序. 私たちへの受胎告知

 待降節(アドベント)第一主日の礼拝に与えられております聖書の箇所は主イエスの母となるマリアへの「受胎告知」の場面として知られております。ヨセフと婚約中のマリアのところに、突然天使ガブリエルが現れて、男の子を身ごもることを告げました。これにはマリアは驚かざるを得ませんし、戸惑いを隠せないのであります。天使は、聖霊があなたに降るのだとか、親類のエリサベトも年をとっていたけれども男の子を身ごもっているとか説明しますが、マリアはそれで納得が出来たわけではないでしょう。
 ところで、このマリアへの受胎告知は、このように聖書に記されることによって、すべての人々への救い主誕生の告知にもなっています。33節で天使は生まれて来る子について「彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない」と言っております。つまり、かねてより約束されていた救い主が誕生するということであります。また35節の後半では「生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる」とも言われております。神が人となって来られるということです。常識では考えられないことが起こることを告げているのであります。これらの言葉はマリアに語られたというだけでなく、人類全体に向けて告げられたことであって、私たち一人一人にも告げられている事柄であります。
 この箇所は、処女降誕という常識を破る出来事の不思議さによって、マリアと共に私たちも戸惑いを覚えざるを得ないのでありますが、それは神様がなさることであれば、小さい問題と言ってもよいかもしれません。私たちにとってもっと大きな問題は、人の子として生れてくる神の子主イエスを、救い主として受け入れるかどうか、ということであります。この方を私たちが生涯にわたって付き従って行く王として、救い主として、受け入れるのか、ということが問われているのであります。ですから、私たちは処女降誕の問題だけで戸惑っていては、このことから始まろうとしている全体像を見失ってしまいますし、救いから漏れてしまうことになります。もっとも、マリアがそうであったように、私たちにも、救いの出来事の全体像がはっきりと見えているわけではありません。しかし、私たちは既に、主イエスの地上での御言葉や御業も聖書から聞いております。十字架と復活の出来事も知っております。そうであれば、マリアよりももっと天使の言葉を受け入れやすいと言えるかもしれません。しかし、いずれにしても、神様の御業は私たちの常識を超えたことであり、理解し受け入れることが困難ではありますが、今日の箇所で語られている天使の言葉の一つ一つに、マリアと共に、戸惑いつつも真剣に耳を傾けたいと思います。そして、そこに込められている神様の御心を受け止めたいと思います。

1.主があなたと共に/おめでとう、恵まれた方

 おとめマリアのところに遣わされた天使ガブリエルが最初に言ったことは、「おめでとう、恵まれた方、主があなたと共におられる」28でありました。これはイスラエルでは日常的な挨拶の言葉であったと言われます。しかし、「シャローム」と言われる「平安あれ」という意味の普通の挨拶の言葉が、主イエスが語られる時には、そこに事実平安をもたらす言葉であったように、ここでも天使が語ることによって、普通の挨拶ではなくて、内実を持った言葉でありました。「おめでとう」と訳されているのは、直訳すると「喜びなさい」であります。また「恵まれた方」というのは、「既に恵みを受けた者よ」と言う意味です。そして、なぜ喜べるのか、なぜ恵みを受けたと言えるのか、その根拠が「主があなたと共におられる」ということです。そういう特別なことが事実起こっている、ということを天使は告げているのであります。マリアはこの言葉に戸惑い、いったいこの挨拶は何のことかと考え込んだ29)とあります。普通の挨拶の言葉であったとは言え、相手が天使ですし、まだ結婚もしていない田舎娘にこんな言葉がかけられて、何か特別な意味が込められているのではないかと思って、戸惑い、考え込んでしまいました。
 ところで、このマリアへの天使の言葉は、今日、待降節の礼拝において、神様から私たちに告げられている御言葉でもあります。神様は「喜びなさい、既に恵みを受けている者たちよ、主があなたと共におられます」と私たちに語りかけておられるのです。――しかし、私たちは、神様から改めてこんな言葉をいただくような特別な恵みを受けているようには思わないかもしれません。主が共にいてくださるということについても、抽象的にはそうかなとも思いつつも、具体的なことになると、解決が困難なこと、思い通りに行かないことがあれこれとあって、主が共におられるという実感を持ちにくいということがあるかもしれません。けれどもそんな私に、「喜びなさい、既に恵みを受けている、主があなたと共におられる」と告げられているのです。この言葉にマリアは戸惑いました。私たちも戸惑わざるを得ません。

2.イエスと名付け/ヤコブの家を治め

 すると、戸惑い、考え込んでいるマリアに天使はこう言いました。「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。」

