序. 救いの道が開かれているのに

 イザヤ書の40章から55章までは、(以前から申し上げているように)第二イザヤと呼ばれる預言者が記したものとされていて、その内、後半の49章以降は、紀元前538年のキュロスによる解放後の時期に書かれたものだとされています。
 ところが、今日の箇所を一読しても分かる通り、捕囚からの解放の喜びに溢れているのかと思いきや、6節で「打とうとする者には背中をまかせ、ひげを抜こうとする者には頬をまかせた。顔を隠さずに、嘲りと唾を受けた」と記されているように、預言者第二イザヤの苦悩と忍耐が記されているのであります。それはなぜなのか。それにはこういう背景がありました。ペルシャ王キュロスは捕囚民の解放政策をとったので、祖国へ帰る道は開かれたのでありますが、半世紀以上にもわたる長い捕囚生活の間に、バビロンでそれなりの生活の基盤を築いた人たちもいて、その人たちは、それを捨ててまでして、廃虚のようになった祖国に帰って、再建の苦労を担おうとはしなかったのであります。つまり、神様はキュロスを用いて、異教の地での捕囚生活から救い出す道を開いてくださったのでありますが、祖国に帰って再建に関わろうとする人たちと、生活の現状維持を望む現実主義の人がいて、共同体が一つになり得ない状況があったのであります。
 そうした中で、これまでの所でも語られていましたように、預言者第二イザヤは、バビロンからの解放を新しい「第二の出エジプト」として捉えて、主を信頼して祖国の再建に当たることを呼びかけて来たのであります。例えば、4316節以下ではこのように述べています。

 主はこう言われる。海の中に道を通し/恐るべき水の中に通路を開かれた方/戦車や馬、強大な軍隊を共に引き出し/彼らを倒して再び立つことを許さず/灯心のように消え去らせた方。初めからのことを思い出すな。昔のことを思い出すな。見よ、新しいことをわたしは行う。今や、それは芽生えている。あなたたちはそれを悟らないのか。わたしは荒れ野に道を敷き/砂漠に大河を流れさせる。野の獣、山犬や駝鳥もわたしをあがめる。荒れ野に水を、砂漠に大河を流れさせ/わたしの選んだ民に水を飲ませるからだ。(イザヤ431620

 このような状況の中で第二イザヤを通して語られた神様の御言葉を、私たちは、今日、神様から与えられた御言葉として聴こうとしています。神様は私たちにも捕囚からの解放を約束してくださっています。罪の状態からの救いの道を備えてくださっています。その中で私たちはどうでしょうか。喜び勇んで救いの道を歩んでいるのでしょうか。これまでにこの世で築いてきた生活基盤や生き方に安住しようとしていないでしょうか。神様が約束してくださっている救いの道に歩み出すことを躊躇しているのではないでしょうか。――この問いを念頭の置きながら、今日与えられている御言葉に耳を傾けたいと思います。

1.救い出す力がないというのか

 先ほどの聖書朗読では504節以下を読んでいただきました。このうち、4節から9節までは「主の僕の詩」とされていまして、「主の僕の詩」の三番目のものであります。「主の僕」とはいったい誰のことでしょうか。これはおそらく、預言者自身のことであろうと考えられています。続く10節以下は、「お前たち」というように呼びかけられていて、預言者がイスラエルの人々に語りかけている部分で、問いかけと審きの言葉が記されています。
 さて、今日の箇所に入る前に、朗読いたしませんでした501節から3節の部分を見ておきたいと思います。ここは49章からの続きでありますが、捕囚の民が自分たちは神様から捨てられたのではないかと嘆いているのに対して、預言者第二イザヤが神様の言葉として、<捕囚状態に陥ったのはお前たちの罪によるのであって、神様がその罪を赦してくだされば、回復はあり得るのだから、神様への信頼を取り戻せ>と語っている箇所であります。
 最初、こう問いかけています。主はこう言われる。お前たちの母親を追い出したときの/わたしの離縁状はどれか。お前たちを売り渡した時の債権者は誰か。――ここでは神様とイスラエルの民の関係が、離婚と奴隷の売渡しに譬えられています。「母親」というのは、イスラエルの民の先祖のことでしょう。神様がイスラエルの民を追い出した離縁状がどこにあるのだ、と問い、神様がイスラエルの民を奴隷として売り渡した債権者なのか、と問いかけているのです。そして1節後半では、お前たちの罪によってお前たちは売り渡され/お前たちの背きのために母親は追い出されたのだ、と言っておりますように、捕囚状態に陥ったのは、「お前たちの罪によって」であり、「お前たちの背きのため」である、ということを述べているのであります。
 続けて、こう言われています。何故、わたしが来ても、だれもいないのか。呼んでも答えないのか。わたしの手は短すぎて贖うことができず/わたしには救い出す力がないというのか。――自らの罪の故に捕囚状態に陥っているイスラエルの民を、神様は見放しておられるのではありません。彼らに呼びかけておられるのですが、<神様の手が短いので救うことが出来ない>と嘆いているかのように、神様の呼びかけに答えようとしないのであります。
 それに対して2節後半ではこう語られています。見よ、わたしが叱咤をすれば海は干上がり/大河も荒れ野に変わる。水は涸れ、魚は異臭を放ち/渇きのために死ぬ。わたしは、天に喪服をまとわせ、粗布で覆う。――これは出エジプトの際に、海が干上がってイスラエルの民がそこを通って、追い迫るエジプトの軍隊から逃れることが出来た出来事のことを述べているのは明らかです。それは第一の出エジプトにおける大きな救いの出来事でありましたが、今、その第二の出エジプトを神様が起こそうとされているのではないか、ということを述べているのであります。

