序. ユダヤ人とキリスト者

 5月から月一回の割合で、ローマの信徒への手紙から御言葉を聴いております。以前からもお話ししておりますように、この手紙でパウロが伝えようとしている中心的な事柄は3章21節以下にあります「信仰による義」、即ち、信仰によって罪が赦されて、正しい者と見做していただけるという福音であります。しかし、そこに行きつく前に、パウロは人間の罪について詳しく語るのでありまして、今日もその一部でありますが、今日の箇所では特に、ユダヤ人の罪を厳しく糾弾しております。
 この手紙はローマの信徒に宛てた手紙であります。ローマはユダヤからは遠く離れた異邦人の町でありますが、そこにもユダヤ人は住んでいましたし、そこの教会の中にもユダヤ人がいたでしょうが、異邦人も多くいた筈で、なぜここでユダヤ人の罪のことが取り上げられるのか、不思議な感じもするのですけれど、パウロがここでユダヤ人の罪のことを取り上げるのは、ユダヤ人だけを攻撃しようということではなくて、キリストを信じるようになった異邦人にも、うっかりすると同じような間違いを犯す危険があるからだと思われます。
 ユダヤ人は、神様から特別に選ばれた民でありました。神様は、ユダヤ人の歴史の中で、十戒をはじめとする律法をお与えになって、人類全体に対する御心をお示しになりました。ユダヤ人たちはその律法を守って生きることによって神様に喜ばれる正しい生き方をしていることを誇っていたのであります。しかし、自分は正しいと思っている人、何も悪いことをしていないと思っている人が、実は信仰から最も遠い状態にあって、本当の信仰を持ちにくいのであります。パウロ自身が、ユダヤ人のエリートとして自らを誇り、キリスト者は間違っていると考えて彼らを迫害していたのであります。そのパウロがキリストに出会って、自分の罪を知り、回心させられたのでありました。その体験を踏まえながら、今、ユダヤ人の罪を厳しく指摘しつつ、更には、キリスト者も陥りがちな同じような過ちにも気づいてもらって、ユダヤ人はもとより、異邦人のキリスト者も、イエス・キリストによって実現した信仰による義という本当の救いへと導こうとしているのではないでしょうか。そういう訳ですから、今日の箇所は決してユダヤ人を告発するためにだけ書いているのではなくて、異邦人にも知ってもらいたいこと、しかも既にキリスト者となっているローマの教会の信徒にも聴いてもらいたいことを語っているのであります。そしてそれは、今日、神様が私たちにも聴かせようとなさっている事柄でもあるのではないでしょうか。ですから、ここに書かれていることを他人事として聞くのではなく、自分たちのことが述べられているとして受け取って参りたいと思います。

1.律法と割礼/聖書と洗礼

 まず、1718節にはこう書かれています。ところで、あなたはユダヤ人と名乗り、律法に頼り、神を誇りとし、その御心を知り、律法によって教えられて何をなすべきかをわきまえています。――ここで「律法に頼り」と訳されているところは、口語訳では「律法に安んじ」となっていました。律法にあぐらをかいているという意味です。当時のユダヤ人は、全くここに書かれている通りでありました。しかし、ここで「ユダヤ人」と書かれているところを「キリスト者」と読み替え、「律法」と書かれているところを「聖書」と読み替えることが出来るのではないでしょうか。そのように読み替えるとこうなります。「ところで、あなたはキリスト者と名乗り、聖書にあぐらをかいて、神を誇りとし、その御心を知り、聖書によって教えられて何をなすべきかをわきまえています。」ここにはキリスト者に対する痛烈な皮肉が込められていることに気づかされます。私たちは聖書を通して、キリスト者としてどのような生き方をすべきか、神様の御心を知らされ、具体的にも教えられ、わきまえている筈ではないか、というのです。
 続けて1920節ではこう言われています。また、律法の中に、知識と真理が具体的に示されていると考え、盲人の案内者、闇の中にいる者の光、無知な者の導き手、未熟な者の教師であると自負しています。――当時のユダヤ人は、まさにここに書かれている通りであったのでしょう。そして、パウロ自身もかつては、このような自負を持っていました。そしてここも、「律法」のところを「聖書」と読み替えれば、私たちキリスト者にも当てはまるのではないでしょうか。皆様は、自分は聖書についてそれほど深い知識を持っていないし、人を導くような案内者にはとてもなれない、と思っておられるかもしれません。しかし、心の奥底では、この世的な生き方をしている人たちや、現世利益を説く宗教を信じたり、運勢やまじないなどに頼っている人を見て、そうした人を裁いてしまうところがあるのではないでしょうか。
 21節から27節は、ユダヤ人たちが十戒をはじめとする律法を守ることの大切さを主張しながら、律法が本来求めていることを守らず、形骸化した掟を守ることによって、自分の正しさを誇っているという実態が暴き出されています。主イエスは山上の説教の中で、こう教えられました。「昔の人は『殺すな。人を殺した者は裁きを受ける』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。」(マタイ52122)また、「あなたがたも聞いているとおり、『姦淫するな』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである。」(マタイ52728)――ここで主イエスがお示しになっているような律法の受け止め方が、律法が教える本来の内容であるのに、ユダヤ人たちは律法を文字通り守っているかどうかだけで正しさを主張し、自らを誇っていたのであります。これは23節でパウロが言っている通り、律法を誇りとしながら、律法を破って神を侮っている、ことであります。
 25節からは割礼の問題が取り上げられています。「割礼」は男性の生殖器の包皮を切る儀式ですが、その割礼を受けることが、神に選ばれた民のしるしであるとされたのであります。しかし、律法を文字通り守るだけが神様の御心に従うことではないように、肉体的な割礼を受けることだけで、救われるわけではありません。この割礼の儀式自体は私たちキリスト者には関係のないことですが、この割礼に代わるのが洗礼であります。洗礼を受けて、形の上でキリスト者となれば救われるのかと言えば、そうではありません。律法に示された神様の御心を受け止めて、その御心に従っていない自分を知らされて悔い改めるとともに、イエスキリストの十字架の贖いを信じることによって、神様との関係が回復され、新しい生き方を始めること――これが洗礼によって救われることの内実であります。そのような洗礼を受けた者に相応しい生き方をしているかが、絶えず問われなければなりません。

2.神を誇りとする

 ところで、17節に「あなたはユダヤ人と名乗り、律法に頼り、神を誇りとし」とあって、先ほどはここに、ユダヤ人が律法を守っていることにあぐらをかいている過ちが指摘されていることを見たのでありますが、この中に「神を誇りとし」という言葉があります。この言葉について補足をしておきたいと思います。この言葉は、自分たちが神に選ばれた民として律法を持っていることを誇っているユダヤ人の誤った誇りを指摘する言葉と読むことが出来るのですが、神を誇りとすること自体は誤ったことではないどころか、信仰者が抱くべき健全な誇りであります。パウロはコリントの信徒への手紙の中で、こう言っております。「神によってあなたがたはキリスト・イエスに結ばれ、このキリストは、わたしたちにとって神の知恵となり、義と聖と贖いとなられたのです。『誇る者は主を誇れ』と書いてあるとおりになるためです。」(Ⅰコリント13031)「家庭礼拝暦」の98日の奨励では、ちょうど今日の箇所が取り上げられていて、この「誇り」についてこう書かれていました。「ユダヤ人は神を知っていると自負するように、確かに他のどの民族よりも神を知っている民でした。そして彼らはそのことを誇りとしていました。しかし、大事なことは、そのように神を知っている自分を誇ることではなく、神御自身を誇ることです。つまり、神につねに栄光を帰すことです。それは、あらