序. 弟子たちに対する実地教育

 先週も申したことですが、マルコによる福音書の8章あたりからは、主イエスは御自身が十字架へ向かっていることを鮮明にされるのですが、一方で、その主の御心を理解せず、自分たちがどうなるのかといったことばかりが気になる弟子たちの不信仰な姿が浮き彫りになって参ります。その中で主イエスは何とかして御心を理解させよう、そして十字架と復活の後に弟子としての働きが出来るようにしようと、懸命に弟子教育をなさるのであります。
 今日から10章に入りますが、10章の32節には、主イエスの死と復活の三度目の予告が出て参ります。その前の3つの段落は、十字架が待つエルサレムに向かう旅の途中で出会った実際の状況の中で交わされた対話によって、弟子たちに対して実地になされた教育であると見ることが出来ます。今日の「離縁について教える」という小見出しがついている箇所は、ファリサイ派の人々が主イエスを陥れようとして提起した離縁についての質問に対して主イエスがお答えになったものですが、それはファリサイ派の人々に対する答えであるとともに、弟子たちに対する真剣な語りかけにもなっているのであります。10節以下には、家に戻ってからの弟子たちとの対話が付け加わっています。また、続く13節から16節の部分は、人々が子供たちを連れて来たことを叱った弟子たちに対して、主イエスが憤りをもって語られたもので、これも弟子たちに対する実地教育であります。さらに17節から31節の箇所には「金持ちの男」と主イエスとの間で交わされた、永遠の生命を受け継ぐことと財産との関係が問われた会話ですが、この場合もその後で、弟子たちと主イエスの対話が続いていて、実際の問題を題材にした実地教育になっているのであります。
 これらの記事は、現在の弟子である私たちに対する実地教育でもあります。弟子として主イエスに従って行くということは、頭の中で観念的に学習することでは身に付きません。生活の中で実際に起こることや、日常の生活の仕方、生き方を選び取ることの中で起こって来ることに対して、御心に従うということがどういうことであるかを体験的に教えられるものなのであります。
 今日は、そのうち、離縁について投げかけられた問題に対して主イエスがどう対応されたかを学ぶのですが、「離縁」などという問題は自分とは関係ないと思われる方が多いかもしれません。しかし、離縁というような具体的な問題に直面した時に、どういう視点で解決に当たるかという点が大切で、そのことは、他の問題でも同じであります。その視点の置き方を離縁の問題を通して学びたいと思います。

1.イエスを試そうと

 さて、101節に、イエスはそこを去って、ユダヤ地方とヨルダン川の向こう側に行かれた、とあります。「そこ」というのは、カファルナウムであります。そこは主イエスの伝道の拠点であった町で、ガリラヤ湖の北西にあります。そこを去って、いよいよ十字架が待つエルサレムに向かわれるのであります。そうであれば、まっすぐ南に向かわれてもよいのですが、ヨルダン川の向こう側、即ち東側に行かれました。それが何故だったのか。当時のユダヤ人はサマリア地方を避けて、ヨルダン川の東側を通るのが一般的だったようで、今回は主イエスもそのようにされたということなのかもしれません。その理由は明らかではありませんが、今回の離縁の問題との関係で、知っておかなければならないことがあります。それはヨルダン川の東側のペレア地方はローマ総督の監督の下で、ヘロデ・アンテパスが支配していました。このヘロデは自分の兄弟フィリポの妻であったヘロディアを、フィリポと離縁させて結婚したのです。そのことを批難したのが洗礼者ヨハネで、彼は、そのことで捕えられていて、この福音書の6章に書かれていたようないきさつで、結局、首を切られたのでありました。そのヘロデが治めている地方を通っている時に、ファリサイ派の人々が主イエスの一行に近寄って来て、2節にあるように、「夫が妻と離縁することは、律法に適っているでしょうか」と尋ねたのであります。
 2節の終わりに、イエスを試そうとしたのである、と注釈が書かれていますが、それは単に主イエスが律法について間違ったことを言ったらとっちめてやろうということだけではなくて、もし、主イエスが「妻を離縁することはいけない」とでも答えるなら、ヘロデに訴えて、洗礼者ヨハネと同じような運命を辿らせようという魂胆があって「試そうとした」という意味が含まれているのであります。
 このような魂胆を込めて質問を仕掛けたファリサイ派の人々に対して主イエスはまず3節で、「モーセはあなたたちに何と命じたか」と問い返されました。「モーセ」というのは、モーセが神様から受けとった律法の書のことを指します。ファリサイ派の人たちというのは、律法を大切にして、よく勉強もし、よく守っていることを誇りとしていました。だから離縁についてどのように書かれているかを彼らは当然知っているのですが、主イエスがわざわざ問われたのは、<そこに書かれている主旨をちゃんと読み取っているか>、<あなたは聖書を深く読んで神様の御心を聴いているか>という問いかけです。これは大切な問いかけです。私たちも、自分を正当化するために聖書の言葉を利用したり、聖書の上辺だけの知識で、キリスト教の信仰を批判したり、信仰は役に立たないと思ってしまいがちですが、聖書に込められている神様の御心を聴き取り、それを真剣に、厳粛に受け止めているかどうかということが問われるのであります。
 ファリサイ派の人たちの答えが4節に記されています。彼らは、「モーセは、離縁状を書いて離縁することを許しました」と言った、と書かれています。この答えは申命記241節に教えられていることです。そこにはこう書かれています。「人が妻をめとり、その夫となってから、妻に何か恥ずべきことを見いだし、気に入らなくなったときは、離縁状を書いて彼女の手に渡し、家を去らせる。」――これは、妻に何か問題があれば、離縁は合法であるとするもので、妻の方でも離縁状を受け取れば、他の男性と結婚しても姦淫の罪を犯すことにならないという意味で、離縁された女性の立場を守るための規定でもありました。
 しかし、主イエスは、ファリサイ派の人たちの答えに対して、こう言われました。5節です。「あなたたちの心が頑固なので、このような掟をモーセは書いたのだ。」――ここで「頑固なので」とおっしゃっている意味はどういうことでしょうか。本当は離縁は許されないことなのだけれども、人間は頑固なところがあるので、結婚生活がうまくいかない場合があるのが現実である。だから、神様も妥協して、離縁することも容認されたのだ、という意味でしょうか。そういう意味ではなさそうです。「心が頑固なので」という原文の意味は、加藤常昭先生の解説によれば、「あなたがたの頑固さを際立たせるために」、離縁をも認めたのだ、という意味で、離縁せざるを得なくなることの中にある人間の頑なな罪を明らかにするために、このような掟が設けられた、という意味なのです。ですから、本来、離縁は神様の御心ではなくて、人間の罪から来ることなのだということです。