 ここに語られた言葉は、マリアの戸惑いを解消するどころか、ますます戸惑わせ、考え込ませるような内容であります。「恐れることはない」と言われましたが、恐れざるを得ないことであります。「あなたは神から恵みをいただいた」と言われましたが、未婚で、婚約者の男とも関係したことがないのに子供が生まれるなんて、迷惑千万と言えるようなことであります。しかも、その子の名前を「イエスと名付けなさい」と言われました。「イエス」とは「主は救い」という意味です。イスラエルにおいては珍しい名前ではなかったようですが、イスラエルの人々が待ち望んでいた救いを表わす言葉が自分の子の名前にふさわしいとは思えなかったでしょう。また、そのあとに語られている「いと高き方の子」すなわち「神の子」と言われるなどということは畏れ多いことでありますし、「ダビデの王座をくださる」というのは、婚約者のヨセフがダビデ家の家系の属しているとはいえ、王座を与えられるとか、「ヤコブの家を治める」すなわちイスラエルを支配するなどということは考えられないことであります。

3.どうして、そのようなことが

 とても受け入れることが出来ないような天使の言葉に対して、マリアは率直にこう言っております。「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに」。――これは明らかに天使を通して語られた神の言葉に対する不信の表明であります。
 先週、私たちはザカリアに対して天使が現れて、洗礼者ヨハネの誕生を告げた箇所を学びましたが、そこではザカリアは「何によって、わたしはそれを知ることができるのでしょうか」と問いました。これは根拠を問うているだけで、否定するニュアンスは少ないのですが、マリアの応答は「そのようなことはありえない」という思いがはっきりと出ています。それは、ザカリアの場合は高齢になっていたとは言え、子供が生まれる可能性が全くなかったわけではないのに対して、マリアの場合は自分が男と交わった経験がないにもかかわらず子供が出来るなどということは全く考えられなかったからだと言えるかもしれません。しかし、この二人の問いに対する神様の取り扱いの違いはどうでしょうか。ザカリアの場合は直ちに口が利けなくされてしまいましたが、マリアの方は何のお咎めもなく、むしろこのあと、処女降誕の理由が語られ、エリサベトの事例のことが話されています。この違いは何でしょうか。マリアの場合の方が信じにくいことだから赦されたということでしょうか。そういう説明も成り立つのかもしれません。しかし、それで事柄の真相をすべて説明できたということにはならないのではないでしょうか。神様のなさることには、人間の判断を超えたものがあります。それは、神様の自由に属することであって、人間の私たちがあれこれ言えることではないと思います。
 では、皆様はこの天使の語った言葉をどのように受けとめられるでしょうか。待降節の美しい一シーンとして眺めているわけには参りません。処女降誕を述べた箇所として躓きを覚える方がいらっしゃいます。本当はヨセフとの間に婚前交渉があったのを聖書は美化して記しているのだとする人がいます。しかし、そんな解釈でここを読み過ごしては、何の益もありません。ここにはもっと大きなことが告げられています。主イエスの誕生というのは、マリアの家庭だけの個人的なことではありません。「イエスと名付けなさい」と言われているように救い主が神様から私たちのところに遣わされるという出来事であります。「ダビデの王座」につかれるとか、「ヤコブの家」を治めるというのも、古代の遠くの国の話ではありません。全世界の王として、永遠に私たちを御支配なさるお方として来られることが告げられているのであります。そのことを受け入れるかどうかが問われるのであります。しかし、そのことはマリアにとっても、私たちにとっても、決して自明のことではありません。簡単に「はいそうですか」と言えることではありません。けれども、このことには私たちの救いがかかっています。私たちがこれを受け入れるかどうかで、人生が変わります。神の国に入れるかどうかがかかっています。問い続けるだけでは救いは得られません。――しかし、幸いなことには、私たちには主イエスがこの世に誕生されてからの御業や御言葉に関する豊かな情報を聖書からいただいております。十字架や復活のことも知っております。不信仰な私たちの罪を贖うためにこそ、主イエスをお遣わしになったことも知っております。ですから、ここで天使が告げていることの背後には、神様の並々ならぬ御決意が込められていることを想像することが出来ます。御子をも惜しまないで私たちの救いのために遣わしてくださる恵みを覚えることが出来ます。それは全人類のためであると共に、この私のためでもあることと受け止めることも出来ます。そして、今日も、マリアへのお告げを通して、私たちにも喜ばしい知らせを送ってくださり、救いの中へ招き入れようとなさっているのであります。

