序. 御言葉が行いとして実を結ぶために

 明けましておめでとうございます。新しい年をどのような思いを持ってお迎えになったでしょうか。
 米子伝道所では12月の委員会で2016年の年間目標と主題聖句を決めました。決めるに当たっては、昨年の目標がどのように達成されたのか、どのような課題が残されたのか、といったことを総括する必要があります。昨年は「御言葉が実を結ぶ」ということを目標に掲げました。それは、礼拝出席者数が増えるとか受洗者が与えられるといった目に見える形で実を結ぶことを願ったものでありました。残念ながら、礼拝出席者数については引き続き減少しました。それには亡くなった方がおられることや、入院や介護などの止むを得ない事情もありますが、求道者の出席が少なくなっているということも影響していると思われます。しかし、一方、7月には久しぶりに受洗者が与えられるという大きな恵みがありました。これは私たちが努力した成果というようなものではなくて、全く神様の導きとしか言えないものでありました。けれどもその受洗者も、このところ礼拝に姿を見せておられません。このように、目に見える形で実を結んだとは言い難い状況ではありますが、神様の恵みが乏しかったとか、救いの御業がこの教会では行われていないということではありません。礼拝は休むことなく行われて、御言葉が欠けることはありませんでした。課題は、その御言葉が一人一人の魂の奥深くに届いているかということ、そして御言葉が各人の生活の中で生かされているかということであります。一昨年の目標が「御言葉に生かされる」でありました。その上に立って、昨年は「御言葉が実を結ぶ」としたのでありましたが、もう一度、御言葉が私たちの中で生きて働いて、私たちの生活のあり方を変え、魂を救う力を持っていることを再確認できることを目標に、今年は、ヤコブの手紙121節の後半の聖句をもとに、年間目標を本日の説教題である「御言葉は魂を救う」とすることに決めたのであります。
 この年間目標に対応する主題聖句が書かれているヤコブの手紙というのは、宗教改革者マルティン・ルターが「藁の書簡」と言ったことで有名であります。<価値のない手紙>という意味であります。ルターはローマの信徒への手紙に励まされて宗教改革の口火を切った人ですが、そのローマの信徒への手紙でパウロが主張していることは、「人が義とされるのは律法の行いによるのではなく、信仰による」(ローマ328)ということでありました。それに対してこのヤコブの手紙では、224節にあるように、「人は行いによって義とされるのであって、信仰だけによるものではありません」と言われていて、一見、真逆のことを主張しているように見えるのであります。しかし、この手紙はパウロの主張に反対しているのではなくて、パウロが主張した信仰による義の教えを誤解した人たちが、行いを軽視して不道徳な行為を行っていることを強く戒めるために書かれたものであって、決してパウロの主張と矛盾することを言おうとしているのではありません。むしろ、表面的な信仰に留まるのではなくて、実質を伴った深みのある信仰へと導こうとしている書簡であるということが出来ます。今日与えられている箇所は、小見出しにもありますように、御言葉を聞いて実践することの大切さを述べている部分で、この手紙の核心部分と言える箇所で、その中心の言葉が、今年の主題聖句として選んだ121節の後半であります。今日は、この聖句を中心に19節から21節の箇所を学ぶことによって、御言葉が私たちの生活の中で、具体的な行いとして実を結ぶという今年の目標を、はっきりと捕えることが出来たらと考えています。