2.天地創造の初めから――神のみ心を問う

 主イエスはそう言われたあと、6節以下で、そもそもの男と女の関係について、結婚について、基本的なことを話されました。「しかし、天地創造の初めから、神は人を男と女とにお造りになった。それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。だから二人はもはや別々ではなく、一体である。従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない。」69節)この冒頭で言われている言葉は、創世記の1章の天地創造の六日目に書かれていることと、先ほど旧約聖書の朗読で読んでいただいた、創世記218節以下の中にある言葉で、結婚式の式辞の中でも引用されるものであります。ファリサイ派の人々は離縁の根拠をモーセの律法に求めました。しかし主イエスは天地創造に当たっての神様の御心が何であったかというところから考え直させようとなさるのであります。神様はそもそも、人間を男と女とに造られたのであります。それは単に子孫を残すためではありません。創世記2章の18節で、神様はこう言われています。「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう。」――人は男と女として、互いに交わり助け合って生きる者として造られたのであります。そのような神様の御心のもとで、更に特定の男子と女子が神様によって結び合わされるのが結婚であります。創世記2章では、神様は男を深い眠りに落とされて、男のあばら骨の一部を取って女を造ったと書かれています。そのようにして造られた女を見て男は言いました。「ついに、これこそ、わたしの骨の骨、わたしの肉の肉。」そこには、助け合って生きるパートナーを与えられたことの喜びが表われています。このようにして与えられた夫婦の関係は、9節で語られているように、神様が結び合わせてくださったのですから、「人は離してはならない」のであります。これが夫婦間のことを考える時の大前提であります。9月に講壇交換を行いましたが、その時に松浦先生はエフェソの信徒への手紙5章のテキストから「主にある夫と妻」という題で説教をしてくださいました。そのテキストの中でも、「人は父と母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。この神秘は偉大です」(31)と記されていて、「キリストに対する畏れをもって、互いに仕え合いなさい」(21)と教えられていました。夫婦の関係というのは、二人が好きになったから結婚したとか、自分がこの人を選んだから結婚するとか、お互いの将来のことを考えて相応しいから一緒になろうということではなくて、神様が合せてくださったのであります。これはクリスチャンでない場合も同様です。ですから、二人の間に何か問題や不都合が起こった場合も、そのことだけで、離縁を考えてはいけないのであって、神様が合せてくださったという原点に立ち戻る必要があるということです。人間は互に欠けがあります。罪があります。ですから人間の思いや愛情や都合だけで、夫婦関係が支えられるわけではありません。二人を合わせてくださった神様の御心があり、人間の側の間違いがあっても赦してくださる神様の忍耐と愛があってこそ成り立つし、継続が可能であるのが夫婦関係であります。夫婦の間に何か問題が発生しても、ファリサイ派の人々のように、いきなり離縁が律法に適っているかどうか、律法に従って離縁するにはどうすればよいかを問うのではなくて、律法以前の、そもそもの神様の御心、神様が合せてくださったという原点に立ち帰らなければならないということであります。その原点に立ち帰るということは、単に離婚の是非を問い直されるということではなくて、むしろ、神様が結び合わせてくださったということから、その神様の御心に沿って二人がどのような思いと覚悟をもって、共に生きて行くことが出来るのかを前向きに考えて行くことができるようにされるのであります。そこには信仰が必要です。神様が最良の道を用意してくださるという、神様への信頼が必要ですし、神様が自分たちの過ちを赦してくださって、もう一度立ち直らせてくださるという希望が必要であります。そのためには、祈りが必要ですし、悔い改めが必要でありましょう。それらすべては、神様が合せてくださったという原点に立ち帰ることから始まるのではないでしょうか。

