序. 不信仰を超えて

 来週はいよいよクリスマス礼拝を行なうのでありますが、今年はそれまでの4回の礼拝では、ルカによる福音書の第1章に書かれている、主イエスの誕生前の出来事を見て参りました。そこには祭司ザカリアに告げられた洗礼者ヨハネの誕生の予告と処女マリアに告げられた主イエスの誕生の予告、そして、そのマリアがザカリアの妻エリサベトを訪問して「マリアの賛歌」と呼ばれる賛美を歌ったことが書かれ、今日の箇所では、いよいよ洗礼者ヨハネが誕生したことと、それを受けて父ザカリアが「ザカリア賛歌」とも呼ばれる預言の言葉を述べたことが書かれているのであります。
 これらは、2章に書かれている主イエスの誕生の前の156か月の間に起こった出来事でありますが、そこには神の民としてのイスラエルの長い歴史が凝縮されており、旧約聖書で告げられて来たことが凝縮しているように思います。旧約聖書に書かれていることは、その名の通り、キリスト以前の旧い約束であります。それは、神様が与えてくださった律法に従って生きるならば、神様の恵みのもとにあることが出来るという約束であり、やがてその約束を完成する救い主が来られるという約束であります。ここではその約束が、悔い改めによる罪の赦しを説いた洗礼者ヨハネの誕生の経緯と救い主イエス誕生の予告という形に凝縮されているのであります。しかし、そこには、予告を受けた人たちが、直ちには信じられないという現実がありました。ザカリアは妻エリサベトと共に既に年老いていて、祭司としての跡取りとなるべき子の誕生を諦めていたので、天使の言葉を信じることが出来ずに「何によって、わたしはそれを知ることができるのでしょうか」と問い返しました。マリアはヨセフと婚約していましたが、まだ男と関係を持ったことがないのに「身ごもって男の子を産む」と告げられて、「どうして、そのようなことがありえましょうか」と言って、天使の言葉を殆んど否定いたしました。このように、約束が語られているのに信じることができない状態の中に、イスラエルの民の不信仰な罪の歴史が凝縮されているのを見ることが出来るのであります。
 けれどもその不信仰は、イスラエルの民だけではありません。人類全体をイスラエルの民が代表しているのでありますし、今の私たちと神様の御言葉との関係、神様の救いの御心を素直に受け入れることが出来ない私たちの不信仰をも代表しているのであります。しかし、そのような不信仰の中を、天使ガブリエルによって告げられた出来事は着々と進んで参ります。神様の救いの御業は人間の不信仰にもかかわらず、進んで行くのであります。
 今日は待降節第三の主日を迎えております。待降節というのは、ルカ福音書に書かれているような、主の約束と人間の不信仰が向き合う中で、神様の御業が進んで行くことが、今も起こっているということを再認識するための期間であると言ってよいでしょう。待降節というのは、イスラエルの民に代わる神の選びの民としての教会に対して、またその教会に導かれている一人一人に対して、神様が約束してくださっている救いの約束の御言葉を、どう聴くのか、どう受け止めるのかを、特に強く問われる期間であります。
 今日は特に、天使の言葉を信じられなかったために口が利けなくされたザカリアがその後どうなったのかという経緯を通して、私たち自身が神様の約束の言葉をどう受け止めたらよいのか、神様は不信仰な私たちにどのように関わってくださるのかを聴き取りたいと思います。

