序. エルサレムへ

 マルコによる福音書によって主イエスの御言葉と御業を見て参りましたが、今日の箇所の最初の32節にはこう書かれています。一行がエルサレムへ上って行く途中、イエスは先頭に立って進んで行かれた。主イエス一行のエルサレムに向かわれる旅は9章あたりから進められていましたが、ここには「先頭に立って進んで行かれた」とあって、並々ならぬ決意を込めてエルサレムに向かっておられる主イエスのお姿が目に浮かびます。それを見て、弟子たちは驚き、従う者たちは恐れた、と書いております。なぜ弟子たちは驚き、恐れたのでしょうか。主イエスを亡き者にしようとしている人たちがいることは、弟子たちも気づいていた筈であります。また、主イエスはこれまでに御自身の死と復活の予告を二回語っておられました。そのことが起こる可能性の高いのは、主イエスに敵対する宗教指導者たちがいるエルサレムであります。そのエルサレムに向かって決然と進んで行かれるお姿に、弟子たちをはじめ従って来ていた人たちが驚き、恐れたのは、当然のことと言えるでしょう。
 このあと、今日の箇所には、三度目の受難予告をされたことと、弟子のヤコブとヨハネが主イエスに勝手なお願いをしたことが記されていますが、そこには、主イエスが決意しておられることと、弟子たちの思いとの間に大きな食い違いがあることが現されています。弟子たちは主イエスの決然としたお姿に驚き恐れながらも、主イエスの御心をよく理解してはいないのであります。この弟子たちの姿は、実は教会に来て聖書を読んでいて、主イエスのことをある程度知っているつもりの私たちの姿でもあります。今日の箇所は、そういう私たちのために主イエスが何をなさろうとしているのか、そして私たちが主イエスに何を期待し、何を願うべきなのかを教えてくれています。
 今年の年間目標は「御言葉は魂を救う」ということですが、先週に学びましたように、「魂」とは、単なる精神的なことや内面のことではなくて、「命」とか「生活」「生き方」をも表わす言葉であります。御言葉は私たちの心の持ち方だけでなくて、生き方や生活や行動をも変えるのであります。今日の箇所からも、そのような意味での<魂を救う>主イエスの御言葉にあずかりたいと思うのであります。

1.引き渡しと復活の予告

 さて、32節の後半には、イエスは再び十二人を呼び寄せて、自分の身に起ころうとしていることを話し始められた、とあって、そのあと34節までには三度目の死と復活の予告の内容が記されています。こう話しておられます。「今、わたしたちはエルサレムへ上って行く。人の子は祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して異邦人に引き渡す。異邦人は人の子を侮辱し、唾をかけ、鞭打ったうえで殺す。そして、人の子は三日の後に復活する。」――これまで二回の予告と比べると格段に詳しくなっています。まず、「エルサレムへ上って行く」と言っておられて、エルサレムで死と復活の出来事が起こるということを明示しておられます。また、「死刑を宣告して」とあって裁判のことに初めて触れられ、「異邦人に引き渡す」とあるように、異邦人であるローマ総督の手に引き渡され、ローマの兵隊たちによって侮辱され、鞭打たれて十字架に架けられることがはっきりと述べられています。この「引き渡し」という言葉については以前にもお話ししていますが、「裏切る」と訳される言葉と原語が同じなのです。イスカリオテのユダが主イエスを祭司長たちに売った行為について同じ「引き渡し」という言葉が使われています。しかし、大事なことは、この言葉が予告の中で使われているということで、思いもかけず裏切られたとか、予想に反して引き渡されたのではなくて、すべては神様の御意志によって行われ、主イエスもすべてご存知の上で行われたということであります。「引き渡し」の主人公は神様であって、主イエスはその神様の御意志に従われたということであります。更に申しますならば、この先14章には最後の晩餐の場面が出て来ますが、そこで、パンを裂いて与えられたあとで、杯を取って、彼らにお渡しになったことが書かれています。そこで「お渡しになる」という言葉が同じ「引き渡す」という原語なのです。これは単にパンとぶどう酒を弟子たちに渡されたということではなくて、主イエス御自身を弟子たちに引き渡されたという意味が込められています。そのご自身の体の引き渡しが、ここでは祭司長たちや律法学者たちに引き渡すことで始められ、異邦人に引き渡すことで、全ての民に、そして私たちにも引き渡されるということが暗示されているのであります。

