序.ユダヤ人から知るキリスト者の罪と恵み

 5月から月一回の割合で、ローマの信徒への手紙から御言葉を聴いております。以前からもお話ししておりますが、この手紙でパウロが伝えようとしている中心的な事柄は、321節以下にあります「信仰による義」ということ、即ち、信仰によって罪が赦されて、正しい者と見做していただけるという福音であります。しかし、そこに行きつく前に、パウロは人間の罪について、特にユダヤ人の罪について厳しく糾弾しています。今日の箇所もその続きであります。
 前回の217節以下の箇所では、ユダヤ人は律法を与えられ、割礼を受けていることを誇りにして、彼らはそのことにあぐらをかいていること(安住していること)が鋭く指摘されていたのであります。そして、外見上の割礼が重要なのではなくて、心に施された割礼、霊の割礼こそが大事であることが述べられていたのであります。このユダヤ人の割礼に当たるものが、私たちにとっては洗礼であります。ユダヤ人にとって大切なのは、外見上の割礼ではなくて、心に施された割礼であるように、私たちにとって大切なのは、形の上での洗礼ではなくて、聖霊によって授けられる心に施される洗礼、つまり、日々悔い改めて、神様に向き合い、御心に従って行く生活へと変えられることである、ということを教えられたのでありました。
 今日の箇所でも引き続き、ユダヤ人の割礼のことが取り上げられています。ユダヤ人は割礼を受けていることを誇りとし、そこに安住していました。しかし、その割礼が自分たちの日常生活の中であまり役に立たないように感じられると、自分のことを棚にあげて、神様に責任があるかのように思い始めるのであります。そのようなことは、洗礼を受けたキリスト者の場合にも起こるのであります。――今日は、律法や割礼を誇るユダヤ人のことを通して、私たちの罪の姿を知らされ、更にはそこから、神様の恵み、神様の真実に目を開かれたいと思うのであります。

1.ユダヤ人の優れた点は何か――神の言葉を委ねられた

 さて、ユダヤ人は、前回の箇所にも書かれていたように、神様から律法を与えられて、それを守っており、割礼を受けていることを誇りとしておりました。しかし、パウロは、律法を与えられ、割礼を受けているユダヤ人も罪人であることを鋭く指摘して、律法や割礼を受けていない異邦人だけでなく、ユダヤ人も、そのままでは神様の怒りの下にあるので、イエス・キリストによって救われなければならない、ということを主張したのであります。このパウロの主張はユダヤ人たちを怒らせました。ユダヤ人はその長い歴史の中で、神様の特別な民として選ばれ、律法を与えられ、代々、割礼という肉体的な印を受け継いで来たわけですが、それは意味のないことなのか、と言って、パウロに反発するのであります。そこでパウロは、今日の箇所の冒頭で、では、ユダヤ人の優れた点は何か、割礼の利益は何か、と問い直しております。そしてこう言います。それはあらゆる面からいろいろ指摘できます。まず、彼らは神の言葉をゆだねられたのです。――割礼の利益、すなわちユダヤ人であることの利点はあらゆる面から指摘することができるけれども、「まず」と言って、何よりも大きなことは、神の言葉をゆだねられたことだと指摘いたします。これは具体的には、十戒を中心とする律法を与えられているということです。この律法によって、どのように生きるべきか、どのように行動すべきかが示されたことによって、それに応える責任が与えられたわけです。そういう形で神様との関係を第一にして生きるということがユダヤ人に与えられた使命であり、喜ばしい生き方でありました。ところが、ユダヤ人たちはそのような目的で与えられた神様の御言葉(律法)を、形式的には守っていたかもしれないけれども、心に刻みつけることがなく、御言葉を生かすことができていないのが実状でした。パウロはその事実を取り上げて、彼らの罪を指摘しているのであります。――この指摘は、今日のキリスト者にも当てはまることではないでしょうか。私たちも神様の御言葉を聞いているし、委ねられているのであります。しかしながら、それを十分に生かし切れていないのが実状ではないでしょうか。

2.神の誠実が無にされるのか――身勝手な意識

 パウロは続けて3節で、それはいったいどういうことか、と問うています。そしてそのあと述べていることは、ユダヤ人のことを知り抜いているパウロが、代弁しているのです。彼らの中に不誠実な者たちがいたにせよ、その不誠実のせいで、神の誠実が無にされるというのですか。――ユダヤ人たちが言うのはこういうことです。<確かに、自分たちは神様の言葉に対して不誠実であった。そうであったにせよ、ユダヤ人の不誠実のせいで、神様が御自分の誠実を無にされることはないのではないか。神様は必ず誠実を通されるであろうから、ユダヤ人を見捨てることはなく、元々のユダヤ人に対する約束は果たされる筈だ。だから、ユダヤ人と異邦人が同じだなどということは当たらない>というのです。これは正しいことを言っているようですが、自分たちの不誠実を棚に上げた、無責任で身勝手な選民意識であります。

