序. 祝福の中の不信仰

 昨年から福音書ではマルコによる福音書を取り上げて参りましたが、今年もクリスマスを迎える準備をする時期になりまして、マルコ福音書には主イエスの降誕に関する記事がありませんので、今日から年末までは、ルカによる福音書の初めの部分から御言葉を聴くことにいたしました。
 クリスマスに関連する箇所ということであれば、15節までの「献呈の言葉」という小見出しがついている部分は省いてもよいのですが、敢えて11節からとしたことには理由があります。冒頭に、わたしたちの間で実現した事柄について、最初から目撃して御言葉のために働いた人々がわたしたちに伝えたとおりに、物語を書き連ねようと、多くの人々が既に手を着けています、とあります。ここで「実現した」と言っておりますのは、旧約聖書の時代にイスラエルの民に対して神様が約束して来られた<救い主メシアの到来>ということが実現したという意味でしょうが、今日の箇所の洗礼者ヨハネの誕生の物語も、救い主到来の先駆けとして起こった出来事であって、旧約聖書の御言葉の実現の一環として、ルカがどうしてもそこから書き始めなければならないと考えたのでありましょう。それと同時に、今日の箇所は、その洗礼者ヨハネの誕生の物語の内の、予告の部分であって、ここには天使によって告げられたヨハネ誕生の予告を信じられなかったザカリアのことが書かれているのでありまして、御言葉の実現を信じるかどうかということがテーマになっている箇所であります。そういう意味でも、冒頭に「わたしたちの間で実現した事柄について」と書かれていることと、今日の箇所とは深く結びついているのであります。
 ところで、祭司ザカリア夫婦には子供がなくて、既に二人とも年をとっていたのですが、ザカリアが聖所に入って大事な務めをしている時に、突如天使が現れて、妻エリサベトが男の子を産むとの約束の御言葉を聞いたのですが、ザカリアは信じることが出来なかったために、口が利けなくされたのであります。願っていたことが実現するという知らせで、喜ぶべき福音なのですが、人間的な判断では信じることが出来なかったのであります。ここに神様の祝福を受け入れることが出来ないザカリアの不信仰があります。このザカリアの姿はまた、主イエス・キリストの降誕の福音を聞きながらも、神様の救いの御業を容易に信じ切れない私たちの姿でもあります。私たちもまた、人生の様々な営みの中で、神様の祝福がよく見えず、自分には祝福が与えられていないのではないかと疑ってしまうことがあります。そういう意味でこの箇所は、来週から始まる待降節を前にして、不信仰な私たちのために備えられた御言葉として、聞き落としてはならない大切な箇所ではないかと思うのであります。

1.神の前にありながら

 さて、ザカリアは神殿に仕える祭司でありました。その妻エリサベトもアロン家の娘の一人であると書いてありますから祭司の家系の出であります。6節には、二人とも神の前に正しい人で、主の掟と定めをすべて守り、非の打ちどころがなかった、と書かれています。「神の前に正しい人で」と書かれていることに注目したいと思います。宗教家として、また一人の信仰者として、申し分のない模範的な生き方をしていたということであります。確かに表面的には、神の前で誰からも批判を受けないどころか、模範的な生き方をしていたのでありますが、このあと、ザカリアが本当に神の前に正しかったかどうかが明らかになります。そのことを明らかにするために神様がなさったことが7節に書かれています。しかし、エリサベトは不妊の女だったので、彼らには、子供がなく、二人とも既に年をとっていた、のであります。当時のユダヤでは、子供が出来ないということは、神様の祝福を受けていないと見做されて、恥ずかしいことでありましたし、祭司職というのは世襲制でしたから、子供がなければ祭司職の家系は断絶することになってしまいます。この夫婦にとって、子供を与えられることは切なる願いであり、そのことをずっと祈り続けていたに違いありません。しかし、その祈りも聞かれないまま、既に年をとっていました。祭司として申し分のない模範的な生き方をしていても、心の中には満たされない大きな空洞があったのではないでしょうか。――こういうことは、私たちにもあり得ることであります。よそ目には模範的な生き方をし、何の心配もないように見える場合でも、他人には言えない悩みがあって、心の内にある黒い雲を払い除けることが出来ないようなことがあり得ます。神様を信じておりながらも、本当に神様の祝福が自分にはあるのだろうか、と思いたくなるようなことがあります。そうした中でも、平静を装って、後ろ指を指されないような生活をすることも出来るし、キリスト者としての信仰生活を続けることも出来るかもしれません。ザカリア夫婦も、それに似た状態であったのではないかと考えられます。

