「わたしの右や左にだれが座るかは、わたしの決めることではない。それは、定められた人々に許されるのだ。」
                          (マルコによる福音書1040 

 主イエスが、敵対者たちの待ち受けているエルサレムに向けて、「先頭に立って進んで行かれる」(1032)のを見て、弟子たちは驚き、恐れた。すると主イエスは御自分の死と復活について三度目の予告をされた。それは、これまでの二度よりも詳しいものであったが、そこで注目したいのは「引き渡し」という言葉である。これは「裏切る」とも訳される言葉で、弟子たちの裏切りや、祭司長たちによるローマ総督への「引き渡し」、更には、最後の晩餐でも語られたように、御自分の体を私たちの救いのために「引き渡される」という意味が込められている。
 そのような重要なことが語られた後で、弟子のヤコブとヨハネが主イエスに、「栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください」との願いを申し出た。厚かましい願いであるが、私たちが願っていることも、結局は自分が良い立場に立ちたいという手前勝手なことではないだろうか。
 この弟子たちに対して主は、「あなたがたは何を願っているか、分かっていない」と述べられ、「このわたしが飲む杯(苦難)を飲むことができるか」と問われた。すると弟子たちは大胆にも「できます」と答える。それに対して主は、「確かに、あなたがたはわたしが飲む杯を飲むことになる」と言われた。主は弟子たちの弱さを御存知の上でこのように言われたのは、その弱い弟子たちの罪ためにも、身代わりとなって十字架に架かろうと決心なさったということである。弟子たちは十字架の時には逃げ出してしまうのだが、主の復活の後には、迫害の中でも見違えるように勇敢な働きをして、殉教の死を遂げたと伝えられている。
 主イエスは続けて標記のように述べられた。これは神様がお決めになることなので分からないという意味にもとれるが、むしろ、弟子たちが救われて、神の国の席に座るためにこそ、十字架への道を歩もうとしておられると受け止めるべきであろう。主は別の機会に、「わたしの父の家には住む所がたくさんある。…行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える」と約束された(ヨハネ1423)。主はこの対話のあと、「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になりなさい」と教えられたが、最後に、「人の子は…多くの人の身代金として自分の命を献げるために来た」と言われた。主は自ら十字架の道を歩むことによって、私たちのための場所を神の国に用意してくださったのである。この主の贖いの御業によって、私たちもまた「定められた人」とされるのである。

主日礼拝説教<要 旨> 2016年1月10日  山本 清牧師 

 聖  書:マルコによる福音書10:32-45 
 説教題:「
何を願うべきか」 説教リストに戻る