 私たちキリスト者も、これと同じようなことを思ってしまうのではないでしょうか。自分が御言葉を真剣に受けとめずに身勝手なことをしておきながら、そのことを棚に上げて、神様は誠実な方だから、自分を救ってくれるべきだ、自分たちの願いを叶えるべきである、と主張するのですが、なかなか自分たちの思う通りにならないと、神様に不平を漏らしたり、果ては神様なんて頼りにならないなどと思ってしまったりするのであります。

3.神は真実な方

 パウロはこのようなユダヤ人の身勝手な意識をほのめかしながら、「神の誠実が無にされるとでもいうのですか」と疑問を投げかけつつ、4節で、決してそうではない、と断言した上で、人はすべて偽り者であるとしても、神は真実な方であるとすべきです、と語ります。神様に選ばれたユダヤ人の中に不誠実な者がいたとしても、神様は真実なお方であるから、神様は初めの約束を破られることはない、と言っているのです。これは、先ほどのユダヤ人たちの身勝手な意識を代弁した言葉とよく似ているように聞こえますが、「決してそうではない」と言っているように、全く違うのです。ユダヤ人たちは、自分の罪を棚に上げて、ユダヤ人の選びの優越性を主張する根拠として、「神の誠実」ということを強調しているのに対して、パウロは自分たちの罪を認めつつ、それでも神様が真実を貫かれる恵みをほめたたえているのであります。なぜ違ってくるのか。それは、神様の誠実、神様の真実に対して確かな信仰があるかないかではないでしょうか。竹森満佐一先生は今日の箇所の講解説教の中で、ユダヤ人の主張についてこう言っておられます。「ユダヤ人のこのような主張が、正しい言葉として語られることは、あまり多くはないようであります。むしろ、自分の中にある不平や不満を、こういう形で吐き出すことの方が多いようであります。信仰への悪口は、不思議に信仰の弱い人たちから聞こえて来るものであります。信仰の篤い人で、信仰を最もよく知っている人は、信仰の悪口を言いませんし、信仰について、悲観的なことは、めったに口にしないものであります。不真実が横行している世界を見て、すぐに、神の真実が危ういようにいう人は、非常に信仰を憂えているように見えますが、実は、一番動揺し易い人である、と言っていいのではないか、と思います。人間の不真実のゆえに、神の真実が揺らぐと思っている人は、神の運命が、人間の手の中に置かれているように考える人でありましょう。・・・しかるに、正しい信仰を持っている人は、その反対に、このような事情を見ると、一そう神の真実にのみ信頼しようとするのであります。事態が危険に見えれば見えるほど、かえって、神の御力が発揮される時が近づいたことを知るのであります」と。わが国のキリスト教の状態、この教会の状態を見て、私たちは日本における神様の救いの御業はどうなっているのかと憂えるのであります。しかし、「神の誠実」が無にされることはありません。神様は真実な方であります。その神様への信頼を一層確かに持つことが、こうした状況の中で、信仰者が持つべき態度なのであります。

4.裁きを受けるとき、勝利を得られる

 4節の後半は、先ほどの旧約聖書の朗読で読んでいただいた詩編51編の6節後半からの引用であります。詩編の方とは言葉が少し違いますが、こう言われています。「あなたは、言葉を述べるとき、正しいとされ、裁きを受けるとき、勝利を得られる。」――詩編51編は、その初めの註書きにありますように、「ダビデがバト・シェバと通じたので預言者ナタンがダビデのもとに来たとき」に歌ったものだとされています。ダビデ王は部下の妻バテ・シェバを見初めて、その部下を戦場の最前線に送って戦死させて、自分の妻にしてしまったのですが、その罪を預言者ナタンが告発したときに、ダビデが悔い改めて歌ったものとされています。ダビデはここで、自分が犯した罪を認めて、神の裁き受けることは当然だと告白しているのです。<自分は神に選ばれた者であるから神様が救ってくださる筈である>などと開き直ることはしていません。神様の真実を自己弁護のために用いようとはしていません。そうではなくて、神様の正しさを認めて、神様の勝利を賛美しているのであります。ここに自らの罪を認めて神様に全てを委ねる信仰があります。このような心からの悔い改めの信仰があるところに、神様の赦しと救いがあるのではないでしょうか。

5.わたしたちの不義が神の義を明らかに?

