序. キリストに従うとは

 この伝道所で使っている新共同訳聖書には小見出しがついていて、去年の春から続けているマルコによる福音書の連続講解説教でも、ほぼこの小見出しの区切りに従ってお話しして来ております。しかし、ギリシャ語の原典には小見出しはありません。元の写本には章の区分さえついていませんでした。今日は小見出しに従って、942節から50節までの箇所を取り上げることにしていますが、すぐ前の41節と42節の間にはつながりがあって、説教者によっては41節から50節までで説教をいたします。更にその前の区分は、この新共同訳では37節と38節の間を分けていますが、前回もお話ししたように、「わたしの名」という言葉が37節と39節などにもあって、文脈は続いているのであります。そして更に言えば、これまでにもお話しして来ましたように、8章あたりから続けて取り上げられていることは、十字架に向かおうとされている主イエスに対する弟子たちの無理解と不信仰であります。主イエスは既に二回、御自身の死と復活のことを予告されていたのでありますが、弟子たちは34節にありますように、「だれがいちばん偉いかと議論し合っていた」のであります。そんな弟子たちに、主イエスは何とかして御心を伝えようと、色々な機会を捉えてお話しになったと考えられるのですが、この聖書に書かれている順序で続けて語られたのでは必ずしもないようで、今日の箇所についても、話が論理的に展開されているわけではなくて、むしろ編集者が、印象深い言葉を手掛かりに、「しりとり」のような形で並べたのではないかと考えられています。しかし、その中で一貫していることは、無理解な弟子たちに何とかして御心を伝えて、主イエスの十字架と復活の後に、弟子としての働きが出来るようなってほしいという主イエスの思いであり、<キリストに従うとはどういうことか>が語られています。
 ところで、私たちもまた、主イエスの御心を理解しようとするよりも、自分が幸せになること、自分が人々によってどう評価されるかということに関心が向きがちであります。そして、聖書を読むことも、礼拝することも、信仰を持つことも、そのための手段のようになってしまっているところがありはしないでしょうか。そんな私たちに対して、主イエスは何を望み、何を与えようとしておられるのでしょうか、その主イエスの思いをこの箇所から聴き取りたいと思います。

1.小さな者をつまずかせない

 さて、今日の箇所の最初の42節は、先ほど申しましたように、その前の41節とつながっています。41節では主イエスはこう言っておられます。はっきり言っておく。キリストの弟子だという理由で、あなたがたに一杯の水を飲ませてくれる者は、必ずその報いを受ける。
 この主イエスのお言葉の後ろには、キリストの弟子であることが大変厳しい状況になる事態が来ることが想定されています。つまり、キリストの弟子であることによって人々から排斥される事態が迫っていることを主イエスは見通しておられて、その上で、そのような状況になった中で、キリストの弟子だと分かっていながら、あるいはキリストの弟子だからという理由で一杯の水を飲ませてくれるような、協力をしてくれる人がいるなら、その人は私たちの味方であって、神様はその人々に必ず報いをお与えになる、とおっしゃったのであります。――これは、激しい迫害がある時代だけのことではありません。現代においても、教会に対してわずかなことでも協力してくださる方がおられるならば、神様は大いに喜ばれるのだから、弟子である私たちも感謝しなければならないということであります。
 この41節をちょうど裏返しにしたのが42節のお言葉であります。「わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がはるかによい。」――「つまずく」というのは、歩いていた人が石に躓いて転ぶように、信仰を持って歩んでいた人が、何かのきっかけで、信仰の歩みを続けられなくなることであります。神様を信仰すること自体に疑問を覚えるようになるということもありますが、多くは教会の中での人間関係や、教会での習慣とか作法で違和感を覚えることから躓くことが多いように思います。そのように信仰そのものに疑問を持ったのではないことが原因になっていても、それによって神様との交わりが損なわれるということであれば、「大きな石臼を首に懸けられて、海に投げ込まれてしまう」ことになっても致し方ないほどの大きな罪である、と警告なさっているのであります。教会自体の信仰や運営の仕方などに問題があって、それに躓いて別の教会へ行って信仰生活を続けるというのであれば、まだ救われるのですが、躓きを機会に信仰生活から離れてしまうことは、その人の神の国への道を閉ざし、永遠の生命を断つことになるとすれば、躓かせた者の罪は計り知れません。この伝道所のこれまでの歩みの中にも、そのような躓きがあって礼拝生活や信仰の道から離れてしまっている方が何人かおられるという現実を覚えて、この主イエスの御言葉を、畏れをもって真剣に受け止める必要があります。私たちは、躓いた人にも問題がある、と考えて、自分たちの責任を軽く見ようとします。しかし、主イエスは、「これらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がはるかによい」とおっしゃっているのであります。たとえ躓いた人にも問題があったとしても、その人から神様との関係を奪ったとしたら、それは海に投げ込まれて再び浮かび上がることの出来ないほどの裁きを受けなければならないことであり、死に値する罪であるとおっしゃっているのであります。もしイエス・キリストの十字架の執り成しがなければ、もはや神様の前には立つことの出来ないことをしてしまっていることを覚えて、深い悔い改めをもって、主の執り成しにすがるほかありません。同時に、主イエス自身が、躓いた人をそれほどまでに今も愛しておられ、主のもとに戻って来ることを望んでおられることも忘れてはなりません。

