主なる神は、弟子としての舌をわたしに与え/疲れた人を励ますように/言葉を呼び覚ましてくださる。朝ごとにわたしの耳を呼び覚まし/弟子として聞き従うようにしてくださる。主なる神はわたしの耳を開かれた。わたしは逆らわず、退かなかった。  (イザヤ書5045

 イスラエルの民は半世紀以上のバビロン捕囚から解放され、祖国へ帰る道が開かれたのであるが、バビロンでそれなりの生活の基盤を築いた人たちは、それを捨てるまでして、廃虚となった祖国に帰って再建の苦労を担おうとしなかった。そうした人々に向けて、第二イザヤと呼ばれる預言者は、主を信頼して祖国の再建に当たることを呼びかけたが、それに応じようとしないばかりか、嘲けりや嫌がらせをもって迫害する者がいたのだ。
 そうした中で、イザヤは50章の13節で、かつての出エジプトの時の神による救いの出来事を思い出させながら、「わたしの手は短すぎて贖うことができず、わたしには救い出す力がないというのか」との主の言葉を伝えた上で、「主の僕の詩」と呼ばれる標記の言葉を語っている。ここで「弟子として」とは、イザヤ自身のことであり、「疲れた人」とは捕囚の苦しみの中にあった人々のことと解釈できるが、私たち自身とも重ね合わせることが出来るのではないか。私たちも神が約束してくださっている救いの道に歩み出すことを躊躇しているのではないか。そこには神を信頼して委ね切ることが出来ない罪がある。――だが、そんな私たちをも、「弟子として」、御言葉に耳を開かれ、疲れた人を励ますことさえできる舌をもお与えになるというのである。
 人々の嘲りを受ける中で、イザヤは更に、「誰がわたしと共に争ってくれるのか」「誰がわたしを訴えるのか」「誰がわたしを罪に定めえよう」(5089)と問いかけつつ、「主なる神が助けてくださる」(507)と述べている。しかし、このイザヤの「誰が」という問いに対する実際の答えは、ここではまだ与えられていない。その答えは新約聖書を待たねばならない。パウロはローマの信徒への手紙の中でこう言っている。「もし神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか。わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜わらないことがありましょうか。・・・」(ローマ831以下)。イザヤ書で「見よ、主なる神が助けてくださる」と言われていたことは、主イエスの到来と、十字架と復活の救いの御業によって具体的に実現されたのである。主は、わたしたちのような者の耳をも呼び覚まし、開いてくださって、弟子として御言葉に聴き従うようにしてくださるし、疲れた人を励ます言葉を語り得る弟子としての舌を与えてくださるのである。

主日礼拝説教<要 旨> 2015年11月15日  山本 清牧師 

 聖  書:イザヤ書50:4-11 
 説教題:「
主は耳を開かれる」 説教リストに戻る