 5節以下の議論もユダヤ人たちの言いそうなことを予想して述べております。しかし、わたしたちの不義が神の義を明らかにするとしたら、それに対して何と言うべきでしょう。人間の論法に従って言いますが、怒りを発する神は正しくないのですか。――人間の罪や不義に対して神様の真実が貫かれて神様の義(正しさ)が明らかにされるのだとしたら、神様が人間の罪に対して怒りを発せられるのは正しくないのではないか、という論理です。これはまさに居直ったような、変な論理であります。
 同じようなことが7節でも述べられています。またもし、わたしの偽りによって神の真実がいっそう明らかにされて、神の栄光となるのであれば、なぜ、わたしはなおも罪人として裁かれねばならないのでしょう。――ここでは「わたし」と述べられています。パウロは自分自身の回心の体験を材料にして語っているのです。パウロは回心の前は、主イエスを認めず、キリスト者たちを迫害していました。それがここで「偽りによって」と言っていることです。そのパウロが主イエスと出会って、神の真実に出会ったのでありますが、そうであれば、パウロがかつて罪を犯したことで、神の真実が明らかになって、神の栄光が現わされたのであるから、罪人として裁かれなくてもよいのではないか、というおかしな論理であります。ユダヤ人が言っていることは、そういうおかしなことになる、と言っているのであります。
 8節は、もしそうであれば、ということで、そのおかしな論理からすると、「善が生じるために悪をしよう」とも言えることになってしまうではないか、ということです。このようなユダヤ人の主張というのは、主イエスを裏切ったイスカリオテのユダについて、<ユダの裏切りによって救いの御業が実現したのだから、ユダの裏切りは救いのために必要だった>と言うのと同じ、おかしな議論であります。パウロは罪人がキリストの恵みによって救われることを説きました。しかし、それを誤解した人々は、パウロが罪人になることを奨励していると解釈したのであります。そして、人間の不義が神の義(正しさ)を明らかにし、人間の不真実が神の真実を際立たせるのであるから、「善が生じるために悪をしよう」とパウロが説いていると中傷していたのであります。こうした中傷に対して、パウロは8節の最後で、こういう者たちが罰を受けるのは当然です、と言い切って、ユダヤ人たちの不毛の議論を断ち切っております。

結.神の真実は十字架において

 パウロが語っている罪の赦しの福音というのは、私たちを、善いことをする努力から遠ざけ、罪に留まり続ける方がよいなどと考える者にすることはありません。パウロが伝える救いの福音は、十字架につけられた主イエス・キリストによってこそ実現したものであります。人間の罪に対する神様の怒りと、神様が御自分の約束にどこまでも誠実であられるという神の真実とは、主イエスの十字架において結びついているのであります。私たちの不誠実、私たちの罪が、神様の救いの約束を無にしてしまわないために、主イエスは私たちの罪をすべて背負って十字架に架かって、肉を裂き血を流して、死んでくださいました。主イエスが、本来私たちが受けるべき神様の怒り、神様の裁きを代わって受けてくださいました。そのことによって、私たちに罪の救いが与えられて、救いが成就したのであります。ここに「神の誠実」が表わされており、ここに「神の真実」があります。
 日本の教会の伝道が進展しないこと、また私たちの伝道所で目に見える成果があがらないことを嘆きつつ、自分たちのことは棚に上げて、神様は一体何をしておられるのだろうと思ってしまいがちであります。しかし、神様は主イエスの十字架において、御自身の誠実と真実を最大限に発揮していてくださったのであります。そして、主イエスは天上にあって、今も執り成していてくださるのであります。問題は、私たちがそのことが自分の罪のためであることを深く心に留めて、悔い改め、救いを主に委ねるかどうかであります。
 祈りましょう。

祈  り

救い主イエス・キリストの父なる神様!
 私たちの罪に対して、あなたは主イエス・キリストの十字架をもって救いの御業を誠実に実行してくださったにもかかわらず、私たちはなお、あなたが救いの御業を遅らせておられるか、不十分であるかのように、不服や不平の気持ちを抱きがちな者であることを覚えて、御前に懺悔いたします。 どうか、お赦しください。
 どうか、主イエス・キリストの十字架の御業に信頼を持ち、その御業を人々に伝えることによって、救いの御業が進展し、あなたの御言葉が実を結ぶことを信じる者とならせてください。
 どうか、来週の特別伝道礼拝においても、あなたの救いの御業が行われますように。そのために、私たちにも出来ることを喜んで行う者とならせてください。
 主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

主日礼拝説教<全原稿> 2015年10月18日  山本 清牧師 

 聖  書:ローマの信徒への手紙3:1-8
 説教題:「
神の誠実」         説教リストに戻る