2.喜びの知らせに対する疑問

 そんなザカリアに転機が訪れました。89節にはこう書かれています。さて、ザカリアは自分の組が当番で、神の御前で祭司の務めをしていたとき、祭司職のしきたりによってくじを引いたところ、主の聖所に入って香をたくことになった。当時、祭司というのは二万人近くもいたようで、24の組に分かれていて、一つの組に当番が回って来るのは年二回なのですが、その組の中で一人だけが聖所に入ることが出来るので、それはくじ引きで決めたのです。これは一生に一度当たるかどうかという幸運を引き当てたということであります。
 おそらくザカリアはこの大役を果たすため、緊張しながら聖所に入って行ったと思います。すると、主の天使が現れ、香壇の右に立ったのであります。その時のザカリアの様子を聖書は、こう記しています。
 ザカリアはそれを見て不安になり、恐怖の念に襲われた、と。聖所というのは、神様が御臨在なさると信じられていた場所であります。聖書は8節で、「神の御前で祭司の務めをしていたとき」と、わざわざ「神の御前で」と記しています。そうであれば天使が現れても当然である筈です。それなのに彼は、不安になり、恐怖の念に襲われました。それまで、神様の御臨在ということを本気では信じていなかったのでしょうか。――こんなザカリアのことを私たちも笑うことは出来ません。この礼拝の場所は、御言葉において神様と出会う所であります。しかし、神様のお姿を見ることが出来ない私たちは高をくくっているところがあります。そんな私たちですが、時折、御言葉によって、今自分の前に神様がおられることを覚えて、身が振う思いをすることがあります。ザカリアが見たのは神様ではなくて天使でありましたが、神様の御前にあることを実感して、恐怖の念に襲われたのも無理のないことであるかもしれません。
 そんなザカリアに向かって、天使はこう言いました。「恐れることはない。ザカリア、あなたの願いは聞き入れられた。あなたの妻エリサベトは男の子を産む。その子をヨハネと名付けなさい。その子はあなたにとって喜びとなり、楽しみとなる。多くの人もその誕生を喜ぶ。」――これは子供の誕生を諦めかけていたザカリアにとって、信じられないような知らせでありました。このあと天使は、15節から17節までにあるように、生れてくるヨハネの大切な役割について述べているのですが、今日はその内容には立ち入らないでおこうと思います。(以前にこの箇所を礼拝説教で2回取り上げているのですが、その時には、ヨハネの役割に着目して語らせていただいたのですが、今回はザカリアに着目して行こうと思います。)
 さて、天使によってヨセフの誕生のことを告げられたザカリアは、18節で天使に向かってこう言っております。「何によって、わたしはそれを知ることができるのでしょうか。わたしは老人ですし、妻も年をとっています。」――天使はヨハネの大切な役割のことを述べているのに、ザカリアはそのことにはあまり関心がないのか、事が重大過ぎてそこまで頭が回らなかったのか、ともかく、老人の自分たちに子供が出来るという、自分たちに関わる入り口のところでひっかかっているのであります。天使が現れ、神様の前に立たされているのだということを恐怖の念に襲われるほどに実感していながら、まだ常識が邪魔をして、天使の言うことが受け入れられないのであります。長年の願いが叶うという素晴らしい知らせを聞きながら、それを信じることが出来ないのであります。先ほど、旧約聖書の朗読で、神様がアブラハムの妻サライに男の子が与えられるとおっしゃったときに、アブラハムは笑いながら、ひそかに「百歳の男に子供が生まれるだろうか。九十歳のサラに子供が産めるだろうか」と言った箇所を読んでいただきました。(創世記171522)あの「信仰の父」と言われるアブラハムにして、常識を超える神様の言葉を信じることが出来なかったのでありますから、ザカリアの疑問はやむを得ないのかもしれません。
 しかし、この疑問を呈したザカリアに対して天使は答えてこう言いました。(9)「わたしはガブリエル、神の前に立つ者。あなたに話しかけて、この喜ばしい知らせを伝えるために遣わされたのである。」――ここにも「神の前に立つ者」という言葉が入っています。人の噂や、人間の願望が語られているのではなくて、神様の言葉が語り伝えられているということであります。だから、ザカリアも神様の前に立っているのと同じであります。ある人はこの状況を、こう言っています。「神の前に立たされて、喜びの知らせを語りかけられるところで、どこを見ているかと問われている。神がこちらを見ていてくださるのに、そっぽを向いてしまっていないか。そして、このことこそが『罪』である。ザカリアはまさに神の前にあって祭司の務めを果たしつつも、実は神の方を向くことができないままでいた。神の救いを受ける準備がなかった。言い換えると、悔い改めがザカリアには求められている。それがなければ神の救いを受けることができない」と。
 天使が告げたことは、サカリアにとって願ったり叶ったりであるのに、人間的な常識や経験で判断してしまって、神様の恵みに満ちた言葉を信じて受け入れることが出来ないのであります。そこに罪があります。
 私たちもまた、神様の導きによって教会へと招かれ、聖書を通して、そして礼拝の説教において、神様の前に出て、その御言葉、神様の恵みの御心を聴かされています。それなのに私たちは、人間的な判断を優先させて、神様の方を向こうとせず、神様の言葉を受け入れて信じようとしないのであります。それは正に罪であります。そのままでは救われないのであります。