2.自身がつまずかないために――地獄よりも命にあずかる方が

 次の43節から47節にかけては、同じ「つまずかせる」という言葉が3回も出て来るのですが、42節とは警告の内容が違っています。42節では他人をつまずかせることに対する警告でありましたが、43節以下は自分がつまずくことに対する警告であります。こう言われています。「もし片方の手があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい。両手がそろったまま地獄の消えない火の中に落ちるよりは、片手になっても命にあずかる方がよい。もし片方の足があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい。両足がそろったままで地獄に投げ込まれるよりは、片足になっても命にあずかる方がよい。もし片方の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出しなさい。両方の目がそろったまま地獄に投げ込まれるよりは、一つの目になっても神の国に入る方がよい。」4347節)
 これを文字通りに受け止めると、余りにも極端なことが求められているように思えます。確かに大切なものを手に入れるためには、一方で大きなものを犠牲にしなければならないことは分かる。「二兎を追う者は一兎をも得ず」という諺がある。それと同じような主旨のことを大袈裟な比喩で語られたのではないか、と考えてしまいます。しかし、ここで言われていることはそういうことでしょうか。ここでは、つまずくことの反対に得るべきこととして、44節と46節では「命にあずかる方がよい」と言われ、47節では「神の国に入る方がよい」と言われています。ここには私たちの人生の究極の目標が示されています。私たちが最も真剣に求めるべきは、命にあずかること、即ち、永遠の命を得ることであり、それを別の言い方にしたのが、神の国に入ることであります。これは言い換えれば、神様との関係を第一に生きるということであります。<信仰に生きる>と言い換えてもよいかもしれません。信仰に生きるために、片手や片足や片目を失うほどの犠牲を払わなければならないのか、と(いぶか)られるかもしれません。片手や片足や片目を失うことが、それまでの人生を大きく狂わせるということがあるかもしれません。しかし、両手や両足や両目がそろったままで、地獄に投げ込まれて、永遠の命を得られず、神の国に入ることが出来ないよりは、片手や片足や片目を失うことがきっかけで、永遠の命を得ることが出来る方がよいではないか、ということです。ここで手や足や目と言われているものは、もちろん文字通りの手や足や目のことだけではありません。これらは豊かな人生を歩むため、立派な業績を挙げるために欠かせないと思っているものであります。それらを失っては、人生の楽しみや喜びや満足が得られなくなるのではないかと思い込んでいるものであります。それは、ある人にとっては財産や地位であったり、ある人にとっては仕事や専門的な能力であったり、ある人にとっては家族や親しい仲間であったり、ある人にとっては趣味やボランティア活動であったりするかもしれません。しかし、どんなに大切に思えるものであっても、永遠の命にあずかり、神の国に入ること、神様との交わりに生きることほど大切なものはないということです。むしろ、そうした自分にとって欠かせない大切なものだと思い込んでいるものが、一番大切なものを得ること失わないことの邪魔をするのであります。命にあずかること、神の国に入ることをつまずかせるのであります。そうであれば、そうしたつまずかせるものを捨てた方がよいとおっしゃるのであります。もちろん、手や足や目で表現されているもの、決して無用なものではありませんし、神様が備えてくださったものであります。しかし、一番大切なことを忘れて、それらに拘束されてはならないのです。これは厳しいお言葉ではありますが、弟子たちや私たちを何とか躓かせたくないとの主イエスの愛の籠った配慮から出た警告でありますし、思い切ってこのお言葉に従うことによって与えられる大きな喜びへの招きの言葉であります
 48節には「地獄では蛆が尽きることも、火が消えることもない」とあります。写本によっては、これと同じ言葉が44節の後と46節の後についている十字マークの所にも入っています。この言葉はイザヤ書の最後の6624節からの引用なのですが、ここで「地獄」と訳されている言葉は、ヘブライ語では「ヒンノムの谷」という意味で、エルサレムの西南にあるゴミ処理場のある一帯のことで、そこではいつも火が燃えていたそうで、地獄を思わせる場所だったようです。そんな所に投げ込まれるよりは、どんな大切なものを失っても、神の国に入る方がよいではないかという、神の国への招きが語られているのです。

