「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり、この僕を安らかに去らせてくださいます。わたしはこの目であなたの救いを見たからです。」
                        (ルカによる福音書2:2930 

 主イエスが誕生して、律法に定められた清めの期間が過ぎたとき、両親は律法に従って生まれた子を主に献げるために神殿に連れて来た。そのとき、正しい人で信仰のあついシメオンという人が神殿にやって来た。この人は「主が遣わすメシアに会うまでは決して死なない」とのお告げを聖霊から受けていた。このとき既に高齢に達していたと考えられ、約束が本当に実現するのかという不安をぬぐえない中で、なお約束を信じ、希望をつないでいたと思われる。彼は、両親が幼子を連れて来たのを見て、その子が救い主であることを聖霊の導きによって分かったようである。そして、幼子を抱いて、標記のように神をたたえはじめた。そこではもはや、死の不安が乗り越えられている。シメオンが見たのは、王や大祭司の子ではなく、貧しい家の赤ん坊であり、救い主と思えるようなしるしは何も見えない中で、聖霊によって目が開かれて、「救いを見た」のである。
 また、神殿にいた女預言者ハンナは、若いときに夫に死別し、今は八十四歳になっていたが、神殿を離れず、断食と祈りによって神に仕えていた。彼女もまた、死の時が迫る中で、神殿において、神と向き合う祈りの生活をしていたのであるが、彼女も救い主に出会うことが出来た。
 シメオンは更に、「これは万民のために整えてくださった救いで、異邦人を照らす啓示の光」とも語る。イスラエルだけでなく、全ての人々の罪からの救いが述べられている。だが、一方で、「この子はイスラエルの多くの人を倒したり立ち上がらせたりするためにと定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています」とも述べ、人々の反対を受けて十字架にまで至ることを暗示している。
 ところで、当時の神殿は、後に主イエスが宮清めをなさらなければならなかったように、「祈りの家」としてのあり方が歪められていたのであるが、その神殿が、二人の老人と救い主とが出会う場所となったのである。このように、腐敗した神殿であったが、そこが神の救いの御業の場としての役割を果たしたのである。このエルサレムの神殿は、やがてローマ軍の手によって破壊され、その役割は教会に引き継がれるのであるが、その教会もまた弱さを持ち、罪が入り込み、この世の流れに翻弄されている。そうした中で、私たちも罪の結果としての死に向き合わなければならない。だが、神殿がそうであったように、教会も弱さの中で、神が臨在される場として、救いの御業に用いられ、万民のために整えられた救いが行われ、そこから世界を照らす啓示の光が輝くのである。

主日礼拝説教<要 旨> 2015年12月27日  山本 清牧師 

 聖  書:ルカによる福音書2:21-38 
 説教題:「
整えてくださった救い」 説教リストに戻る