1.光の光源である御父から来る御言葉/植え付けられた御言葉

 今日の19節からの箇所に入る前に、16節からの箇所を読んでおきたいと思います。わたしの愛する兄弟たち、思い違いをしてはいけません。良い贈り物、完全な賜物はみな、上から、光の光源である御父から来るのです。御父には、移り変わりも、天体の動きにつれて生ずる陰もありません。御父は、御心のままに、真理の言葉によってわたしたちを生んでくださいました。それは、わたしたちを、いわば造られたものの初穂となさるためです。1618節)ここで「真理の言葉」というのは神の言葉のことで、創世記によれば、人間をはじめ万物は神の言葉によつて創造されました。また人間が神の御心に従って生きるために、神の言葉が「律法」という形でイスラエルの民に与えられました。しかし、それでも御心に従わない人間のために、神様はイエス・キリストによる救いという福音の御言葉を与えてくださったのであります。こうした御言葉はすべて、光の源である父なる神様から来たものであります。神様の御心が現されたものであります。主題聖句の中に、「心に植え付けられた御言葉」という言い方があります。原文には「心に」という言葉はないのですが、大切な点は、御言葉は光の源である神様によって、上から植え付けられたのであります。問題はその御言葉が根付くかどうか、生活のあらゆる場面で生かされるかどうか、そして救いという形で実を結ぶまでに至るかどうか、ということが問われるのであります。

2.聞くのに早く、話すのに遅く

 さて、19節に入って、こう教えています。わたしの愛する兄弟たち、よくわきまえていなさい。だれでも、聞くのに早く、話すのに遅く、また怒るのに遅いようにしなさい。

 この言葉は、<人と話す時には、まず相手の話をじっくりと聞くことが大事で、自分の主張を先に述べてはいけない>という戒めの言葉としても有益ですが、ここは先程読んだ1718節の文脈で読まなければなりません。そこには神様から真理の言葉が与えられているということが書かれていました。ですから、ここで「聞くのに早く」と言われているのは、<まず神様の真理の言葉を良く聞きなさい>ということであります。私たちは自分の感覚とか自分の考えを中心に据えて、それに合うものは受け入れるけれど、合わないものは否定するというところがあります。それでは神様の御心を聴き取ることは出来ません。まず、神様の御言葉に込められた御心に耳を傾けることから始めなければならない、ということです。私たちの感覚や考えは自分を中心にしたところから出ていますから、私たちの罪が反映しています。それをそのままにしておいては罪に止まったままになります。だからまず、神様の言葉に耳を傾けて、自分の感覚や考えに間違いがないかということを謙遜にチェックして、正すべきは正すということを行うところから始めなければならない、ということです。特に、信仰のこと、神の真理に関わることは、自分の体験や自分の考えを一旦横に置いて、まず御言葉に聴いて、そこから出発しないと、何も得ることが出来ません。パウロもローマの信徒への手紙の中で、「実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まる」(1017)と言っております。更に言いますと、神様の言葉に「聞く」ということは、「聞き従う」ということです。自分の考えや自分のこれまでの生き方をベースにして、その上に神様の恵みをプラスしようとしても、それは御言葉を聞いたことにはなりません。神様の御言葉に自分の考えや生き方を合わせる、それが「聞き従う」ということで、そういう聞き方でなければ、御言葉は自分のものにはならないし、前進にはつながらないのではないでしょうか。

 19節ではまた、「怒るのに遅いようにしなさい」とも言っていて、続く20節では、人の怒りは神の義を実現しないからです、と言っております。御言葉に聞くことを疎かにして話すことに早い人は、怒ることにも早くなります。これも、人間同士の間のこととしても当て嵌まる戒めで、相手のことをよく理解せずに、自分を相手に理解させようとあせるところから怒り出て来ます。しかし、ここでも神様との関係が重要です。「人の怒りは神の義を実現しない」と言われています。「神の義」とは<神の正しさ>ということですが、神の正しさとは、間違ったものを厳しく罰するだけではありません。むしろ、人間の間違いに対して忍耐と憐れみをもって接してくださいます。ですから、私たちが怒ることは、そのような神様の忍耐と憐れみに満ちた御心を写し出すことにならないので、「神の義」を実現しないのであります。人は自分が正しいと思って怒ります。神の義を行っているとさえ思っているかもしれません。しかし、人間の怒りの中には、人間的な感情や考えが入り込みますし、誤った判断も入り込みがちであります。そして何よりも神様の忍耐と憐れみとはずれてしまいます。裁きは神様に委ねるべきであります

