「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」                  (マルコによる福音書101415 

 主イエスが十字架の待っているエルサレムへと向かう最後の旅を続けておられる途上で、イエスに触れていただくために、人々が子供たちを連れて来た。当時は、尊敬する先生に手を触れてもらい、祝福を受けると、子供たちに幸せが来ると考えられていた。
 これを見た弟子たちは、その人々を叱った。それは、親たちの利己的で身勝手な願いに対する批判と、主イエスに余計な負担をかけないようにとの配慮から出たことであろう。ところが主イエスはこれを見て憤って、標記のように言われたのである。なぜ主は憤られたのか。第一は、弟子たちが、主の恵みの管理者であるかのように振舞ったこと、第二は、熱心さに名を借りた独善と特権意識、そして第三は、主イエスに従う自分たちこそ神の国にふさわしいとの思い上がりである。主イエスは、弟子たちの目からはイエスに遠い存在に見えた子供たちこそ、最も神の国に近いことを明らかにされたのである。
 では、「子供のように神の国を受け入れる」とはどういうことか。子供は確かに純真で素直な面がある。しかし一方、我侭で他人のことなど考えずに自分の要求を通そうとする罪深いところがある。だから、主イエスは子供の素直さを評価されたのではない。主は、自分だけではどうすることも出来ない子供の無力さを捉えて、「子供のように」と言っておられるのだ。弟子たちは自分の功績を競い合うようにして「だれがいちばん偉いか」と論じ合っていた(934)。しかし、神の国は力づくで勝ち取ったり、善いことをたくさんすることで、その褒美として得られるものではない。「子供のように」自分の無力さを知って、ただ与えてくださる恵みを喜んで受け入れることしか出来ない者こそが神の国にふさわしいのである。
 弟子たちはこの時、まだそのことに気づいていなかったが、主が十字架と復活の後に彼らの過ちを赦して、もう一度弟子として召し出してくださった時に、主イエスの愛を深く知って、この時のことを忘れることの出来ない出来事として、書き残しているのであろう。
 主イエスは子供たちを抱き上げ、手を置いて祝福された。私たちも自分の力では神の国に入ることなど出来ない者であるが、主に招かれ抱き上げられ、主の懐に入ることによって、神の祝福を受ける者とされるのだ。

主日礼拝説教<要 旨> 2015年11月1日  山本 清牧師 

 聖  書:マルコによる福音書10:13-16 
 説教題:「
子供のように」 説教リストに戻る