外見上のユダヤ人がユダヤ人ではなく、また、肉に施された外見上の割礼が割礼ではありません。内面がユダヤ人である者こそユダヤ人であり、文字ではなく、“霊”によって心に施された割礼こそ割礼なのです                  (ローマの信徒への手紙22829 

 標記は、ユダヤ人が律法を守っていることや、割礼という肉体的な儀式を受けていることを誇りとしながら、その内実が伴っていないことを、パウロが厳しく指摘する中で語っていることであるが、聖書を与えられ、洗礼を受けているキリスト者も耳を傾けるべき言葉である。私たちは聖書を通して神の御心を知らされ、キリスト者としていかに生きるべきかを知っていながら、御心に適う生活をしておらず、自らを誇ることは多いが、神を誇る(神に栄光を帰す)ことを怠っているのではないか。
 ここで「内面」と言われているのは、単に心の中のこと、気持ちだけのことではない。モーセは「心の包皮を切り捨てよ。二度とかたくなになってはならない」(申命記1016)と述べている。それはイスラエルの民が荒れ野の厳しい旅の中で、心を開いて神の深い愛と赦しを認めようとしなかったことを繰り返さないようにとの勧めである。私たちも、具体的な生活の中で、神の御言葉に耳を開いているか、神の愛と憐れみにどう向き合っているかが問われる。これは心の中の反省や決心で改められるものではない。「“霊”によって」とあるように、聖霊の助けを受けて、日々悔い改めに導かれなければ出来ないことである。
 パウロは「誉れは人からではなく、神から来るのです」(29)と記している。誰でも他人から誉れを受けたい。しかし、私たちにとって最も大切なことは、最後の審判の時に、どのような誉れを神から受けることができるかである。誉れは、私たちが善行を積むことによってもたらされるものではない。誉れは人からでなく、神から来る。神は罪深い私たちの上にも、誉れを与えようとして、イエス・キリストを遣わしてくださり、罪の問題の解決の道を備えてくださった。私たちは心の包皮を開いて、この主イエスを信じ、神の赦しに身を委ねることによって、終わりの日に神の誉れを受けることができるのである。

主日礼拝説教<要 旨> 2015年9月27日  山本 清牧師 

 聖  書:ローマの信徒への手紙2:17-29 
 説教題:「
心に施された割礼」 説教リストに戻る