3.御言葉を受け入れるとは

 そこで21節の言葉になります。だから、あらゆる汚れやあふれるほどの悪を素直に捨て去り、心に植え付けられた御言葉を受け入れなさい、と勧めています。私たち人間が持っているものを「あらゆる汚れやあふれるほどの悪」と言っております。私たちが生まれながらにして持っている罪の性質のことを言っているのでしょう。これを捨て去るということは容易ならざることであります。自分の精進や決心で捨てられるものではないでしょう。そこには悔い改めが必要です。悔い改めというのは、私たちの側の反省や心の入れ替えではありません。御言葉に耳を傾け、御言葉の力が働いて初めて可能となることです。御言葉とは、言うまでもなく口先の言葉だけのことや、理想を語るだけの言葉ではありません。「言葉」というのはギリシャ語では「ロゴス」と言いますが、これには、「理性」とか「道理」といった観念的な意味もありますが、「出来事」という意味もあります。言葉とは、それを語る人の心を表わすものですが、それが出来事になるのです。神様はご自身の御心を、主イエスをお遣わしになるという愛と憐みの出来事でお示しになりました。御言葉によって、この神様の愛と憐みの出来事に出会うときに、悔い改めが起こり、あらゆる汚れやあふれるほどの悪を捨て去ることが出来るのであります。それが「御言葉を受け入れる」ということでもあります。ある人は、「植え付ける」という言葉から畑に種を植え付けることを連想して、土が悪いと苗を植えても根付かないので、根付かせるためには土壌改良をする必要があるように、御言葉が根付くためには私たちの心の土壌改良が必要だ、ということを言っております。でも、自浄努力で土壌改良が出来るのでしょうか。17節で、「良い贈り物、完全な賜物はみな、上から、光の源である御父から来る」と言われていたことを忘れてはなりません。土壌改良は上からの光がないと出来ません。神様から注がれる御言葉の力こそが私たちの心を改良するのではないでしょうか。

4. 御言葉を行う

 さて、ここまで御言葉を聞くことの大切さが語られて来たのですが、22節に入りますと、御言葉を行う人になりなさい、と勧めております。ここからがヤコブの手紙らしいところであります。続けて、言います。自分を欺いて、聞くだけで終わる者になってはいけません。御言葉を聞くだけで行わない者がいれば、その人は生まれつきの顔を鏡に映して眺める人に似ています。鏡に映った自分の姿を眺めても、立ち去ると、それがどのようであったか、すぐに忘れてしまいます。
 ここで「御言葉を聞くだけで行わない者」を「生まれつきの顔を鏡に映して眺める人」に譬えています。御言葉を聞くことによって、お化粧や仮面によって隠されていない生まれつきの顔を見るのと似て、平素は隠されている内面の素顔を見ることができます。しかし、鏡の前から立ち去ると、自分の本当の姿を忘れてしまうように、御言葉から離れると、自分の内面の本当の姿を忘れてしまうのであります。そして、「自分を欺いて、聞くだけで終わる者になって」しまうのであります。醜い自分の姿を忘れて、自分を正当化してしまって、行いに結び付けようとしないのであります。そうであっては御言葉を本当に聞いたことにはなりません。私たちは礼拝において御言葉の前に立ちます。その時は、曲りなりにも自分の本当の姿を垣間見ることが出来るのですが、鏡の前から離れるように礼拝の場から立ち去ると、自分に言い訳をしながら、御言葉に従うことをせず、これまでの生き方や行いを変えようとはしないということがあるのではないでしょうか。神の言葉が「出来事」にならないのです。
 そういう私たちに対してヤコブは25節でこう語ります。しかし、自由をもたらす完全な律法を一心に見つめ、これを守る人は、聞いて忘れてしまう人ではなく、行う人です。このような人は、その行いによって幸せになります。――「自由をもたらす完全な律法」とは何でしょうか。普通、「律法」と言えば、旧約聖書に記されているモーセの律法のことであります。律法は、本来は人々を罪を犯すことから開放するものでありますが、律法学者たちが様々な規定を付け加えて、人々を開放するどころか、自由を奪って縛り付けるものにしてしまいました。そうした中で主イエスが来られて、罪の赦しの御言葉を語られました。実際、自ら十字架にお架かりになることによって、私たちの罪の贖いとなってくださいました。そのことによって、私たちは罪の結果の死から解放されて、自由にされたのであります。神の言葉はこういう形で「出来事」になりました。この救いの出来事によって、私たちは感情や欲望の虜から解放されて自由にされたのであります。もはや上辺を飾る必要はありません。御言葉の示す道に従って、自分らしい生き方、人に仕える行いをすることができるようになるのです。
 「このような人は、その行いによって幸せになります」と言っております。この「幸せ」という言葉は、山上の説教で「心の貧しい人々は、幸いである」とか「憐れみ深い人々は、幸いである」と言われているのと同じ言葉です。喜んで御言葉に聞き従って、善い行いをする者とされるということです。