3.口が利けなくなる――沈黙の意味

 では、神様の言葉を信じなかったザカリアはどうなるのでしょうか。
  天使は続けてこう言いました。(20節)「あなたは口が利けなくなる。時が来れば実現するわたしの言葉を信じなかったからである。」――これは厳しい裁きであります。ザカリアは、常識では考えられないことを告げられたので、「何によって、わたしはそれを知ることができるのですか」と問い直しただけで、「そんなことはあり得ません」とか、「そんなことは信じられません」と言ったわけではありません。しかし、神様の言葉を素直に受け入れることが出来ない者は、神様がなさろうとしておられる神様の御心を人に伝えることが許されないのであります。これは私たちにとっても同様であります。神様がなさろうとしておられる恵みの御業、それは聖書において、また礼拝の説教において語られるのでありますが、それを心から信じるのでなければ、それを人に語ることは許されません。牧師もまた、聖書の中に語られ、聖霊によって示されている神様の御心を、本気で信じて受け入れているのでなければ、たとえ聖書の話を説教の中で語っているようであっても、聞く人には神様の御心は通じないのであります。こういうことは、信者にとっても、牧師にとっても大変つらい経験でありますが、悔い改めを要することであります。
 しかし、ザカリアの口が利けなくなったことは、単なる懲らしめではありません。裁きのための裁きではありません。そこには神様の深いご配慮が込められています。こういう配慮です。一つは、悔い改めの機会を与えられるということであります。自分の思いに留まるのでなくて、神様の御心に心を向け直す機会が与えられるということです。ザカリアは口が利けなくされて、必死になって神様の御言葉を思い巡らし、御心を探し求めたのではないでしょうか。今一つは、人間の思いや力を越え、人間の信仰をさえ超えた神様の大きな恵みに出会うことが出来るということであります。口が利けなくなったことは、苦難でありつつ、信じられなかったザカリアも神様の方に向き直り、神様の救いに加えられるための恵みであったのであります。
 マックス・ピカートの「沈黙の世界」という書物があります。久野牧先生はその中の次の言葉を引用されています。「言葉に先立つ沈黙は、精神がそこで、創造的に働いていることのしるしなのだ。」また、改革派の橋谷英徳先生は同じ書物の中から、別の箇所を引用しておられます。「沈黙と信仰のあいだには或る種の関係が存在する。信仰の領域と沈黙の領域とは、相依って一体をなすのである。つまり、沈黙は、そのうえで信仰という超自然的なるものが成就されるところの自然的土台なのである。独りの神があって、この神が人間のためにみずから人間となったのだ。……この事件はあまりにも驚異的であり、理性でもって経験し、また眼で見たすべてのものにあまりにも逆らうものであるから、人間は言葉でもってそれに答えることができないのである。」つまり、お二人がピカートの言葉を借りて言おうとされていることは、沈黙させられることによって、理性や経験を超えた信仰の世界に導かれて、神の言葉を語り得る者とされる、ということでしょう。
 ザカリアは、こういうことがあって、少し手間取っていたので、外で待っていた人々は不思議に思っていましたが、出て来ると何も話すことが出来なくなっていました。それから十か月の間、沈黙が続くのであります。しかしそれは、ザカリアにとって悔い改めの時であり、神様によって信仰を新たにされる時であったに違いありません。
 このことは、私たちにとっても言えることではないでしょうか。私たちも聖書の言葉や出来事をそのまま受け入れることが出来ないことがあります。そこでは、私たちの内にはすぐに喜びが湧き上がるという経験を与えられず、従って人に御言葉を伝えたり、喜びを分け与えることが出来ないことがあります。それは私たちの不信仰の故であり、罪がしからしめることでありますが、必ずしも裁きに終わるものではありません。神様は私たちに沈黙の時を与えられることによって、私たちを、安易な信仰ではなくて、深い悔い改めに導いた上で、人間の知恵や人間の言葉ではなく、神様の言葉に向き合わせてくださることによって、自分が納得する信仰ではなくて、全てを主に委ねる信仰をもって御言葉に聴き従う者へと変えてくださり、心から神様を信頼して歩む新しい生き方へと導き出してくださるのであります。

