰の道へと招き、弟子の一員に加えようとしておられることを覚えて、感謝いたします。
  どうか、私たちの願いをも憐れみをもって受け止めてください。
  どうか、主の招きにお応えして、御心に信頼して、喜んで従って行く者とならせてください。どうか、助けを求めている多くの方々の痛みや求めを思い遣ることが出来る者とならせてください。
  主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

主日礼拝説教<全原稿> 2016年1月17日  山本 清牧師 

 聖  書:マルコによる福音書10:46-52
 説教題:「
安心しなさい。立ちなさい」         説教リストに戻る