2.主の僕の苦悩

 さて、4節から9節までは「主の僕」とされる預言者第二イザヤの苦悩と忍耐が述べられている箇所であります。その言葉を私たちはどのような立場で受け止めればよいのでしょうか。一つは、先ほども触れましたように、私たちを不信仰なイスラエルの民と重ね合わせながら、神様が救いの道を開いていてくださるのに、信頼してその道を歩もうとしない私たちへの預言者からの呼びかけとして聞くことが出来ます。今一つの読み方は、初代教会以来の伝統的な読み方ですが、この「主の僕」を苦難のキリストに結びつけて受け取る読み方です。6節に「打とうとする者には背中をまかせ」「嘲りと唾を受けた」という言葉があります。これは正に十字架上の主イエスを思わせる表現であります。ここに、十字架にお架かりになった苦悩と忍耐が示されているという受け取り方です。そして、そのような苦悩をキリストに負わせている私たちのことを顧みる読み方であります。この二つの読み方は、「主の僕」を預言者の一人と見るか、イエス・キリストを指し示していると見るかの違いはありますが、語られている内容は、捕囚からの解放に応じようとしないイスラエルの民に対する言葉であり、それはまた救いの道を備えられているのに、その道を歩もうとしない不信仰な私たちへの神様の呼びかけであることには違いありません。

 2-1.弟子として

 少しずつ区切って見て行きます。まず、4節、5節ではこう語られています。主なる神は、弟子としての舌をわたしに与え/疲れた人を励ますように/言葉を呼び覚ましてくださる。朝ごとにわたしの耳を呼び覚まし/弟子として聞き従うようにしてくださる。主なる神はわたしの耳を開かれた。わたしは逆らわず、退かなかった。

 この中に「弟子として」という言葉が二回繰り返されています。ここでは<神の教えを受ける弟子>と言う意味で、第二イザヤ自身のことと受け取ってよいのですが、その彼のを神様は朝ごとに呼び覚まし、開いてくださって、弟子として聞き従うようにしてくださると共に、をも与えて、疲れた人を励ますという使命を与えて、そのために必要な言葉を呼び覚ましてくださる、と言うのです。「疲れた人」というのは、具体的には捕囚の苦しみの中にあった人々のことであろうし、また、最初に申しましたように、神様が備えてくださった捕囚からの解放に前向きに応じようとしない人々のことと受け止めることが出来るかもしれません。それはまた、私たち自身の姿であります。

 また、「疲れた人」という言葉で思い起こすのは、主イエスが、「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」(マタイ1128)と言われたお言葉であります。私たちもまた、日常生活の中で、様々な重荷を負って、疲れている者であります。その上になお、教会生活の重荷を負わされてはかなわないという思いがあるかもしれません。年老いて、体の衰えを覚えつつ、これ以上の重荷を負うことは勘弁願いたいという正直な思いがあるかもしれません。しかし、そんな私たちに主イエスは、「わたしの軛を負いなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである」(1130)とおっしゃいます。重荷を引っ張る軛を主イエスが一緒に負ってくださるのであります。しかも、この重荷というのは、単に、日常生活や教会生活の中で負わなければならない重荷のことだけではありません。私たちには罪の重荷があります。神様に素直に従って行けない罪、神様に委ね切れない信仰の弱さという罪があります。主イエスはその罪の重荷を十字架の上で現に負ってくださいました。私たちは体も心も疲れやすい者であり、信仰も萎えがちな者でありますが、主イエスはその罪の重荷を負ってくださって、私たちの疲れを心底から癒してくださるのであります。そこで私たちもまた、「弟子として」、御言葉に耳を開かれ、疲れた人を励ますことさえ出来る舌をも与えられるのであります。