4.聖霊があなたに降り

 けれども、ここで天使が語っていること、これから起ころうとしていること、またこのあとの主イエスの全生涯を当たり前のことにしてしまってはならないでしょう。あり得ないことであります。罪人が救われるというようなことは、元来あってはならないことであります。それは処女受胎以上にあり得ないことであります。「どうして、そのようなことがありえましょうか」と問わざるを得ないことであります。
 そのような問いに対して、天使はこう答えました。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。」(35)人間の可能性の中に、神の子の誕生ということはあり得ません。神様の霊の力が、不可能を可能にするのであります。37節では「神にできないことは何一つない」とも言われています。これは、神は全能で、何でも出来るから当たり前だ、ということではありません。神様は、男と女が交わることによって新しい命が誕生するという、御自分が造られた秩序を無視されるわけではありません。罪を犯した者、不信仰な私たちを、どうでもよいと放っておかれるお方ではなくて、罰せざるを得ないお方であります。だからこそ、御子を遣わして、私たちに介入されるのであります。それは、神様の全能の力によることですが、大きな痛みを伴う事柄であります。このことを<愛の冒険>という言い方をいたします。罪と悪に満ちた人間の世界に神の独り子を送り込むということは、神様の愛から出た冒険であります。それは何の抵抗や危険もない平穏な道ではなくて、御子が苦難を受け、十字架に架けられて死ななければならないような危険な道であります。だから<愛の冒険>なのであります。人間には誰にも出来ないことであります。しかし、「神にできないことは何一つない」のであります。それが、クリスマスに行われる神様の<愛の冒険>であります。そして、そのことを、マリアを用いてなされるのであります。これから起こることは、マリアにとってハッピーなことばかりではありません。聖霊によって懐妊したということがヨセフに信じてもらえるかという不安があるでしょう。結婚前に他の男と交わることは、石打の刑に値することであります。そんな死の恐怖を身に負わなければなりません。神様の<愛の冒険>はマリアの冒険でもあります。この神様の<愛の冒険>は、マリアに関係するだけでなく、私たちのためでもあります。「どうして、そのようなことがあり得ましょうか」と問わざるを得ない、不信仰な私たちのための<愛の冒険>でもあります。そしてこの神様の<愛の冒険>を信じて従う生き方は、私たちの冒険でもあります。他の道もあるのではないか、という不安がよぎるかもしれません。この世で築いて来た様々な人間関係や立場が崩れるのではないか、また、自分の持っている弱さや不信仰が、耐えられるのだろうか、といった不安もあるかもしれません。また、今この世で抱えている様々な問題が、すぐさまきれいに解決するわけではないかもしれません。長く忍耐を要するかもしれません。それに耐えられるだろうかという不安も出て来ます。しかし、天使を通してマリアに向かって「恐れることはない」と断言された神様は、私たちに向かっても、「恐れることはない」とおっしゃり、「クリスマスに誕生する主イエスこそ、あなたの王であり、人生の支配者である」と告げられ、「そのお方によってこそ、あなたの不信仰の罪は赦される」、「神にはできないことは何一つない」、「この言葉を信じなさい、そして主イエスに全てを委ねて従いなさい」と言っておられるのであります。この言葉を私たちは受け入れることが出来るでしょうか。

5.お言葉どおり、この身に

 天使ガブリエルの言葉に対して、マリアは言いました。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」38
 「はしため」というのは、女奴隷のことです。ですから、このマリアの言葉は、「わたしはあなたの奴隷です」と言っているのです。奴隷というのは主人の言うままになる者です。自分の命までも主人に預けるのであります。マリアは自分を全く神様の御手に委ね切ろうとしているのであります。「お言葉どおり」というのは、直接的には天使を通して約束されたように、生れてくる主イエスが「いと高き神の子と言われ」「ダビデの王座」にお就きになって、「ヤコブの家を治める」と言われた言葉どおりにということでありますが、そこには、単に強い権力をもって支配するというだけではなく、先ほどから述べておりますように、十字架の死による罪の贖いという<愛の冒険>が含まれているのであります。もちろん、この時点でマリアが主イエスの十字架のことを知っていたわけではありませんが、辛いこと、分からないことも、全てを神様に委ねるという信仰を表明しているのであります。天使が初めに、「主があなたと共におられる」と言いました。その言葉を、どんなことがあっても信じるということです。

結.マリアと共にわたしたちも

 今日、私たちは、マリアに語られた天使の言葉を、私たちにも語られている言葉として聴いて参りました。天使の言葉は私たちにとって信じられないようなことであり、場合によっては自分にとって幸せばかりでなく、苦しみやさえ伴うものであるかも知れないのですが、私たちもマリアと共に、「主が共におられます」という言葉を信じたいと思います。そして、主イエスが私たちを救いへと導いてくださることを信じて全てを委ねたいと思います。そして、私たちも「お言葉どおり、この身に成りますように」と祈り続けたいと思います。
 祈りましょう。

祈  り

イエス・キリストの父なる神様!
  あなたが天使を通してマリアに臨んでくださり、彼女をあなたの言葉を信じる者へとお導きになったように、私たちにも御言葉をもって向き合ってくださり、主イエスに身を委ねることへと招いてくださいましたことを感謝いたします。私たちは信仰が揺らぐことがあります。不安に襲われることがあります。望みを失いそうになることがあります。どうか、そんな私たちに、御言葉を絶やさないでください。また、御言葉に耳を閉じることがないようにさせてください。そしてどうか、困難な時も、御言葉を信じて、主の愛を信じて、主につき従って行く者とならせてください。
  主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

主日礼拝説教<全原稿> 2015年11月29日  山本 清牧師 

 聖  書:ルカによる福音書1:26-38
 説教題:「
お言葉どおり」         説教リストに戻る