序. 約束の御言葉を聞いて

 先々週の礼拝で聴いたのは、祭司ザカリアのところに天使ガブリエルが現れて、不妊の女だった妻エリサベトが男の子を産むという約束の言葉でありました。洗礼者ヨハネ誕生の予告であります。そして、先週の礼拝で聴いたのは、ヨセフと婚約中の処女マリアのところにも天使ガブリエルが現れて、男の子が生まれ、神の子と呼ばれるという約束の言葉でありました。イエス・キリストの誕生の予告であります。
 ザカリアは天使の言葉に対して、「何によって、わたしはそれを知ることができるのでしょうか。わたしは老人ですし、妻も年をとっています」と問い返したので、口が利けなくされました。マリアも最初は「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに」と疑問を呈しましたが、天使が「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む」と答え、「エリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。神にはできないことは何一つない」と語った言葉を聞いて、マリアは「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」と言ったのでした。
 私たちもまた、聖書を通して、また礼拝において語られる御言葉によって、神様の救いの約束を聴いている者たちであります。特に先週から待降節に入っています。待降節は主の御降誕を待ち望む時節ですが、既に2千年前にお生まれになったイエス・キリストを待降するという意味は、一つには、主イエス・キリストによる救いの御業が自分たちの上に実現することを待ち望むという意味であり、今一つは、終わりの日に再臨されるイエス・キリストを待ち望むという意味であります。こうしたことが起こることを私たちは約束の言葉として聞いていて、それを信じて受け入れるかどうかが問われています。それに対する私たちの対応はまちまちであります。ザカリアのように、信じられないとの思いで問い返す場合がありますし、マリアのように、はっきりと疑問を呈するのですが、説明の言葉を聞いて、御言葉に委ねる場合があります。しかし、いずれにしても、まだ目に見える形で、あるいは理屈で納得できる形で答えが与えられたわけではありません。御言葉を信じるかどうかにかかっています。終わりの日が来るまでは、イエス・キリストによる救いの御業は、あくまでも約束の御言葉として聴かされていることであって、誰にでも容易に納得できるものではありません。信じて受け入れるかどうかが問われる事柄であります。
 待降節というのは、神様が、そのような約束の御言葉をあらためて私たちに聴かせることによって、私たちを信じる者へと変えようとしてくださる恵みの時であります。では、待降節第二主日の今日はどのような御言葉を私たちに聴かせてくださるのでしょうか。

1.御言葉を信じるところに主が在す

 さて、今日の箇所に入りますが、天使の言葉を聴いたマリアは、間もなく出かけて、急いで山里に向かい、ユダの町に行きました。それは、ザカリアの家に行ってエリサベトに会うためでした。マリアが住んでいたナザレからエリサベトが住んでいるユダの町エルサレムまで100キロ以上あると思われます。なぜマリアはそんなに遠くまで、それも急いで出かけたのでしょうか。天使が「あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている」と言ったことを確かめたかったからでしょうか。それもあるでしょう。しかし、天使の言ったことが本当かどうかは、やがて必ず分かることであります。確かめるためだけにわざわざ行く必要はありません。むしろ、二人に起こった新しい事態について、エリサベトと共に喜びを共有したいという思いが、マリアの足を急がせたのではないでしょうか。処女であるのに身ごもったということで、婚約者のヨセフにどう思われるだろうかという不安などもよぎったかもしれませんが、そんな不安を超える大きな出来事を神様が起こしてくださるのだということに、じっとしておれなかったのでしょう。
 マリアはザカリアの家に着いてエリサベトに挨拶をしました。「おめでとうございます」という挨拶とともに、自分も身ごもっていることを天使から告げられたことを話したのでしょう。すると、エリサベトの胎内の子がおどった、と書かれています。これは、たまたま胎内の赤ん坊が足で蹴ったという普通の現象かもしれませんが、この時に起こっていることは、ただマリアが親類のエリサベトを訪問したというだけではなくて、神様の大きな御計画によって生まれてくる救い主イエスと洗礼者ヨハネが出会ったという、普通のことではない出来事が起こっていることを伝えたくて、聖書はこのような表現をしているのでしょう。神学者のカール・バルトは、この箇所について、<すでに約束を受けている二人の人間がいるところには、教会がある。そして、教会の存在するところには、教会の希望であり給うお方が彼らのただ中にいましたもう>と言っております。つまり、神様の約束の言葉を信じている者たちが出会っている教会には、目には見えないけれども、そこに既に主イエスがおられる、ということです。天使を通して神の言葉を聴いたマリアとエリサベトが出会ったことによって、ここに既に最初の教会が出来ているということであります。
 エリサベトの胎内で子供がおどったとき、彼女は聖霊に満たされて、いました。「あなたは女の中で祝福された方です。胎内のお子さまも祝福されています。わたしの主のお母さまがわたしのところに来てくださるとは、どういうわけでしょう。あなたの挨拶のお声をわたしが耳にしたとき、胎内の子は喜んでおどりました。主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう。」4244)――マリアに主イエスが宿るのは聖霊が降るからだと天使は言いました。今、エリサベトが証しするのも、聖霊に満たされてであります。生まれてくる洗礼者ヨハネがする役割は救い主を指し示すことでありますが、今エリサベトは聖霊に満たされてその役割を先行して行なっているのであります。主の御言葉を信じる者がいる所、即ち教会には、聖霊が働き、主を証しする働きが既に始まっているのであります。
 このことは今の私たちの教会にも起こるということを示しているのではないでしょうか。御言葉が語られ、それを聴いて信じる者が集まっているところ、そこには救い主キリストがいてくださり、私たちの目にははっきりとは見えないかもしれないけれども、聖霊において救いの御業は着々と行われているということであります。今年私たちは「御言葉が実を結ぶ」ということを目標に掲げてここまで歩んで来ました。そのことで私たちが特別なことをしたわけではありませんが、御言葉が語り続けられ、聴かれていることで、思わぬ実が結ばれることを経験いたしました。それは正に聖霊の働きによることでありました。しかし、その結ばれた実も決して安泰というわけには参りません。教会の働きは聖霊の働きによるものではありますが、同時に欠けがあり罪にまとわれた人間の営みでもあります。しかし、私たちの胎内には既に主イエスがおられます。そして御言葉が語られ、それを聴いて信じる者たちがいる限り、聖霊の働きが絶えることはありませんし、救いの御業は続きます。このことを改めて信じたいと思います。

