彼らの中に不誠実な者たちがいたにせよ、その不誠実のせいで、神の誠実が無にされるとでもいうのですか。決してそうではない。人はすべて偽り者であるとしても、神は真実な方であるとすべきです。
                       (ローマの信徒への手紙334 

 ユダヤ人は神の選びのしるしとして、体に割礼を受け、神から与えられた律法(神の言葉)を守っていることを誇りとしていた。しかし、彼らは律法を形式的には守っていたものの、それを心に刻みつけることがないために、神の言葉に対して不誠実であって、御言葉を生かすことができていないのが実状であった。パウロは、そんなユダヤ人を代弁するかのように、<自分たちが不誠実であったとしても、そのせいで神の誠実が無にされることはないから、神はユダヤ人に対する救いの約束は果される筈である>とか、<人間の罪や不義に対して神の真実が貫かれるのだとしたら、神が人間の罪に対して怒りを発せられるのは正しくない>などという、居直った彼らの論理を挙げつつ、「決してそうではない」と断言する。
 パウロは罪人がキリストの恵みによって救われることを説いていたが、それを誤解した人々は、パウロが「善を生じるために悪をしよう」と言っていると中傷していた。これに対してパウロは「こういう者たちが罰を受けるのは当然です」と言い切って、ユダヤ人たちの不毛の議論を断ち切っている。私たちも、自分が御言葉を真剣に受けとめずに身勝手なことをしておきながら、そのことを棚に上げて、神は誠実な方だから、自分を救ってくれるべきだ、自分たちの願いを叶えるべきであると主張し、自分の思い通りにならないと、神に不平を漏らしたり、神は頼りないなどと思ってしまっているのではないだろうか。
 パウロが伝える救いの福音は、十字架につけられた主イエスによって実現した。人間の罪に対する神の怒りと、神が御自分の約束にどこまでも誠実であられる「神の真実」とは、主イエスの十字架において結びついている。神は主イエスの十字架において、御自身の誠実と真実を最大限に発揮してくださったのだ。私たちは、それが自分の罪のためであることを深く心にとめて、悔い改め、救いを主に委ねなければならない。

主日礼拝説教<要 旨> 2015年10月18日  山本 清牧師 

 聖  書:ローマの信徒への手紙3:1-8 
 説教題:「
神の誠実」 説教リストに戻る