だから、あらゆる汚れやあふれるほどの悪を素直に捨て去り、心に植え付けられた御言葉を受け入れなさい。この御言葉は、あなたがたの魂を救うことができます。          (ヤコブの手紙1:21

 本年の主題聖句は標記の後半である。そこに至るまでにもいくつかの大切なことが記されている。まず、「良い贈り物、完全な賜物はみな、上から、光の源である御父から来るのです。・・・御父は、御心のままに、真理の言葉によってわたしたちを生んでくださいました」(11718)と言われているように、私たちの「心に植え付けられた御言葉」は光の源である父なる神から来たものである、ということを覚えねばならない。また、「だれでも、聞くのに早く、話すのに遅く、また怒るのに遅いようにしなさい」(19)とも教えている。自分の考えや主張を先に据えるのではなくて、まず神の言葉に込められた御心に耳を傾けること、そして自分の正しさを主張して怒りに走るのではなく、私たちの過ちに対して忍耐と憐れみをもって接してくださる神の裁きに委ねるべきなのである。その上で、「あらゆる汚れやあふれるほどの悪を素直に捨て去る」(21)ことを勧めている。私たちは生まれながらに罪の性質を持っている。それを私たちの精進努力で捨て去ることは容易でない。そこには悔い改めが必要であるが、それは神の御心である御言葉(「出来事」との意味もある)が主イエスの御業によって救いの出来事となる時に初めて可能となる。御言葉の力こそが私たちの心を根本から改良することが出来るのだ。
 標記の言葉を述べたあと、「御言葉を行う人になりなさい」(22)と勧め、「御言葉を聞くだけで行わない者」を「生まれつきの顔を鏡に映して眺める人」に譬えている(2324)。礼拝に出て、御言葉の前に立つときに、自分の内面の本当の姿を見ることができるが、礼拝の場から立ち去ると、自分に言い訳をしながら、御言葉に従わず、従来の生き方や行いに帰ってしまうのが私たちである。そこで、「自由をもたらす律法を一心に見つめ、これを守る」(25)ことを勧める。律法は本来、私たちを縛り付けるものではなく、私たちを感情や欲望の虜から解放して自由を与えるものである。「御言葉は、あなたがたの魂を救うことができます」(21)と言われる。「魂」とは、「心」や「精神」といった目に見えない抽象的なものではなく、聖書では「命」とか「全人格」「生き方」を表わす。御言葉は、私たちの心の中だけでなく、具体的な生き方や行いを左右し、私たちの人生を罪から救うのである。

主日礼拝説教<要 旨> 2016年1月3日  山本 清牧師 

 聖  書:ヤコブの手紙1:19-27 
 説教題:「
御言葉は魂を救う」 説教リストに戻る