2.信じる者の喜び――マリアの賛歌

2-1.わたしの魂は主をあがめ

 さて、46節以下の「マリアの賛歌」と呼ばれるものを聴いて参りたいと思いますが、その前に、どのようにしてこの歌が生まれたのかを確認しておきたいと思います。マリアは天使から男の子を身ごもっていることを告げられました。信じられないようなことでありました。それに対して天使が、聖霊があなたに降っているのだと説明し、不妊の女と言われたエリサベトも身ごもったことを教え、神にはできないことは何一つない、と言ったので、マリアは「お言葉どおり、この身になりますように」と応答したのですが、その時点ではまだこの歌が口に上ることはありませんでした。その後、急いでエリサベトの所に行って、共に神様の祝福を受けたことを喜びあって、エリサベトが45節で、「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう」と言ったことに応答する形で歌われたのであります。つまり、御言葉を信じる者たちが集まって交わるところに、はじめてこの賛美の歌が出て来たということです。私たちは礼拝で讃美歌を歌います。讃美歌を家で口ずさむこともできます。CDで聞いて楽しむことが出来ます。コーラスを歌ったり聞いたりすることも出来ます。それらも決して悪いことではありませんが、讃美歌は何と言っても、教会で約束の御言葉を他の人々と共に聴いて信仰へと導かれたことによって歌われるものです。そこには共に信じることの幸いと、そのことを成してくださる神への賛美が込められているものであります。

 マリアの賛歌は47節の「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます」という賛美で始まっています。「わたしの魂」「わたしの霊」と言っておりますが、これは「わたしの全存在、全生活、全人格」といった意味です。口先だけではなく、心から、全生活を通じて、ということです。「あがめ」という言葉の元の意味は「大きくする」ということです。自分の全生活の中で神様を大きくする、かけがえのない存在とする、ということです。約束の御言葉はまだ実現したわけではありません。それなのにこのような賛美ができるのは神の業であり奇跡である、とルターは申しました。教会の礼拝において賛美が起こるのも、人間の業ではなくて、神様の業であり、奇跡であります。

2-2.主にはしためをも

次の48節と49節には、主をあがめ、たたえることの二つの理由が述べられています。理由と言っても、約束を信じられる理由を述べているのではなくて、実現する事柄について、あがめ、たたえる理由を述べているのであります。まず一つ目の理由は「身分の低い、この主のはしためにも、目を留めてくださったからです」と言っております。これはマリアが謙遜して言っているのではありません。実際マリアは特別な家柄の娘ではなく、ナザレという一寒村の貧しい家の娘に過ぎませんでした。「主のはしため」という言い方は受胎告知の時にもマリアが言った言葉ですが、主の奴隷ということで、どのように扱われても文句の言えないような立場にあるということです。これは自分の愚かさや罪深さを自覚した言葉と言えるでしょう。神様は特別な身分を持っている者、すぐれた能力のある者、罪がなく信仰熱心である者に目を留めて用いられるのではありません。むしろ何の取り得もない者、世間では必ずしも評価されない者、欠けの多い者にこそ、神様は目を留められるということです。神様の救いの業に用いられる教会についても同様でありましょう。大きな教会や立派な人が属している教会を選んで用いられるのではなくて、むしろ目立たない小さな群れ、弱さや欠けを持っている者たちの集まりに目をとめて、大きな救いの御業をなされるということではないでしょうか。

