序. 永遠の命を受け継ぐには

 今日は「召天者記念礼拝」として守っております。この日の礼拝のために与えられております聖書の箇所は、ルカ福音書1017節以下で、ここはマルコ福音書を順に学んで来て、ここに至ったのであります。この箇所では、ある人が主イエスのもとにやって来て、「永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか」という質問をしたことから始まる主イエスとの対話と、それを巡って弟子たちと主イエスとの間で交わされた対話が書かれています。そこで今日の説教の題は「永遠の命を受け継ぐには」としたのですが、このテーマは召天者記念礼拝にぴったりのものであります。召天者記念礼拝というのは、ただ故人を懐かしんだり、御遺族を励ましたりするだけではありません。信仰をもって召された方が永遠の命に生きておられることを覚えるとともに、私たちも永遠の命を受け継いで、共に神の国に入れていただけることを覚えて、そのことを実現させてくださる神様を賛美し礼拝する時であります。
 そのような礼拝をするためには、「どうすれば私たちも永遠の命を受け継ぐことができるのか」という問いに対する確実な答えを得る必要があります。それには、そもそも「永遠の命」とはどんなものか、という正しい認識を得る必要がありますし、私たちのような者でも永遠の命を受け継ぐことができるのか、という問いに対する確信を得る必要があります。
 今日の箇所の初めに「金持ちの男」という小見出しがついています。確かに22節を見ると、「たくさんの財産を持っていた」と書いてあります。でも、この対話の内容は決して金持ちだけを対象にした話ではありません。だれでも、有形無形の「たくさんの財産」を持っています。それが永遠の命を受け継ぐ邪魔をして、神の国(天国)に入れなくするのであります。だから、ここに記された対話は、私たちと主イエスとの対話でもあります。17節には、「ある人が走り寄って、ひざまずいて尋ねた」と書いてあります。その「ある人」とは特別に大金持ちであるとか、大きな財産を持っている人だけのことではなくて、様々な意味で手放したくないモノを持っている人のことを念頭に置いているのであります。そのある人には実は私たちも含まれているのであります。この「ある人」は財産が手放せなくて、結局、悲しみながら立ち去ることになるのですが、もしかすると私たちもそうなってしまうかもしれないのです。でも、この話がここに書かれているのは、私たちがそうならないためであります。私たちに永遠の命を受け継がせようとして書かれているのであります。では、どのようにして私たちは永遠の命を受け継いで神の国に入ることが出来るのか、今日はそのことを与えられた箇所から聴き取りたいと思います。

1.「善い先生」

 さて、この「ある人」は、主イエスが旅に出ようとされていた時に、走り寄って、ひざまずきました。このとき主イエスはエルサレムに向けての最後の旅をしておられたのであります。何のためにエルサレムに向かっておられるのかということについて、主イエスははっきりした目的を持っておられました。それはここまでに既に二度おっしゃっていることですが、人々から排斥されて殺されるということ、即ち十字架にお架かりになるということ、そして三日目に復活なさるということです。しかし、弟子たちはそのことをはっきりと認識することが出来ないでいました。危険が迫っていることは感じていましたが、十字架などということは何とか避けたいと考えていたのであります。
 そうした中で、やって来たこの人は、主イエスを「善い先生」と言っておりますように、非常に高く評価しています。「ひざまずいて」という態度には主イエスに対する尊敬と謙遜な態度が表われています。これまでには、律法学者やファリサイ派の人々という主イエスに敵対する人たちがやって来て、主イエスに議論を吹きかけて、訴える口実を見付けて、(おとし)めようといたしましたが、この人はそういう悪気は全くなかったようであります。高い向上心を持って主イエスのところにやって来たのであります。ただ、主イエスは「善い先生」という一言で、この人の問題点に気づかれたようであります。18節でこう言っておられます。「なぜ、わたしを『善い』と言うのか。神おひとりのほかに、善い者はだれもいない」と。この「善い」という言葉はユダヤ人の間では神様にのみ用いる言葉でありました。後に教会は主イエスのことを「神の子」あるいは「神」として崇めるようになりました。だから間違ったことを言ったわけではありません。しかし、ここでは、この人はまだ本当の主イエスを知っているわけではないのに、この言葉を使ったので戒められたのであります。主イエスの本当の姿を知らないということは、ただお独りの神様のことを知らないということでもあります。ただ独りの神様以外の人に、「何をすれば永遠の命を受け継ぐことが出来るか」と問うて、何らかの教えなり忠告なりを貰うことによって目的を達成しようとしている態度に、主イエスはこの人の問題を鋭く感じ取られたのであります。

