「塩は良いものである。だが、塩に塩気がなくなれば、あなたがたは何によって塩に味を付けるのか。自分自身の内に塩を持ちなさい。そして、互いに平和に過ごしなさい。」   (マルコによる福音書950

 
十字架に向かわれる主イエスについて無理解であった弟子たちに対して、主イエスは様々な比喩を用いて、弟子としてのあり方を教えられた。そこには私たちが何を目指して生きるべきかが示されている。
(1)「わたしを信じるこれらの小さい者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がはるかによい。」
――教会の中の人間関係や意見の違いでつまずいて、礼拝に来なくなってしまう人がいる。私たちは、その人にも問題があると考えてしまうが、主イエスはつまずかせることは死に値する罪だと述べておられる。
(2)「もし片方の手があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい。両手がそろったまま地獄の消えない火の中に落ちるよりは、片手になって命にあずかる方がよい。」――これは、人生の究極の目標は「命にあずかる」こと、即ち、永遠の命を得ること(神の国に入ること)であって、そのためには、私たちが日頃大切だと思っているものがつまずきとなるので、それを捨てることを恐れてはならないと教えておられる。手は決して無用なものではないが、それが神の国に入る妨げになる場合があるのだ。あなたにとって大切な「手」とは何だろうか。
(3)標記の御言葉では塩を持つことの大切さが教えられている。塩には調味料(味付け)の役割と清め(浄化)の機能があるが、神と私たちの関係に味付けをし、浄化する役割を果たすものとは何だろうか。聖書の他の箇所では、「いつも、塩で味付けされた快い言葉で語りなさい」(コロサイ46)とか、「あなたがたは地の塩である」(マタイ513)と言われている。私たちキリスト者の存在や語る言葉が塩の役割をするということだが、私たちは塩としての十分な働きをすることはできない。塩の働きを完全に果たされたのがイエス・キリストである。私たちは、キリストという塩を持つことによって、塩の役割の一端を担う者とされるのである。そのとき、つまずきが取り去られ、神と人との間に、また人と人との間の平和が実現するのである。

主日礼拝説教<要 旨> 2015年10月4日  山本 清牧師 

 聖  書:マルコによる福音書9:42-50 
 説教題:「
自分自身の内に塩を持て」 説教リストに戻る