「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう。」             (ルカによる福音書1:45 

 天使ガブリエルから聖霊による受胎告知を受けたマリアは、親類のエリサベトも年をとっているが身ごもっていることも知らされたので、急いでザカリアの家に出向いた。マリアがエリサベトに挨拶すると、その胎に宿っている子ヨハネがおどった。それで、彼女は聖霊に満たされて、「あなたの挨拶のお声をわたしが耳にしたとき、胎内の子は喜んでおどりました」と言って、標記のように語った。カール・バルトはこの箇所について、《すでに約束を受けている二人の人間がいるところには、教会がある。そして、教会が存在するところには、教会の希望であり給うお方が彼らのただ中にいましたもう》と言っている。私たちは、イエス・キリストによる救いの御業が行われること、そして終わりの日にはキリストが再臨されるとの約束を聞いて待ち望んでいて、それは未だ、目に見える形で、あるいは納得できる形で実現しているわけではない。しかし、エリサベトとマリアの胎内にあって姿を見ることはできないが、既にヨハネと主イエスがそこにいるように、約束の御言葉を聞いて信じる者が集う教会には、既に、聖霊において主が共におられるし、ヨハネと共に約束の御言葉を人々に伝える者たちも備えられていて、救いの御業は着々と進みつつあるのだ。
 エリサベトの言葉に幸いを覚えたマリアは、すばらしい賛歌を歌った。「わたしの魂は主をあがめ」と言っている。「あがめ」という言葉の元の意味は「大きくする」である。だから、<わたしの全存在、全人格が主を大きくする、かけがえのない存在とする>と言っているのである。そして、その理由として、「身分の低い、この主のはしためにも目を留めてくださった」と言っているように、神は、罪のない者とは言えず、何の取り得もない者、世間では評価されない、欠点の多い者にこそ目を留められるのである。今一つの理由として、「力ある方が、わたしに偉大なことをなさいました」と言っている。その「偉大なこと」には、主イエスの十字架と復活の御業が指し示されていると言ってよいだろう。
 更にマリアは、「その御名は尊く、その憐れみは代々に限りなく、主を畏れる者に及びます」、「その僕イスラエルを受け入れて、憐れみをお忘れになりません」というように、主の真実から来る「憐れみ」の永遠性を語っている。待降節は、この永遠の約束の御言葉をマリアと共に、信じ受け入れることへと招かれているときである。

主日礼拝説教<要 旨> 2015年12月6日  山本 清牧師 

 聖  書:ルカによる福音書1:39-56 
 説教題:「
御言葉を信じる幸い」 説教リストに戻る