2.ヤコブとヨハネの願い

 さて、主イエスがこのような重要なことを、緊迫感を持って語られたすぐあとに、弟子のヤコブとヨハネが主イエスに身勝手なお願いをしたことが書かれているのであります。ヤコブとヨハネと言えば、シモン・ペトロとアンデレの兄弟と共に、最初に主イエスの弟子になった人たちです。山上の変貌のときなど重要な場面でペトロと共にその場に連れて行かれた弟子であります。そんな彼らが、主イエスの前に進み出てこう言いました。「先生、お願いすることをかなえていただきたいのですが。」――彼らは今聞いたばかりの厳しい予告を忘れたかのように、自分たちの願いを聞いてもらおうとしています。主イエスはそんな二人に「何をしてほしいのか」と言われますと、二人は臆面もなく、「栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください」と言いました。今、主イエスがエルサレムで殺されるということを話されたばかりなのに、なぜこんな願いをここで持ち出したのでしょうか。彼らは「栄光をお受けになるとき」と言っております。主イエスは「人の子は三日の後に復活する」ともおっしゃいました。だから、殺されてもそれで終わりになるのではなくて、その後、栄光をお受けになると受け取ったのでしょう。彼らは主イエスの予告には驚いたのですが、死のあとには勝利があるということに期待したのでしょう。そういう意味では、二人は主イエスの言葉を素直に信じたのであります。しかし、主イエスの死にどのような意味があるのか、そして復活とは何かということを全く理解していなかったのであります。彼らは主イエスが復活されたあとは、この世で強い権力を持っている王のような形で、世界を治める王の地位に就かれるというように理解したのでしょう。そして、その場合には弟子たちの中でも特別な扱いを受けていた自分たちだから、主イエスの右と左の重要なポストに就かせてほしいと願ったのでありました。主イエスが栄光をお受けになるのなら、主イエスのために率先して従って来た自分たちも栄光を受けたいと思ったのであります。

 このようなヤコブとヨハネの願いは、愚かしい願いだと思われるかもしれません。自分ならそんな厚かましいことはお願いしないと思われるでしょう。確かに、これと同じようなことを主イエスに期待なさるということはないでしょう。しかし、よく考えてみてください。ここには、私たちが信仰を持つことによって期待することと根本的には同じものがあるのではないでしょうか。私たちは皆、自分の人生・自分の毎日の生活を充実したものにしたい、生き甲斐のあるものにしたい、苦しいこと・辛いことは避けたい、他からの力に縛られるのでなくて自由に生きたい、他人から評価され・尊敬されるような生き方をしたい、そして出来るなら他の人の上に立って指導するような立場を得たい、というような思いを抱いているのではないでしょうか。私たちは、キリスト教は御利益宗教ではない、現世利益を求めるのは間違っているということを知っています。しかし、私たちが信仰を持つことによって期待するところは、結局のところ、自分にとって益になること、自分が良い立場に立てるということ、自分が平安や安心を得たいということではないでしょうか。――では、このような私たちに対して主イエスはどう向き合ってくださるのでしょうか。