2.永遠の命とは

 ところで、「永遠の命」とは何でしょうか。これはいつまでも長生きするというような不老不死のことではありません。聖書の世界では命というものは、神様によって与えられ、神様との関係においてこそ保たれるものであると考えられています。肉体的に生きていることが命を保っていることではありません。神様との関係において生きていなければ、たとえ肉体的に生きていても、それは死んでいるのと同じです。逆に、神様とのよい関係が保たれているなら、たとえ肉体は滅びても、命は保たれるのであります。そのことはこの人もユダヤ人として知っていた筈であります。しかし、「永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか」という質問の裏には、自分たちの努力次第で永遠の命を獲得できるという思いがあります。そこにこの人の問題があります。そのことに気づかれた主イエスは、続けてこうおっしゃいます。「『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、奪い取るな、父母を敬え』という掟をあなたは知っている筈だ」と。これはかつてモーセを通して神様から与えられた「十戒」の後半の掟であります。十戒の前半は神様との関係についての掟ですが、ここで取り上げられたのは人間との関係についての掟であります。この人はユダヤ人として当然知っていますし、そんなことはちゃんと守っているという自負を持っていました。ですから、主イエスの答えは彼が期待していたものではなくて、失望を覚えたのだと思います。そこでこう言いました。「先生、そういうことはみな、子供の時から守ってきました」と。この人が期待していたのは、そんな当たり前のことではなくて、それ以上の大きなことをして、永遠の命を獲得したいと考えていたのです。そこにこの人の大きな間違いがあります。ここで挙げられた十戒の後半の人間との関係についての掟は、表面的に捉えれば、常識的なことで、ユダヤ人であれば当然守っていたでしょうし、ここにいる皆様も大きく踏み外していることはないでしょう。しかし、主イエスは山上の説教の中で、これらの掟に込められている深い意味を話されました。そのことについては今日は触れませんが、それは、「守ってきました」などとは誰も決して言えないような内容でした。主イエスもこの時は、そのことについては語られませんでした。むしろ主イエスはこの人の間違いを深く憐れまれて、問題の核心に触れることを話されました。