3.消えない火で塩味を

 続く49節では、48節の「火」という言葉を受けて、人は皆、火で塩味を付けられる」と言われています。ここは大変難解とされる言葉で、意味を確定することが出来ないのですが、シュラッターという人は、「塩味を付けられる」という所を「浄化される」という意味にとっています。火は物を焼きつくす恐ろしいものですが、悪い物を浄化する働きがあります。そして、その「火」は、私たちの中にある多くの汚いものを焼き尽くして浄化する「誠実な悔い改め」にも譬えられる、と言っております。また、ファウスティという人は、ここの「火」とは聖霊のことだと解釈して、聖霊の火が私たちを腐敗から守るのだと言っております。この節の解釈は確定することは出来ませんが、「火」とは普通は神様の裁きを意味するものですが、ここではむしろ再生あるいは新しく生まれ変わるエネルギーを指しているようであります。
 そして50節に入ると、49節で出た「塩味を付ける」という言葉を受けて、こう語られています。「塩は良いものである。だが、塩に塩気がなくなれば、あなたがたは何によって塩に味を付けるのか。自分自身の内に塩を持ちなさい。」ここで「塩を持ちなさい」と勧められています。「塩」は聖書の中で色々な用いられ方をしていますが、調味料(味付け)としての役割(ヨブ66)のほかに、清め(浄化)のためにも利用されていました(王下21922)。新約聖書では、コロサイの信徒への手紙の中で、こう言われています。「いつも、塩で味付けされた快い言葉で語りなさい」(コロサイ46)。ここを原文で見ると、「恵みによって味付けされた言葉を語れ」と言われているのであります。私たちは自分の言葉や人生を、自分の知恵や立派な働きで味付けしようとするのですが、イエス・キリストによって味付けされた言葉を語れと勧めているのであります。今日の箇所も同じような意味で受け取ることが出来ます。この箇所とよく似た言葉がマタイ福音書の山上の説教の中にありますが、そこでは「あなたがたは地の塩である。だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味がつけられよう。もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである」(マタイ513)と言われています。この世における弟子たち(キリスト者)の役割を語られた言葉でありますが、ここでは、この世を清める(浄化する)という役目と恵み豊かな世界にするという両方の役割が語られているように受け取ることが出来ます。
 先ほど朗読していただきました旧約聖書の歴代誌下13章の中には、「イスラエルの神、主が、塩の契約をもって、イスラエルを治める王権をとこしえにダビデとその子孫に授けられたことを、あなたたちが知らないはずはない」(歴代下135)と記されていました。また、レビ記にはこういう言葉もあります。「穀物の献げ物にはすべて塩をかける。あなたの神との契約の塩を献げ物から絶やすな。献げ物にはすべて塩をかけてささげよ」(レビ213)とあります。どちらにも「塩の契約」ということが出ています。塩には腐敗を防いで物の値打ちを長続きさせる働きがあります。そのことが契約と関係づけられているのですが、神様とイスラエルの民との永続的な関係が述べられているのであります。そしてその永続的な関係は、イエス・キリストによって確実なものとされるとの約束を指し示しているように思われます。今日の箇所で塩味とか塩気と言われていることは、煎じ詰めれば、主イエスの十字架による救いの御業のことであると言ってよいのではないでしょうか。弟子たちや私たち自身の中には塩気も塩味もありません。ですから、主イエスの前で、「だれがいちばん偉いか」といった議論は意味がありません。むしろ私たちは、人を導くどころか、小さな者をつまずかせるようなことをしてしまう者でありますし、与えられている手や足や目をさえ、間違って用いて、自分自身をつまずかせてしまって、神様との関係を破ってしまうのであります。そんな弟子たちや私たちのために、主イエス御自身が十字架にお架かりになって、塩となってくださいました。塩となって罪で汚れた者たちを浄化し、生かされている命に豊かな味付けをしてくださったのであります。