3.主イエスの決心

ヤコブとヨハネの願いに対して、主イエスはこう言われました。「あなたがたは、自分たちが何を願っているのか、分かっていない。」――このお言葉は、<あなたたちは願うべきことを願っていない>という意味に受け取れます。間違ったことを願っているということです。何のために弟子になっているのか、何のために信仰を持っているのかを間違って理解している、ということです。そして続けて主イエスはこう言われました。「このわたしが飲む杯を飲み、このわたしが受ける洗礼を受けることができるか。」――ここで「杯を飲む」とか「洗礼を受ける」と言っておられるのは、神様のお怒りによって苦難を受けて死ななければならないことを意味しています。主イエスはこれからエルサレムに行って、その苦難をお受けになって死なれるのであります。その苦難を一緒に受けられるか、と問うておられるのです。これは、大変厳しい問いかけであります。この主の問いに対して、彼らは簡単に「できます」と答えております。彼らはまだ、これから主イエスに起こることをよく理解出来ていなかったということもあるでしょう。しかし、エルサレムでは大変なことが起こりそうだということは、ある程度分かっていて、そういうことがあっても主イエスに従って行こうとは思っているのです。彼らは真面目だし、真剣ではあるのです。この主の問いかけは、主に従って行こうとする私たちにも投げかけられている問いであります。私たちも良い加減な気持ちで教会に来ているわけではないでしょう。ある程度の犠牲や負担は覚悟の上で来ている筈です。そういう意味では私たちも真面目なのです。しかし、弟子たちや私たちが主イエスと同じ苦難を受けることが出来るのでしょうか。弟子たちは実際には、主イエスが捕えられた時には、早々に逃げ出してしまいました。私たちも神様のお怒りをまともに受けることが出来るのでしょうか。弟子たちと同じことになってしまうのではないでしょうか。

 「できます」と答えたヤコブとヨハネに対して、主イエスは「確かに、あなたがたはわたしが飲む杯を飲み、わたしが受ける洗礼を受けることになる」とおっしゃいます。これはどういうことでしょうか。主イエスも弟子たちのことを甘く見ておられたということでしょうか。そうではありません。主イエスは弟子たちの弱さを知っておられました。彼らが十字架の時には逃げてしまうことも御存知でありました。それなのに、このように言われたのは、主イエスがこのとき既に、彼らが飲むべき杯を飲み、受けるべき洗礼を受けようと決心なさったということではないでしょうか。この弱い弟子たちの罪も、御自分で背負って、身代わりになって、十字架に架かろうと決心なさった、ということです。この主イエスの言葉は、御決心の言葉であったのです。この弟子たちは、主イエスの十字架の時には、やはり逃げてしまう弱い弟子たちでありました。しかし、主イエスがお甦りになり、聖霊が弟子たちの上に降った時からは、見違えるように、勇敢に主イエスのことを宣べ伝える働きをするようになります。そのことを、主イエスはこの時に決心された、ということです。事実、この二人の弟子は、殉教の死を遂げることになったと伝えられています。弟子たちが言った「できます」という言葉は、まったく当てにならないものでしたが、主イエスはその言葉を確かな言葉に変えられたということです。ここの対話の中で弟子たちが願っていたことは、的外れであり、彼らの言葉は頼りにならないのですが、主イエスはそれを真実に変えられたのであります。――私たちの信仰や決意も、この弟子たちの「できます」という言葉と同じように、頼りないものでありましょう。しかし、主イエスが決心してくださるならば、私たちの頼りない「できます」も、確かなものに変えられるのであります。
 このあと続けて主イエスは40節でこう言われます。「しかし、わたしの右や左にだれが座るかは、わたしの決めることではない。それは、定められた人々に許されるのだ。」――ここでは主イエスは彼らの将来について断定を避けておられます。それは自信がないということではありません。天の国のこと、終末のことに関しては、天の父なる神様に委ねておられるのであります。私たちも、終わりの日にどうなるのかということについては、神様に委ねるべきであります。私たちは知る必要がないのであります。主イエスは、終わりの日には天の王座にお就きになるお方であります。しかし、今は、終わりの日のことについては何も知り得ない私たちの側について、<知らなくても全く差支えない>ということを、身をもって教えておられるのであります。

