序. 神殿において

 先週は恵みの内に子供たちと一緒にクリスマス礼拝を守って、心から救い主の誕生を喜ぶ群れに加わることを許されました。(先週の礼拝に来ることが出来なかった方はその喜びに加われなかったことは残念ですが、)今日与えられている聖書の箇所にも、二人の老人の姿を通して、救い主の誕生に伴う喜びが記されています。この箇所を通して、もう一度、神様によって備えられた救いの喜びに与りたいと思います。
 アドベントの前からルカ福音書を読んで参りましたが、ある人は、筆者のルカが神殿に関心を示しているということを指摘しています。確かに、ルカは神殿に関わる三つの物語を取り上げています。すなわち、1章では祭司ザカリアが神殿で天使からヨハネ誕生の御告げを受けました。今日の箇所では、生れた主イエスが神殿で献げられて、そこでシメオンとアンナに出会った物語が記され、次の箇所では十二歳の主イエスが両親と共に神殿に詣でた時の物語が語られているのであります。当時の神殿は、後に主イエスが「強盗の巣」とおっしゃって、境内で商売をしていた人々を追い出されたことが19章に記されているように、神殿を取り仕切る祭司たちと、そこで商売を営む商人たちが結びついて、祈りの家としてのあり方が歪められていたのであります。そのような腐敗した神殿ではありましたが、そこがまた、神様が備えてくださった救いとの出会いの場所にもなるのであります。神様は神殿を通して、救いの御業を続けておられることが明らかにされたのであります。神殿の果たす役割は続くのであります。
 その後、このエルサレム神殿はロ-マ軍の手によって破壊されることになります。そして、神殿が持っていた大事な役割は教会に引き継がれることになります。しかし、教会もまた弱さをもっています。教会にも罪が入り込みます。この世の流れに翻弄されます。神様から託された救いの砦としての役割を十分に果たせていないように思えます。では、現代の神殿である教会の存在価値はなくなったのでしょうか。それとも、神様は今も、教会を通して救いの御業を進めておられるのでしょうか。――そのことを問いつつ、主イエスが神殿に献げられたことを記す今日の箇所から、御言葉を聴き取りたいと思います。そして、新しい年への心構えを新たにしたいものであります。

1. その子を主に献げるために

 今日は221節から朗読していただきました。そこには生まれてから八日目のことが書かれています。八日目には、前に学んだ洗礼者ヨハネの誕生の記事にもありましたように、割礼を施し、名前をつける日であります。幼子の名前は「イエス」と名付けられました。これは天使ガブリエルがマリアに命じた名前でありました。この名前には「主は救い給う」という意味があります。イスラエルにおいては珍しい名前ではなかったようですが、正に救い主イエス・キリストに相応しい名前であります。
 次の22節から24節の箇所には、幼子イエスが神殿に連れられて来た目的が記されています。モーセの律法によれば産婦は出血の汚れがある三十三日間は家に留まるように定められていたので、その期間が終わってから神殿に出向きました。それは、生れた子を主に献げるためでありました。主に献げるとは、具体的には神殿に仕える祭司にするということですが、実際にはそんなことをすると家業を継ぐことが出来ないので、子供を献げる代わりに、雄羊一匹と、家鳩または山鳩一羽を献げることが定められていて、主イエスの家庭は貧しかったので、鳩を献げたということであります。このようにして、主イエスも、多くの子供がそうであったように、実際の祭司の職には就かれませんでしたが、その御生涯は、正に神様に献げられた生涯でありましたし、最後には本物の犠牲として自らの命を献げられることによって、神様と人との間を執り成す祭司の役割を果たされることになるのであります。ここではそのことは暗示的に記されているだけで、ルカが強調していることは、「律法に」という言葉がここまでにも三度記されているように、主イエスが律法に従われたということであります。主イエスの御生涯は伝統を重んじ律法に固執する人たちとの緊張関係に置かれることになるのですが、主イエスは決して律法を軽視されたわけではなく、むしろ律法を本来の意味で成就されるためにこそ来られたということを述べようとしていると受け止めることが出来ます。