結.塩を持つ平和

 50節後半の最後の勧めの言葉を聴きましょう。「自分自身の内に塩を持ちなさい。そして、互いに平和に過ごしなさい。」――主イエスは十字架への道を歩んでおられました。しかし、無理解な弟子たちは愚かにも「だれがいちばん偉いかと議論し合って」いました。それは私たちの姿でもあります。私たちは教会へ来て、聖書の話を聞いて、結局、自分が幸せになること、自分の人生が豊かになることを願っているだけなのではないかということが、弟子たちの姿から問われます。そして今日の箇所では、小さな者、即ち、弱い者や欠けを持っている者を躓かせているのではないか、また、自らを高めよう、豊かにしようとしながら、自分自身の中に捨て切れないものがあって、結局はつまずいてしまう、つまり神様との関係を失ってしまって、永遠の命を失い、神の国に入ることが出来なくなるのではないか、との警告が語られていました。そして、主イエスは最後に、「自分自身の内に塩を持ちなさい」と語ってくださって、私たちを何とか永遠の命にあずかる者へと導こうと呼びかけてくださっています。「自分自身の内に塩を持つ」とはどういうことでしょうか。塩は私たちの中に自分で造り出すことが出来るものではありません。主イエスが塩になってくださったのであります。主イエスが自らの命を捨ててくださることによって、私たちが永遠の命にあずかる道を開いてくださいました。それが私たちのために備えられた塩であります。その塩を私たちの中に持つためには、私たちの中が他のことで一杯になっていたのではだめです。邪魔になっているもの、つまずきを与えているものを取り除く決断が必要であります。それは私たちの大事な手であるのか、足であるのか、目であるのか。――私たちは自分の大事なものを捨てる勇気がありません。しかし、「火で塩味を付けられる」という不思議な言葉もありました。主イエスの救いの御業が、そして主イエスによってもたらされる福音の火が、私たちに捨てるべきものを捨てさせ、塩味を付けさせ、永遠の命にあずからせてくださるのであります。そこには、もう、「だれがいちばん偉いか」という自らを誇ろうとする思いや、自分が得をしたいという思いは存在できません。そして、つまずきは取り去られて、互いに平和に過ごすことができるようになります。今日、主イエスはそのことを約束してくださっているのであります。
 祈りましょう。

祈  り

救い主イエス・キリストの父なる神様!
 今日も御言葉をもって私たちのような者にも救いの塩を送ってくださりありがとうございます。私たちは人を躓かせたり、自分の大切なものを失うことを恐れて、自ら躓いたりして、御心を痛めております。どうか、お赦しください。どうか、私たちのために用意して下さっている永遠の命を、何を犠牲にしても求め、神の国に入れていただけますように。どうか、イエス・キリストの塩を送り続けて下さい。
 主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

主日礼拝説教<全原稿> 2015年10月4日  山本 清牧師 

 聖  書:マルコによる福音書9:42-50
 説教題:「
自分自身の内に塩を持て」         説教リストに戻る