3.離縁と姦通の罪

 次に10節以下には、家に戻ってから、弟子たちがまたこのことについて尋ねたことが記されています。ファリサイ派の人々の問いかけに対して主イエスがお答えになったことが、弟子たちにはまだよく理解出来なかったからでしょうか。あるいは、主イエスが教えられた原点に立ち帰って考えるべきことは理解できたのだけれども、具体的に起こっている離縁の問題に、どう対処したらよいかが分からなかったので、重ねてお尋ねしたのかもしれません。弟子たちがお尋ねした動機は不明ですが、主イエスの言われたことはこうでした。「妻を離縁して他の女を妻にする者は、妻に対して姦通の罪を犯すことになる。夫を離縁して他の男を夫にする者も、姦通の罪を犯すことになる。」1112節)この主イエスのお言葉から推察すると、弟子たちがお尋ねしたのは、「離縁はどんな場合でも許されないということですか」ということであったのかもしれません。ここには、妻に対しても、夫に対しても、離縁した後、別の異性と結婚することは姦通の罪を犯すことになると述べられています。このお言葉をそのまま単純に受けとめると、離縁は場合によっては許されるけれども、再婚は姦通の罪になる、と言っておられるように読めます。しかし、ここと同じようなことを述べておられるのがマタイ福音書の山上の説教の中にありますが、そこでは、十戒の中で「姦淫するな」と命じられていることに対して、「みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである。もし、右の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出してしまいなさい」と言っておられて、心に姦淫の思いがあることの罪を指摘しておられるのであります。離縁して再婚するという場合も、往々にして姦淫の思いから起こることが多いことを見ておられて、今日の箇所の1112節のようなことをおっしゃったのであって、再婚をすべて否定されたのではないと考えられます。主イエスはモーセが語った離縁をする場合の規定についても否定しておられるわけではありません。どうしても離縁に至らなければならないケースがあることも認めておられるのでしょう。しかし、大切なことは、すぐに離縁の方に進むのではなくて、そこに姦淫の罪がないか、相手の人格を傷つけることにならないか、神様が二人を合わせられたことを壊すことによって神様の御栄光を傷つけることにならないか、といった原点に立ち帰って、もう一度やり直す道がないのかを、真剣に考えることが先決だ、ということではないでしょうか。
 講壇交換の時に松浦先生が取り上げられたエフェソの信徒への手紙5章では、「人は父と母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる」と記されたあと、「この神秘は偉大です。わたしは、キリストと教会について述べているのです」(32節)と述べられていました。つまり、夫婦というのは、キリストと教会が愛によって一つとされているのと同じように、一つである、と述べられているのです。キリストと教会の間には、不信仰で無理解な弟子たちの罪を赦されるキリストの十字架の愛があります。その愛がキリストと教会を一つにするのであります。夫婦が共に生きて行く場合にも、そこには人間の多くの罪が介在いたします。しかし、その罪に対して十字架の死による赦しの恵みがあります。その恵みによってこそ、夫婦の関係は赦し合いの関係へと変えられて、離縁は避けられるのであります。この教会に属する御夫妻で、離縁もあり得るかと思われた御夫妻が、今年の初め、赦し合いの関係に立ち帰ることが出来るという実例を、私たちは目の当たりにいたしました。そこには、神様の計り知れない導きがありました。

結.御心に従う生活――感謝と喜びを分かち合う

 今日教えられたことは、直接的には夫婦の関係における離縁の問題でありましたが、このことは親子の関係にも、兄弟の関係にも、隣人との関係にも、あらゆる人間関係に当てはまることであります。国と国との関係においても当てはまることでありましょう。私たちは人間関係や国と国との関係に問題が生じた時に、どちらが正しいか、どちらがまちがっているか、どうすれば自分の正しさを通すことができるのかを考えます。しかし、人間関係や国際関係の中にもある人間の罪の解決のために命を捨てて下さった主イエスの愛の恵みに立ち帰るときに、関係の回復が始まり、互いに御心に従う生き方ができるようになって、感謝と喜びを分かち合う関係に立ち帰ることが出来るのだということを改めて覚えたいと思います。 祈りましょう。

祈  り

造り主にして、私たちの人間関係を結んでくださる父なる神様!
 計り知ることの出来ないあなたの御計画と愛と導きがあることを覚え、御名を讃美し、感謝いたします。
 そのようなあなたの計らいにもかかわらず、私たちの人間関係は、あちこちでほころびが生じております。そこには私たちの頑なさがあり、罪があることを思わされます。どうか、お赦しください。
 どうか、あなたが結んでくださった関係を大切にすることができますように。どうか、私たちの中のほころびを、あなたの愛によって繕っていただけますように。
 主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

主日礼拝説教<全原稿> 2015年10月11日  山本 清牧師 

 聖  書:マルコによる福音書10:1-12
 説教題:「
二人は一体となる」         説教リストに戻る