2.待ち望む人生

 さて、そのあとの今日の箇所では、シメオンとアンナという二人の人物が幼子主イエスに出会ったことが書かれています。

 シメオンの人生については2526節でこう要約されています。そのとき、エルサレムにシメオンという人がいた、この人は正しい人で信仰があつく、イスラエルの慰められるのを待ち望み、聖霊が彼にとどまっていた。そして、主が遣わすメシアに会うまでは決して死なない、とのお告げを聖霊から受けていた。――「正しい人で」とありますが、イスラエルの世界において「正しい人」とは律法を忠実に守っている人のことであります。しかし、シメオンは律法を形式的に守っているだけではなくて、「信仰があつい人」でもありました。神が与えてくださった掟を信頼して、そこに示された真実な生き方をしていたということでありましょう。そんなシメオンの生き方の最大の特徴は、「メシアに会うまでは決して死なない、とのお告げを聖霊から受けていた」ということでした。単に気まじめな優等生の人生を歩んでいたということではありません。生きている間にメシアに会えるという約束を聖霊の導きによって受けていたのであります。恐らくそのような約束は、日々の祈りの中で、神様の御心を問う中で与えられたものだったでしょう。そのような約束をいつごろ与えられたのかは分かりませんが、このあと29節で「今こそあなたは、お言葉どおり、この僕を安らかに去らせてくださいます」と言っていることから推測できるように、この時にはかなり高齢に至っていたと考えられます。つまり、すぐ先に迫って来る「死」と向き合う年齢に至って、与えられた約束が本当に実現するのだろうかという不安も拭えない中で、なお約束を信じ抜き、将来に希望をつないでいた、ということであります。

 もう一人のアンナの人生については36節以下にこう記されています。また、アシェル族のファヌエルの娘で、アンナという女預言者がいた。非常に年をとっていて、若いとき嫁いでから七年間夫と共に暮らしたが、夫に死に別れ、八十四歳になっていた。彼女は神殿を離れず、断食したり祈ったりして、夜も昼も神に仕えていた。――若くして夫と死に別れて、60年間もやもめ暮らしを続けて来たのであります。子供もなく、世間的に見れば寂しい、幸せとは言い難い人生であったと想像できます。既に84歳になっていましたから、体や気力の衰えが避けられない中で、独り身の寂しさを覚えつつ、やがて死の時が確実にやって来るという現実の中にありましたが、彼女は自分自身で人生の寂しさを埋めようとしたり、この世の楽しみで人生を満たそうとはしなかったようであります。「神殿を離れず、断食したり祈ったりして、夜も昼も神に仕えていた」とありますように、日々神様と向き合うだけの生き方を続けていたのであります。ただ、神様だけが満たしてくださることを待つ人生だったと言えます。

 この二人に共通することは、どちらも高齢になって死が現実のこととして迫って来る中で、神様からの救いを待ち続けていたということであります。待つということは、手をこまねいて何もしないということではありません。二人とも絶えず神様に語りかけ、聖霊に導かれながら、神様の御心に耳を傾ける、祈りの生活であったにちがいありません。――皆様はこのような二人の老人の生き様をどのように受けとめられるでしょうか。消極的でつまらない生活のように思えるかもしれません。自分では何も出来ないほどの高齢になればともかくも、それまでは、もっと積極的で活動的な日々を過ごしたいとお考えになるでしょうか。若い方であれば、尚更、このような生活に身を委ねることには踏みきれない、と思うかもしれません。もっと目の前の楽しみや喜びを自分の手で掴み取りたいと思うかもしれません。