結.主は今こそ

 ザカリアの口が開かれる物語は57節以下にあって、クリスマス礼拝の前の週の礼拝で取り上げることにしているのですが、今日の箇所の最後の24節以下には、妻エリサベツが身ごもったことが書かれています。その時点ではザカリアはまだ口が開かれません。しかし、ザカリアに代わって妻のエリサベトがこう言っております。(25節)「主は今こそ、こうして、わたしに目を留め、人々の間からわたしの恥を取り去ってくださいました。」――この時点でザカリアも天使の告げたことが本当であったことを知って、自分の罪を覚えるとともに、神様の大きな恵みに圧倒されるような喜ばしい思いに満たされたに違いありません。そして、神様の御言葉に対する姿勢を根本的に変えられたに違いありません。ザカリア自身がそのことを自らの言葉で言い表すには、まだ5ヶ月の間、待たなければならないのですが、神様はザカリアの中に御言葉に聞き従う信仰を、このようにして育てておられるのであります。
 神様はまた私たちのためにも、私たちの不信仰を正し、悔い改めて御言葉に聴き従う新しい生き方へと導き出すために、今日、ザカリアの出来事を通して、語りかけ、働きかけてくださっているのであります。祈りましょう。

祈  り

私どもを深く愛していてくださっている父なる神様!
  祭司の務めを果たしつつも、御言葉を素直に信じられなかったザカリアの出来事を通して、私たちをも御言葉に聴き従うことの出来る信仰へと導いていてくださっていることを覚えて、感謝いたします。
  私たちはなお、自分の事情や自分の判断に頼って、あなたの恵みを素直に受け入れることが出来ない不信仰が頭をもたげがちな者でありますが、どうか、あなたが着々と進めておられる救いの御業を信じて、それに身を委ねる者とならせてください。
  まだ多くの人々が、あなたの福音を受け入れることに対して、迷いがあったり、納得が出来なかったり、思い切って身を委ねることが出来ないでおられます。どうか、あなたが進めておられる救いの御業に目を開かせてください。そしてどうか、御言葉に聴き従う者たちの群れに加えてくださり、御国に入れてくださいますように。
  主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

主日礼拝説教<全原稿> 2015年11月22日  山本 清牧師 

 聖  書:ルカによる福音書1:1-25
 説教題:「
実現する神の言葉」         説教リストに戻る