1.口が利けない中で

 ところで、祭司ザカリアとその妻エリサベトは、前に聴いたところに書かれていましたように、「二人とも神の前に正しい人で、主の掟と定めをすべて守り、非のうちどころのなかった」のであります。彼らは共に祭司の家系に属しており、旧約聖書に教えられている掟と定めを守り、神がイスラエルの民に約束された救いの約束を信じていて、誰が見ても非のうちどころがない信仰生活をしていました。しかし、二人は年をとって子供がなく、跡継ぎの子供が与えられることは事実上諦めていました。ここに約束を信じるという信仰の本来のあり方と実際の心の状態との間にズレが生じていたのであります。このことは冒頭にも述べましたように、この夫婦に限られた個人的な問題に止まるものではなく、神様の約束を与えられていたイスラエルの民全体の問題を代表しており、私たちキリスト者にもある問題を表わしております。もちろん、キリスト者でない人たちには、神様の約束自体が届いていないかもしれませんし、届いていても、とても受け入れることは出来ませんし、ましてその約束が実現するなどとは考えていないのであります。そんな中で起こったのが、天使ガブリエルに告げられたヨハネ誕生の知らせであり、それに続く処女マリアへの受胎告知と言われるものであります。これらの告知は神様の約束を信じていない者はもちろんのこと、ザカリアとエリサベト夫妻のような非のうちどころがない信仰者にとっても、信じ難いことなのでありますが、今もこの天からの告知は聖書を通してこの待降節に世界中に鳴り響いているのであります。
 けれども、ザカリアはその知らせを信じることが出来なかったために、直ちに口が利けなくされました。せっかくの喜ばしい知らせを、他の人に知らせたり、賛美を表現することが出来なくされたのであります。このことも、ザカリアの個人的なことではなくて、神様の御言葉の約束を信じていることになっていて、その喜びを伝える使命を与えられている筈の私たちにも起こりがちな事柄であります。
 けれども、与えられた聖書の記事から私たちが聴き取らなければならないのは、そのようなザカリアの不信仰にもかかわらず、天使が告げた事態は着々と進んで行くということであります。妻エリサベトは身ごもります。そのことはある時期が来れば、当然エリサベトにもザカリアも分かって来た筈であります。自分たちの不信仰であったことが明瞭になって来ます。そして、今日の57節に記されているように、月が満ちて、エリサベトは男の子を産みました。続く58節には、近所の人々や親類は、主がエリサベトを大いに慈しまれたと聞いて喜び合った、と記されています。老夫婦だけでなく、喜びが近所や親類の人たちにも広がったということですが、これもイスラエルの民全体に及ぶべき喜びの出来事であり、人間の思いを越えた神様の御言葉が実現したという意味で、今も世界中で喜ぶべき事柄であります。

2.「この子の名はヨハネ」――神の言葉を語る者へ

 この時に起こったことは、もう出来ないと諦めていた子供が生まれた喜びだけではありませんでした。ユダヤの習慣では、誕生してから八日目に割礼を施し、名前をつけるのが習わしでありました。集まった人々は、父親はもう年をとっているし、生れた子には父親のザカリアという名を継がせるのがよいと考えました。「ザカリア」という名前には「主は覚えていてくださった」という意味がありますから、そういう意味でも相応しい名前であるように思えたのでしょう。

 ところが、母エリサベトは、「いいえ、名はヨハネとしなければなりません」と言いました。それは天使ガブリエルが名付けるようにと命じた名前でありました。これには「主は恵み深い」という意味があります。エリサベトがこの名前にこだわったのは、その名前の意味を大切にしたということもあったかもしれませんが、むしろ天使から命じられたことを口が利けないザカリアから筆談ででも教えられていたので、その名前にこだわったということでしょう。天使の言葉をザカリアから知らされて、エリサベトも初めは信じられない思いでいたのではないでしょうか。しかし今や、念願の男の子が与えられて、自分には大きな不信仰があったことに気づかされて、天使の言葉には従わなければならないという思いが強くなったのでしょう。

 ところが集まっていた人々は、「あなたの親類には、そういう名の付いた人はだれもいない」と言いました。彼らは古い習慣や伝統にこだわっていました。そこで、父親のザカリアに、「この子に何と名を付けたいか」と手振りで尋ねると、父親は字を書く板を出させて、「この子の名はヨハネ」と書きました。人々は皆驚きましたが、たちまちザカリアは口が開き、舌がほどけ、神を賛美し始めたのであります。こうして、これまでの習慣や伝統に囚われず、神様によって起こされた新しい事態に相応しい名前が付けられました。

このような、神の言葉に従うか、世間の人々の意見に従うか、この世の習慣や伝統に従うか、神様が起こしてくださる新しい事態に適応するのかは、今の私たちにも色々な場面で問われる決断であります。ザカリアとエリサベトは、起こり始めた新しい事態に動かされて、大胆に、その新しい事態に従う決断をしたのであります。