 しかし、高齢に達していたこの二人だけでなく、誰にも死の時は訪れるのであります。罪の結果としての死を避けることは出来ないのです。自分の死の問題もありますし、愛する者とも別れなければならないという現実もあり得ます。そのような避けることが出来ない死の問題について、真剣な問いをせず、解決を求めないでおいて、今の生き方に本当の喜びや平安があるのでしょうか。本当の命、永遠の命、罪からの救いへの確信がなくて、将来への希望があるのでしょうか。

3.今こそ、安らかに/救いを見た

 さて、27節によると、シメオンが“霊”に導かれて神殿の境内に入って来たとき、両親は、幼子のために律法の規定どおりにいけにえを献げようとして、イエスを連れて来ました。その様子を見たシメオンは、驚くべきことに、一見して、その幼子が待ちに待った救い主であると分かったのであります。そこには聖霊が働いたのでありましょう。そして、シメオンは幼子を腕に抱き、神をたたえ始めました。29節から32節は「シメオン賛歌」と呼ばれるものです。
 まず、「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり、この僕を安らかに去らせてくださいます」と言っております。死が乗り越えられています。もはや死が彼を不安に陥れることも、希望を失わせることもありません。「わたしはこの目であなたの救いを見たからです」と理由を述べます。シメオンは何を見たというのでしょうか。シメオンが見たのは、王様の子でも、大祭司の子でもなく、貧しい田舎娘の赤ん坊であります。救い主と思えるようなしるしは何も見えない中で、シメオンの目が聖霊によって開かれて、「救いを見た」のであります。
 私たちが救いを見る、救いを確信出来るというのも、同じことなのではないでしょうか。そこには聖霊の導きが必要なことは言うまでもありませんが、それに伴って、祈ることによって、神様と交わることがなければ、私たちの信仰の目は開かれません。私たちが聖書で出会う救い主のお姿は、あの馬小屋での誕生から十字架の死に至るまで、決して神々しい、強さに満ちたお姿ではなく、むしろ、貧しい、弱々しい、みすぼらしいお姿であります。そのお姿を見て、救い主に出会うのであります。
 31節以下では、「これは万民のために整えてくださった救いで、異邦人を照らす啓示の光、あなたの民イスラエルの誉れです」と言っております。シメオンは25節にあったように、「イスラエルの慰められるのを待ち望」んでおりました。しかしここでは、「万民のために整えてくださった救い」と言い、「異邦人を照らす啓示の光」と歌っております。イスラエルだけではなく、世界のあらゆる民族を救う、救い主を見ているのであります。先週のクリスマス礼拝で、天使が羊飼いたちに告げた言葉を聞きましたが、そこでも「わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる」と言われていました。この「民全体」や「万民」の中には、異邦人であり、罪人である私たちも含まれています。全ての人々の罪からの救いが述べられているのであります。

4.多くの人の心にある思い

 このようにシメオンは万民の救いを高らかに語ったのでありますが、一方で、その後の3435節で、母親のマリアにこんなことを言っております。「御覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人を倒したり立ち上がらせたりするためにと定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。――あなた自身も剣で心を刺し貫かれます――多くの人の心にある思いがあらわにされるためです。」――ここには、この幼子によってもたらされる光の面とは逆の、暗い面が語られています。ユダヤ人だけではなくて異邦人までも救いの光が届いて、多くの人が立ち上がることが出来るようになる反面、倒される人が出て来るのであります。すべての人の正体がはっきりして来るのであります。また、主イエス御自身も、褒め称えられるよりも、反対を受けることになり、十字架にかけられ、マリア自身の心が剣で心を刺し貫かれるような痛みを経験しなければならないようなことになる、と言っているのであります。「多くの人の心にある思い」とは、人間が勝手に抱いている救いの理想像であり、人間の罪のことであります。十字架を取り巻く人々は「もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい」(ルカ2335)と言ってあざ笑いました。これは十字架の死を無にするような思いであります。神様の愛から来る救いの御業を否定する思いであります。それは、当時の指導者をはじめ、民衆までもが巻き込まれてしまった思いであり、何よりも腐敗した神殿を覆っていた思いであったのであります。当時の特殊な状況の中だけではありません。現代の世界を覆っているもの、また我が国の状況にも重なっていますし、もしかすると教会の中にも入りこんで来る思いであり、私たち自身にも忍び寄って来る思いであります。
 私たちは罪の結果としての死に向き合わざるを得ない者たちであります。しかし、そのことにきっちりと向き合おうとせずに、楽しいことや、自己満足的な生き甲斐で自分の命が充実しているように錯覚してしまうのであります。私たちの命は罪の問題の解決がなくては、真の喜びも、生き甲斐もありません。あまりパッとしないように見えるシメオンやアンナの生き方、祈りの中で神様と向き合う生き方の中にこそ、本当の平安があるのであります。