そしてマリアは続けて、「今から後、いつの世の人も、わたしを幸いな者と言うでしょう」と言っております。そのようにマリアのことはいつの世にあっても、神様から幸いを受けた人と見るのが正しい見方で、マリアを特別優れた方、敬虔な方として特別扱いするのは間違いです。そして何の取り柄もない私たちもまた、御言葉を信じ受け入れることによって、後の世まで、幸いな者と言われるのであります。

2-3.力ある方が偉大なことを

 マリアが主をあがめ、喜びたたえるもう一つの理由を、49節でこう

言っております。「力ある方が、わたしに偉大なことをなさいましたから」と。ここでは神様がなさってくださった偉大な御業そのものについて語っております。御業と言っても、この時点でマリアが十字架や復活のことを知っているわけではありません。天使によって知らされたことは、神の子が一人の人間であるマリアに身ごもって、人間の一人としてお生まれになるということと、その方が先祖ダビデの王座に就いてヤコブの家を治めるということでありました。神の子が一人の人間となられるということは「偉大なこと」であります。これは28節で天使が言った「主があなたと共におられる」ということと同じです。神様は正しいお方であり、私たち罪ある人間から遠い存在であります。そのお方が、人間の体の中に身ごもり、罪ある人間と共に、人間として地上に生きられるのであります。それは、人間の問題・人間の悩みを遠く高い所から遠隔操作で解決するのではなくて、自ら重荷を担い、共に悩むためであります。人間のことを、御自分のこととして引き受けてくださるのであります。この時点では十字架がはっきりと示されているわけではありませんが、ここに十字架にまで行き着く愛があります。これが「偉大なこと」であります。また、ダビデの王座に就き、ヤコブの家を治めるというのは、もちろんこの世の王になるということではありませんが、悪を滅ぼして神の国を建設なさるということでありましょう。主イエスの十字架の上には「ユダヤ人の王」という罪状書きが掲げられていました。それはローマ総督ピラトが皮肉を込めて掲げさせたものでしたが、全ての人々の罪を担って十字架に架かられた主イエスこそが、霊の国である神の国の王であることを表わしていました。マリアがこの時点でそこまではまだ理解していなかったにしても、ここで「力ある方が、わたしに偉大なことをなさいました」と言っていることは、このことを指し示しているのではないでしょうか。

3.憐れみはとこしえに

 続けて50節にかけて、マリアはこう言っております。「その御名は尊く、その憐みは代々に限りなく、主を畏れる者に及びます。」また54節を見ますと、「その僕イスラエルを受け入れて、憐れみをお忘れになりません」と言っております。どちらにも「憐れみ」という言葉が出て来ます。「憐れみ」という言葉は「真実」とも「誠実」とも訳される言葉でありまして、誰かのことを一時的に可哀相に思うというようなことではなくて、ここで「憐れみは代々に限りなく」とか「憐みをお忘れになりません」と言われているように、永遠にわたって約束を忘れることなく真実を貫くということであります。神様が独り子を人間の一人として遣わしてくださったその憐みの御心と、救いの約束は、マリアやイスラエルの民ばかりでなく、今に至って私たちにも与えられ、終わりの日に完成する約束であります。待降節はこの永遠の約束の御言葉をマリアとともに聴いて、信じ受け入れことへと招かれているときであります。

結.なんと幸いでしょう

 マリアがエリサベトを訪ねて挨拶したときに、目には見えませんが二人の胎内には主イエスと洗礼者ヨハネがいました。そのように、神の約束の御言葉を信じる者が出会って、共に神の永遠の憐れみを賛美する、このような教会の礼拝の場には、今も主イエスが聖霊において共におられ、ヨハネと共に御言葉を更に人々に伝える者たちが備えられているのであります。こうして、救いの御業は今も着々と進められているのであります。エリサベトは、「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう」と申しました。この待降節に、主の約束の御言葉を聴いて、私たちもそれが必ず実現すると信じることは、この上ない幸いなことであります。そして、マリアとともに、私たちも「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます」と言って、主を賛美する者たちの群れに加わりたいと思います。
 賛美と感謝の祈りを捧げましょう。

祈  り

憐れみ深い父なる神様!
  マリアやエリサベトと共に、あなたの大いなる御業の約束を聴かされ、それを信じることへと招かれておりますことを感謝いたします。あなたの救いの御業はイエス・キリストによって既に成し遂げられ、私たちはそのことを聖書の御言葉によって、より鮮明に知ることが許されております。そして私たちのような罪深い者さえ赦されて、神の国の一員に加えていただけ、終わりの日にイエス・キリストにお会い出来るとの約束を与えられております。どうか、そのことが必ず実現すると信じる者とならせてください。そしてマリアと共にあなたをあがめ、喜びたたえつつ、この待降節を過ごすとともに、残された地上の歩みを全うする者とならせてください。どうか、この待降節と降誕節に、あなたの救いの御言葉に接する者を一人でも多くお与え下さい。
 主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

主日礼拝説教<全原稿> 2015年12月6日  山本 清牧師 

 聖  書:ルカによる福音書1:39-56
 説教題:「
御言葉を信じる幸い」         説教リストに戻る