 ザカリアが「この子の名前はヨハネ」と書いた途端に口が開き、舌がほどけました。なぜ、利けなくなっていた口が開いたのでしょうか。ザカリアが天使の言葉に従ったからでしょうか。そうとも言えますが、もっと決定的な理由は、神様が天使を通して告げられた約束を果たされたからであります。不信仰であったザカリアでありますが、そんなザカリアを神様が憐れまれて、もう一度神様の言葉を証しする者へと造り替えようとされたからです。そんな神様の御心が伝わったので、ザカリアが天使の命じたことに従ったのは当然のことであります。

 神様は私たちに対しても、このような憐みの御心をもって導いてくださる、ということであります。不信仰な私たちのために、今日もこのように、ヨハネ誕生の出来事を通して、神様の約束の御言葉は必ず果たされることを告げておられます。罪からの救いと神の国に入ることの大きな約束を与えられています。その約束にはイエス・キリストの十字架による保証まで与えられています。もはや約束を信じる・信じないという段階を超えて、救いの御業は進んでいます。その事実に圧倒されて御言葉に従うとき、私たちの口も開かれるのであります。

3.聖霊に満たされ

 さて、口を開かれたザカリアは、さっそく、語ったのが67節以下の普通「ザカリア賛歌」と呼ばれているものであります。新共同訳の小見出しでは「ザカリアの預言」となっていますが、それは67節に、父ザカリアは聖霊に満たされ、こう預言した、と書かれているからでしょう。確かに、内容を見ると、生れてくる二人の子によって神様がどのようなことを起こそうとしておられるかが預言されているのであります。ここで注目したいことが二つあります。一つは、見落としてしまいがちですが、ザカリアが「聖霊に満たされ」て預言したと書かれていることです。そう言えば、ザカリアが天使からヨハネの誕生のことを聞かされた時も、「既に母の胎にいるときから聖霊に満たされていて」(15)と書かれていましたし、マリアが天使から身ごもったことを告げられた時も、「聖霊があなたに降り」(35)と述べられていました。また、マリアの訪問を受けたエリサベトも「聖霊に満たされて」、(41)マリアに対して祝福の言葉を述べました。すべては聖霊の働きによって進められているということであります。宗教改革者ルターはザカリアについてこう言ったそうです。「不信仰が沈黙せしめた人を、聖霊が預言者へと変える」と。天使の言葉を信じられず、口が利けなくされたザカリアが、預言の言葉を語ることが出来るようにされたのは、正に聖霊の働きによるほかありません。
 しかし、ザカリアが語ったことは全く新しいことではありません。70節に「昔から聖なる預言者たちの口を通して、語られたとおりに」とあります。つまり、イスラエルの歴史の中で預言者たちを通して示されてきたことが、ヨハネと主イエスの誕生によって実現するということです。――私たちも聖書を読み、神様の約束を聞いているのですが、その約束の御言葉に相応しい生き方をしているとは言えません。しかし、私たちにも聖霊が働くなら、ザカリアと共に、神様がなさる大いなる救いの御業について語る者とされるということであります。
 今一つ注目したいことは、ザカリアの預言の内容を見ますと、生れてくるヨハネのことを中心に述べているのかと思いきや、ヨハネのことについてはわずかに7677節で、「幼子よ、お前はいと高き方の預言者と呼ばれる。主に先立って行き、その道を整え、主の民に罪の赦しによる救いを知らせるからである」と書かれているだけで、他は全部、主イエス・キリストの働きのことが預言されているのであります。ヨハネの働きというのは、主イエスを指し示すことでありますが、そのことがこのザカリア賛歌の中にも表わされているということです。そしてこのことは、ヨハネと同じように主イエスを指し示す使命を与えられている私たちにも当てはまることであって、私たちキリスト者の人生、その生き方が、この賛歌の中に示されているように思います。