3.「欠けているもの」

 21節の初めに、イエスは彼を見つめ、慈しんで言われた、とあります。主イエスは問題を持っているこの人を、慈しみをもって御覧になっておられます。主イエスは、自分で努力して善い行いをすることによって永遠の命を獲得しようとしているこの人を、決して軽蔑して責め立てて、追い返そうとしておられるのではありません。むしろ、深く愛して慈しんでおられるのであります。それだけにそのお言葉は厳しいものでした。こうおっしゃいました。「あなたに欠けているものが一つある。」――欠けていることが多いというのではありません。一つだと言われているのです。この人は一瞬、主イエスが何をおっしゃるのかと期待して次の言葉を待ったに違いありません。ところが、続けておっしゃったことは、「行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい」というお言葉でした。これは大変ショッキングな言葉であったに違いありません。22節にあるように、その人はこの言葉に気を落とし、悲しみながら立ち去った、のであります。
 皆様はこの言葉をお聞きになってどう思われたでしょうか。先ほど、私たちも様々な意味で手放したくないモノを持っているということを申しました。財産もそうであるかもしれませんし、地位や名誉、家族、あるいは、これまでやって来た仕事や趣味やボランティアの活動といったものがあるかもしれません。それらを手放さなくてはならないとしたら、永遠の命なんて諦めるしかないと思って、この人のように、主イエスの前から立ち去ってしまうかもしれません。
 しかし、主イエスはここで、永遠の命を受け継ぐための条件を語っておられるのでしょうか。主イエスは彼を見詰め慈しんでおられるのに、悲しみながら立ち去らせてしまうこととどう結びつくのでしょうか。主イエスのこのお言葉の意味をよく考えてみる必要があります。主イエスがここで本当に求めておられているのは、財産を捨てること自体ではありません。大切なことは、「それから、わたしに従いなさい」と言っておられることであります。しなければならないことは、主イエスに従っていくことを妨げているものを捨てることであります。私たちが人生において、また日頃の生活の中で大切に思っていることが、もし主イエスに従うことを妨げているなら、それを捨ててしまいなさいと言っておられるのであります。「物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。それから、わたしに従いなさい」というお言葉は、永遠の命を得るために、この人が努力して行うべきことを示されたというよりも、自分の力や功績で何物かを得ようとする生き方を捨てなさい、そして主イエスに信頼し、すべてを主イエスに委ねる生き方に変えなさい、ということであります。主イエスはこの人にとって出来そうにないことを言って脅しておられるのではありません。この人を慈しんで、この人にとって最良の道をお示しになっているのです。主イエスに身を委ねるところにこそ永遠の命を受け継ぐ道があるのだよ、と言って招いておられるのであります。
 そのことは、初めに申しましたように、主イエスが十字架へと向かっておられることと無関係ではありません。誰しも、自分の行いによって永遠の命を受け継ぐことは出来ないのであります。大切なことは自分の力に頼るのではなくて、神様の恵みを信頼し、主イエスに従う信仰であります。そのような神様との結びつきが切れていることが、人間の根源にある罪であります。その罪の問題を解決しようと、主イエスは十字架への道を歩んでおられるのであります。主イエスは自ら人々の罪を担おうとの覚悟をもって、この人にも向き合っておられるし、私たちにも向き合ってくださっているのであります。

4.弟子たちの驚き

 このあと、2324節には、主イエスが弟子たちを見回して「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか」とおっしゃり、弟子たちがこの言葉を聞いて驚いたことが記されています。ここでは「神の国に入るのは」とおっしゃっていますが、これは「永遠の命を受け継ぐ」ということと同じことです。「神の国」というのは神の御支配のことです。自分を神の御支配に委ねることは、自分の命を永遠なる神様に委ねるということです。そこに神様との永遠の関係が結ばれるということです。それが神の国に入ることでもあります。
 主イエスは続けて、「子たちよ、神の国に入るのは、なんと難しいことか。金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい」とおっしゃいました。らくだが針の穴を通るというのは、要するに不可能なことであります。私たちは主イエスのところにやって来た人と同じように、少しでも立派なこと、善いこと、正しいことを積み上げて、自分の人生を豊かなものにしたい、人々に貢献できるものにしたい、出来れば神様にも喜んでいただける生き方をしたいと願っています。教会にやって来るのもそのような向上心の表れかもしれません。しかし、そういう、善い行いや向上心を自分の努力でいくら積み上げても、神の国に入ることは出来ない、とおっしゃるのであります。
 この主イエスの言葉を聞いた弟子たちはますます驚いて、「それでは、だれが救われるのだろうか」と互いに言いました。弟子たちは、だれがいちばん偉いかと議論し合っていたことが9章に書かれていましたが、これは弟子たちの中での醜い上下争いであると見るのは可哀相で、彼らも真剣に人々の役に立つ善い業をしたい、主イエスに評価されるような伝道の業もしたいと思っていたのでしょう。しかし、主イエスのお言葉によれば、そんなことでは永遠の命を受け継ぐことも、神の国に入ることも不可能だと言われたので、「だれが救われるのだろうか」と驚いているのです。この主イエスのお言葉は弟子たちだけでなく、私たちの価値観、人生観をも揺るがせるものでありますし、信仰観や宗教観さえ揺るがせるお言葉と言ってよいかもしれません。