 2-2.嘲りを受けて

 次に6節、7節にはこう書かれています。打とうとする者には背中をまかせ/ひげを抜こうとする者には頬をまかせた。顔を隠さずに、嘲りと唾を受けた。主なる神が助けてくださるから/わたしはそれを嘲りとは思わない。わたしは顔を硬い石のようにする。わたしは知っている、わたしが辱められることはない、と。

 これは、捕囚から解放してくださる神様を信頼して、エルサレムへの帰還を呼びかける預言者第二イザヤが、帰還に消極的な人々から迫害をうけている状況を語っているのだと考えられます。捕囚というのは決して好ましい状況ではありません。しかし、その状態での生活に慣れてしまうと、破壊された祖国に帰って、再建の苦労をするよりも良いと思ってしまうのであります。あの東北の災害で、津波と放射線で住めなくなった故郷を去った人々が、再び元の地に戻って再建するよりも移転先に慣れてしまって戻ろうとしないことと似ているのかもしれません。しかしこの場合は、異教の地に残るということは真の神様への信仰が危うくされるということでもありました。だからこそ預言者は祖国への帰還を主張したのであります。

 私たちも現実の生活の中で、家族や周囲の人々と妥協的に生活する、或はこれまでの生活スタイルを続ける方が楽であるかもしれません。その中で築いて来たものを突き崩すとか、そこから脱出するということは容易なことではないでしょう。様々な軋轢を生むかもしれません。場合によっては誹謗中傷を受けなければならないかもしれません。この預言者の場合は、背中を打たれるとか、ひげを抜かれる(これは中東の人々にとっては極めて屈辱的なことであります)とか、唾をかけられるといった、具体的な行為をもって嫌がらせや迫害を受けたようであります。それは、先にも触れましたように、十字架にお架かりになる時に主イエスが受けた侮辱の数々を思わせるものであります。

 しかし、預言者は7節で「主なる神が助けてくださるから、わたしはそれを嘲りとは思わない。わたしは知っている、わたしが辱められることはない」と言い切っております。なぜそう言えるのでしょうか。なぜこれほどの屈辱を受けても神に対する従順を貫くことができるのでしょうか。その根拠は、4節に語られていました。「朝ごとにわたしの耳を呼び覚まし、弟子として聞き従うようにしてくださる」とありました。迫害に疲れた人を励ますように鳴り響いて来る主の御言葉であります。聖書の御言葉は様々な軋轢の中で生きなければならない私たちにとっても、信仰の命をつなぐ糧であり、支えであります。

 そして、何よりの支えは、最大の屈辱を味わい、命さえ落としてくださった主イエスの十字架であります。主イエスが私たちに先立って辱めを受けてくださったので、私たちはその主イエスに全てを委ねることが出来るし、本当の解放を望み見ることが出来るのであります。聖書の言葉は、格言や人生訓のようなものではありません。そこには神様の御心がこもっています。神様が長く人間と関わってこられた歴史の裏付けがあります。そして、主イエスの十字架で示された愛と赦しが込められています。そこに命があり、力があり、救いがあります。

 2-3.誰がわたしを

 預言者は続けて8節、9節でこう語ります。わたしの正しさを認める方は近くにいます。誰がわたしと共に争ってくれるのか/われわれは共に立とう。誰がわたしを訴えるのか/わたしに向かって来るがよい。見よ、主なる神が助けてくださる。誰がわたしを罪に定めよう。見よ、彼らはすべて衣のように朽ち/しみに食い尽くされるであろう。