4.救いの角/あけぼのの光

 そういうわけで、このザカリア賛歌には主イエスの御業のことが多く語られていて、それらを全部取り上げていると何時間もかかってしまうことになりますので、今日はこの中の二つの言葉だけを取り上げたいと思います。
 一つは69節ですが、我らのために救いの角を、僕ダビデの家から起こされた、と言われている中の「救いの角」という言葉です。これは旧約聖書の中で力強い救い主の到来を示す言葉で、そのことが主イエスの誕生によって実現する、ということを語っているのであります。72節で、主は我らの先祖を憐れみ、その聖なる契約を覚えていてくださる、と言っている通りであります。敵であるサタンの力が強くても、また私たちが弱く、不信仰であったとしても、神様の救いのお約束は「救いの角」であるイエス・キリストによる新しい契約によって一層確実にされて、私たちの中に必ず実現するということであります。そしてそのことは、この待降節の出来事によって既に始められているのであります。
 今一つの言葉は、78節の3行目にある「あけぼのの光」という言葉であります。前後を読みますとこう言われています。これは我らの神の憐れみによる。この憐れみによって、高い所からあけぼのの光が我らを訪れ、暗闇と死の陰に座している者たちを照らし、我らの歩みを平和の道に導く。7879)「これは」というのは、直前のヨハネの働きのことも含めた、主イエスの御降誕の出来事のことであります。この出来事が起こされたのは、「神の憐れみ」によると述べています。神様は何を憐れまれたのか。それは「暗闇と死の陰に座している者たち」とありますように、世界が神様を信じないために、光を失ってしまい、死が支配している状態を憐れまれたのであります。これは二千年前だけではなく、現代の世界の状況でもあるのではないでしょうか。それは戦乱の只中の場所とか、貧困の中にある人たちとか、病に苦しんでいる人たちだけのことではありません。私たち自身が暗闇と死の陰に座しているのであります。教会はその中で光を灯すことが出来ているでしょうか。教会も暗闇と死の陰の中に座してしまってはいないでしょうか。罪の力、悪の支配に呑み込まれそうになっていないでしょうか。――そんな世界と私たちの状態を神様は憐れまれたのであります。そして二千年前に「あけぼのの光」によって照らし出されたのであります。それは「高い所から」とありますように、神様のところから発する光でありますが、ただ遥か遠くの高い所から照らすだけではなくて、「我らを訪れ」とありますように、神様の独り子を地上に送り込むという形で、私たちのところまで訪問してくださる出来事なのであります。それも優しい言葉や励ましの言葉をかけるというだけではなくて、十字架の死に至るまで身を捨ててまでして、私たちを光で照らし出してくださったのであります。その光は、私たちを平和の道へ導きます。平和とは単に争いがないということではありません。根本的には私たちにある罪の問題の解決、即ち神様と私たちの間に平和をもたらす罪の赦しのことであります。

結.小さなヨハネとして

 この待降節に私たちが聴かされていることは、この「あけぼのの光」が射し始めたということであります。まだザカリアやマリアの戸惑いや、イスラエルの民や私たちの不信仰がある中で、まだ大きな暗い山の陰が私たちを覆っている中で、一条の「あけぼのの光」が射し始めたのであります。
 そして、主イエスの御降誕に先立って洗礼者ヨハネが遣わされたように、まだ暗いこの世界の中に、先に信仰を与えられた私たちが遣わされているのであります。私たちはヨハネのように大胆に暗闇の世界に向かって挑むことは出来ないかもしれませんが、小さなヨハネとして私たちの周りに御言葉を伝え、「あけぼのの光」として来られる主イエスを指し示すことが出来るのではないでしょうか。
 祈りましょう。

祈  り

救い主イエス・キリストの父なる神様!
  待降節の礼拝に連なることを許され、ザカリアやエリサベトやその近所の人々や親類の人たちと共に、驚きをもって神様の大いなる救いの御業が始まったことを知ることができ、ザカリアと共に賛美を捧げることができますことを感謝いたします。
  私たち自身と私たちの周りには、まだ暗闇が覆っております。世界全体にも光が見えにくい状況があります。そうした中で私たちは「あけぼのの光」である主イエスの光を仰ぐことが許されています。
  どうか、不信仰で罪深い私たちでありますが、この光について証しすることの出来る者とならせてください。どうかクリスマスの礼拝において、一人でも多くの方々と共に、主イエスの大きな光を仰ぐことが出来るようにさせてください。
  主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

主日礼拝説教<全原稿> 2015年12月13日  山本 清牧師 

 聖  書:ルカによる福音書1:57-80
 説教題:「
主は恵み深い」         説教リストに戻る