結.整えてくださった救い

 そのような生き方は自分たちの努力や精進の結果、身に着いたり、達成できるというものではありません。31節に「これは万民のために整えてくださった救い」という言葉がありました。ユダヤ人も異邦人も、万民が死すべき罪人であります。神様に逆らう者たちであり、自分で自分を救おうとする者たちであります。そんな私たちが永遠の死の滅びから脱出して新しい命に生き始めるために、神様が主イエス・キリストを送り給うことによって整えられた救い、これこそがシメオンが待ち望んでいたものであり、アンナが神殿で昼も夜も求めていたものであり、私たちに備えられた本当の救いであります。
 そのような救いは、当時の神殿の中では失われたかに見えておりました。主イエスが宮清めをなさらなければならない状況でありました。しかし、主イエスの降誕の出来事は、まず神殿で仕えていたザカリアに天使がヨハネの誕生が告げられるという形で始まりました。そして、今日の箇所では幼子イエスが神殿を訪れ献げられるという旧来の儀式の中で、聖霊に導かれたシメオンによって、救いが始まったことが告げられました。また、長く「神殿を離れず」に仕えたアンナが、シメオンの言葉を聞いて神を賛美し、救いを待ち望んでいた人々に知らせました。このように、神殿は死んでおらず、そこに神様が御臨在され、そこにおいて救いの御業が行われ、告げられたのであります。
 教会も今、その力が弱っているように見え、そのために何か他の力を借りようとする誘惑に心を動かされたり、将来に対する希望を見出せなくなったりしてしまいがちであります。しかし、現代の神殿である教会には、主イエスが献げられたのであります。そして救いを待ち望んでいて、メシアに会うまでは決して死なないとの約束を受けているシメオンとの出会いがあり、神殿を離れず、夜も昼も神に仕えるアンナがいるのであります。否、私たち自身がシメオンとなりアンナとされるのであります。そして、そこには万民のために備えられた救いがもたらされるのであります。そこからは世界を照らす啓示の光が輝くのであります。罪の結果の死が克服されて、永遠の命が始まるのであります。クリスマスによって、既に救いはこの地上の教会で始まっているのであります。讃美と感謝の祈りを献げましょう。

祈  り

救い主イエス・キリストの父なる神様!
  1年最後の主日に、あなたが設けて下さった神殿である教会に来て、万民のために整えてくださった救いを見ることが出来ましたことを、感謝と共に賛美いたします。
  あなたが輝かしい啓示の光を掲げてくださったにもかかわらず、その光が全ての人に届いていない現状があり、あなたが整えてくださった救いを受け入れていない者たちが多くあります。また、私たち自身も、その救いに身を委ね切れない罪があります。どうか、そのような私たちをなお憐れんでくださり、イエス・キリストの故にお赦しください。そして、死すべき私たちに永遠の命をお与えください。
  どうか、新しい年の歩みが御心にかなったものとなりますように。
  主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

主日礼拝説教<全原稿> 2015年12月27日  山本 清牧師 

 聖  書:ルカによる福音書2:21-38
 説教題:「
整えてくださった救い」         説教リストに戻る