 この中で「誰が」という問いかけが3回繰り返されています。「誰がわたしと共に争ってくれるのか」、「誰がわたしを訴えるのか」「誰がわたしを罪に定めよう」。――この「誰が」に対する答えは、9節初めの「見よ、主なる神が助けてくださる」であります。この答えに間違いはありません。しかし、「誰が」という問いに対する神様の実際の答えは、ここではまだ与えられておりません。この問いに対する実際の答えは新約聖書を待たねばなりませんでした。主イエス・キリストの出現を待たなければならなかったのであります。
 パウロは、89節の「誰が」という預言者の問いについて、ローマの信徒への手紙の中で、このように答えています。新約聖書の285ページを御覧ください。831節以下であります。
 8:31 では、これらのことについて何と言ったらよいだろうか。もし神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか。32 わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか。33 だれが神に選ばれた者たちを訴えるでしょう。人を義としてくださるのは神なのです。34 だれがわたしたちを罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださるのです。35 だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。36 「わたしたちは、あなたのために/一日中死にさらされ、/屠られる羊のように見られている」と書いてあるとおりです。37 しかし、これらすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。38 わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、39 高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。

 イザヤ書で「見よ、主なる神が助けてくださる」と言われていたことが、主イエスの到来と、十字架と復活の御業によって具体的に実現されたということをパウロは述べているのであります。だから、死も、命も、いかなる妨げがあっても、「わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことは出来ない」のであります。

3.審きの告知

 このような力強い御言葉を私たちには与えられているのですが、なお私たちは、御声に耳を傾けること少なく、主の御手に委ねるのでなく、却って、自らの力に頼る過ちを犯して、苦悩から離れられないという現実があります。そのことは第二イザヤの時代も同じであったのでしょう。今日の最後の箇所の10節を見ますと、預言者イザヤがイスラエルの人々に、こう問いかけております。
 お前たちのうちにいるであろうか/主を畏れ、主の僕の声に聞き従う者が。闇の中を歩くときも、光のないときも/主の御名を信頼し、その神を支えとする者が。
 しかし、この「主の僕の声に聞き従う者がお前たちのうちにいるであろうか」との問いに対する11節の答えはこうであります。見よ、お前たちはそれぞれ、火をともし/松明を掲げている。行け、自分の火の光に頼って/自分で燃やす松明によって。わたしの手がこのことをお前たちに定めた。お前たちは苦悩のうちに横たわるであろう。
――ここには、自分の光に頼って、自分で燃やす松明で火を灯そうとする者は、苦悩の内に倒される、との厳しい審きが語られています。
 つまり、主の僕の声に聞き従う者は、イスラエルの人々の中にいない、という厳しい現実が語られています。

結.主は耳を開かれる

 では、イスラエルの人々にも、私たちにも希望はないのでしょうか。そうではありません。もう一度、4節、5節の言葉を読みましょう。

 主なる神は、弟子としての舌をわたしに与え/疲れた人を励ますように/言葉を呼び覚ましてくださる。朝ごとにわたしの耳を呼び覚まし/弟子として聞き従うようにしてくださる。主なる神はわたしの耳を開かれた。わたしは逆らわず、退かなかった。

 これは「主の僕」である預言者第二イザヤ自身のことでありますが、同時にイスラエルの人々のことでもあり、また、今の私たちのことでもあります。御言葉の取り次ぎを託されている私自身のことでもあります。ここに記されていることが出来るのは、私たち自身の能力や、信仰の強さによるのではありません。ローマの信徒への手紙のパウロの言葉にあったように、「誰も、主イエス・キリストの愛から私たちを離すことが出来ない」からであります。主は、私たちのような者の耳をも呼び覚まし、開いてくださって、弟子として御言葉に聞き従うようにしてくださるし、疲れた人を励ます言葉を語ることが出来るようにと、弟子としての舌を与えてくださるのであります。

祈  り

主イエス・キリストの父なる神様!
  不信仰の故にバビロンに捕囚とされたイスラエルの民を、憐れみによって救い出された主は、私たちを含めた全人類の罪を贖うために、御子イエス・キリストを遣わし、その十字架と復活の御業によって、救いを成し遂げてくださったことを感謝いたします。
  私たちはなお、罪の世に安住して、自分の火の光に頼って歩もうとするものであります。どうかそのような過ちから助け出してください。
  どうか、朝ごとに私たちの耳を呼び覚まし、御言葉に聴き従う者とならせてください。そしてどうか、あなたの弟子として、御言葉を語り継ぐ舌を私たちにもお与えください。どうかまた、主イエス・キリストの愛をたずさえて、疲れた人々を励ます者とならせてください。
  主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

主日礼拝説教<全原稿> 2015年11月15日  山本 清牧師 

 聖  書:イザヤ書50:4-11
 説教題:「
主は耳を開かれる」         説教リストに戻る