5.神にはできる

 このあと、驚いている弟子たちに対する主イエスの対応が27節に書かれています。イエスは彼らを見つめて言われた。「人間にできることではないが、神にはできる。神は何でもできるからだ。」―――人間の善い行いによって神の国に入ろうとしても、それは不可能と言わざるを得ないのだけれども、何でもお出来になる神様には出来る、とおっしゃるのです。人間の方からアプローチしても達成することは不可能だけれども、全能の神様の方からアプローチしてくださるなら出来るということです。
 このお言葉をどのように受け止めたらよいのでしょうか。単純に、神様は全能なのだから、<もっともだ>と受け止めることも出来ます。しかし、それだけでは、ここで主イエスの内に込められた深い思いを受け止めたことにはならないのではないかと思います。ここに、「イエスは彼らを見つめて」と書かれています。これは主イエスのところにやって来た金持ちの男についても書かれていたことです。そこの箇所のお話をした時にも申しましたが、主イエスは慈しみを持って彼を見つめられましたが、その後ろには、十字架へと向かわれる主イエスのお覚悟が込められていたのであります。この人や弟子たちでは出来ないことを御自分が十字架にお架かりになることによって成し遂げようとなさっていたのであります。「神には何でもできる」ということは、神様は愛する独り子さえも十字架に架けられることがお出来になる、ということであります。神様はそれほどまでに私たちを愛しておられるし、主イエスはその神様の御心を受けて、十字架への道を歩んでおられるのであります。

結.先にいる者が後に、後にいる者が先に

 このような主イエスのお言葉に対して、ペトロはこう言いました。「このとおり、わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました。」――このペトロの言葉は、自分の功績を誇っているような言い方で、まだ主イエスのおっしゃっていることをよく理解していない発言だと言えるかもしれません。しかし、主イエスはここでは、この発言の問題点を指摘されるのでなく、29節以下にあるように、「はっきり言っておく。わたしのためまた福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子供、畑を捨てた者はだれでも、今この世で、迫害も受けるが、家、兄弟、姉妹、母、子供、畑も百倍受け、後の世では永遠の命を受ける。」とおっしゃったのです。弟子たちは確かに多くのものを捨てて、主イエスに従ったのであります。主イエスに従うということ、そして永遠の命を受けるということは、ここに列挙されているものだけでなく、具体的に自分が大切にしてきたものを捨てることを伴うものであります。それはしかし、世捨て人のようになることではありませんし、親しい者と縁を切らなければならないということではありません。これまで大切に考えて来たものよりも、福音のために生きる、主イエスに従って生きる、永遠の命を受けるということを第一にして生きるということであります。そして、そのような生き方に切り替えた時に、これまで大切にしてきたものとの関係も百倍もの豊かさを持つようになる、ということであります。
 最後に31節でこう言われています。「しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる。」――この世における価値判断と神の国における価値判断は違うということであります。人間の立派な功績、善い行いが永遠の命を受けることにはつながりません。神様の恵みが後か先かの順序を決めるのです。私たちは自分の功績を誇ったり、逆に自分の足りなさを嘆くのではなくて、神様の恵みを信じ、素直に従って行くなら、最も相応しい時に、神の国に入れられ、永遠の命を受け継ぐことができるのであります。
 この伝道所に関わる、先に召された信仰の先輩たちも、同じように神の国に入れられ、永遠の命を受け継ぐとの約束を信じて召されました。今は静かに眠っておられるのでありますが、主イエスが再び来られる終わりの日には、私たちもこの方々と共に神の国において目を覚まし、相まみえ、共に永遠の命を受け継ぐ者とされたいと思います。
 祈りましょう。

祈  り

救い主イエス・キリストの父なる神様!
  聖書に記された主イエスの御言葉によって、私たちを永遠の命を受け継ぐ者へと招いてくださいましたことを感謝いたします。
  私たちはなお、自分の大切なものを捨てることが出来ず、自分の功績を誇る者であります。どうか、そんな私自身をあなたに委ねる者とならせてください。どうか、天に富を積む者とならせていただき、先に召された信仰の先輩たちと共に、永遠の命を受け継ぐ者とならせてください。
 主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

主日礼拝説教<全原稿> 2015年11月8日  山本 清牧師 

 聖  書:マルコによる福音書10:17-31
 説教題:「
永遠の命を受け継ぐには」         説教リストに戻る