4.イエスの願い――仕える者に

 ところで、41節にはヤコブ、ヨハネ以外のほかの弟子たちの反応が記されています。ほかの十人の者はこれを聞いて、ヤコブとヨハネのことで腹を立て始めた、とあります。彼らが腹を立てたということは、彼らも同じようなことを願っていて、ヤコブとヨハネに出し抜かれたと思って恨んでいるのであります。聖書がここで彼らのことを記しているのは、誰もが同罪である、ということを示すためです。私たちもヤコブやヨハネと変わらないことを願っているのではないか、ということです。私たちも心の奥底では自分の栄光を願っているのであります。主イエスはそんな弟子たちと私たちのために、真に願うべきことは何なのか、そしてその願いを叶えるために、主イエスが何をなさろうとしておられるのかを、より明白な言葉をもってお語りになったのが42節以下のお言葉です。
 まず、42節から44節でこう勧めておられます。「あなたがたも知っているように、異邦人の間では、支配者と見なされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕となりなさい。」――「異邦人」と「あなたがた」が対比されています。「異邦人」とは神様を知らない人たちであるのに対して、「あなたがた」とは神様の特別な選びのもとでの歴史を歩んで来たイスラエルの民のことでありますが、ここでは、あなたがたも異邦人と同じようになってしまっているではないかという意味が込められています。あなたがたも、自分が他人より偉くなりたい、そして権力を振るいたいと思っているではないか、という指摘であります。そして、「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい」と教えられます。これはもちろん、偉くなり、高い地位に就くための方法を語っておられるのではありませんし、この世で他人とうまくやって行くための処世術を教えておられるのでもありません。神様が何を望んでおられるか、主イエスが私たちに何を願っておられるかを示されているのであります。「人の僕になりなさい」と言われました。それは<奴隷になりなさい>という意味です。けれどもそれは、他人の言いなりになりなさいということではありません。愛をもって仕えるということであります。
 主イエスはこの言葉を弟子たちや私たちに教えられただけではなくて、御自身が身をもってこのお言葉どおりのことをなさろうとしておられるのであります。そのことが45節で語られています。「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」――「身代金」と訳されている言葉は奴隷を買い戻すための「代価」のことですが、「贖い」とか「償い」という意味を持っています。主イエスは私たちを愛し抜かれて、罪深い私たちのために御自身の命を献げて、私たちの命が失われないための「償い」をしてくださる、そのためにこそ来たのだ、とおっしゃっているのであります。弟子たちや私たちは人に仕えるよりは人から仕えられるような、手前勝手な願いを持ってしまう者たちでありますが、主イエスは多くの人に仕え、御自分の命を人に献げるという願いをもって、この世に来てくださったのであります。

結.定められた人々に

 最後に、先ほど聞いた40節の言葉をもう一度思い起こしたいと思います。そこでは、「わたしの右や左にだれが座るかは、わたしの決めることではない。それは、定められた人々に許されるのだ」と語っておられました。これは、定めるのは神様なのだから、神様の御計画に任せなさい、という意味にとるべきでしょうか。確かに、私たちが努力するとか、私たちが人々のために仕える度合いによって私たちの座る出来が決まるのではなくて、神様がお決めになることであります。けれども、誰がどこに座るかは、主イエスにもよく分からないから、神様にお任せするしかないとだけ言っておられるのではないでしょう。主イエスは、弟子たちや私たちが救われて、神の国の定められた席に座ることを願っておられるのであります。そのためにこそ、十字架への道を歩もうとしておられるのであります。
 主イエスはヨハネ福音書の1423節でこう約束しておられます。「わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。行ってあなたがたの場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。」――主イエスは十字架の道を歩まれることによって、このお言葉のとおり、私たちのための場所を神の国に用意してくださったのであります。ですから、私たちのような者もまた、主イエスの贖いによって神の国の主イエスの近くの席に座ることを許された、40節で言われている「定められた人」なのであります。だからもう、主イエスの右・左の座を自分たちだけが座らせてもらえるようにといった誤った願いを持つ必要はありません。あとはただ主に信頼して、残されたこの世における生涯を、一人でも多くの人が共に神の国の定められた席に座れるために仕えることを私たちの願いとして生きたいものであります。祈りましょう。

祈  り

贖い主イエス・キリストの父なる神様!
  私たちは何を願うべきかを知らず、人に仕えるよりも仕えられることを望んでしまう者であることを示されました。主イエスは、そんな罪深い私たちさえも救うことを願って、御自分の命を献げて下さいました。有難うございます。私たちは、この主に仕えるほかありません。様々な不安や恐れに陥ったり、この世の栄誉に目を奪われそうになる時も、この主にのみ信頼することができる者としてください。そしてどうか、この主イエスと共に、私たちも人に仕える者とならせてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

主日礼拝説教<全原稿> 2016年1月10日  山本 清牧師 

 聖  書:マルコによる福音書10:32-45
 説教題:「
何を願うべきか」         説教リストに戻る