5.信仰の実りとしての行い

 最後の2627節は「信心」ということについて具体的な説明が加えられています。自分は信心深い者だと思っても、舌を制することができず、自分の心を欺くならば、そのような人の信心は無意味です。みなしごや、やもめが困っているときに世話をし、世の汚れに染まらないように自分を守ること、これこそ父である神の御前に清く汚れのない信心です。――「信心深い」とは、<宗教的祭儀に熱心>という意味の語で、形式的に礼拝に連なって、信者らしく振る舞うことです。「舌を制することが出来ず、自分の心を欺く」とは、自分の思いや主張だけを述べて格好をつけて、自分の本当の姿を偽るということでしょう。そういう上辺だけの信仰生活は無意味だと言っているのです。「みなしごや、やもめが困っているときに世話をする」というのは、旧約の時代から大切にされてきたことですが、身の周りで困っている人を助けるということです。最後に「世の汚れに染まらないように自分を守ること」が勧められています。そのためには、御言葉で武装する必要があるでしょう。

結.御言葉は魂を救う

 最後に、もう一度今年の主題聖句の21節に戻りますが、「御言葉は、あなたがたの魂を救うことができます」と言われています。「魂」とは「心」とか「精神」といった、直接行いに結びつかないように思える抽象的なことだけを意味するのではありません。聖書で「魂」とは「命」とか「全人格」、「生き方」さえ表わす言葉であります。御言葉は、私たちの心の中だけを綺麗にしたり、平安にするだけではなくて、具体的な生き方や行いを左右するということであって、御言葉に耳を傾けそれに従うときに、私たちの生活自体が救われて、御心に適うあり方に変えられるということであります。今年は、この御言葉に信頼し、支えられながら、歩んで参りたいと思います。 祈りましょう。

祈  り

御言葉において私たちと関わり給う父なる神様!
  神の言であるイエス・キリストの御言葉と御業において、私たちに向き合ってくださり、救いの出来事を成し遂げてくださって、御言葉を私たちにも植え付けてくださり、今も、御言葉をもって私たちを導き、養ってくださっていますことを覚えて感謝いたします。
  この新しい年も、植え付けられた御言葉に従って歩んで行こうとしております。どうか、一人一人が御言葉に真摯に向き合う日々を送ることが出来るようにして下さい。そして、御心を行う者とならせてください。またどうか、この教会の歩みが、御言葉によって方向づけられ、力を得て、御心に適うものとされますよう、導いてください。
  御言葉から遠ざかっている方々を顧み、御言葉に聞いて従う喜びへと立ち帰らせてください。
  主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

主日礼拝説教<全原稿> 2016年1月3日  山本 清牧師 

 聖  書:ヤコブの手紙1:19-27
 説教題:「
御言葉は魂を救う」         説教リストに戻る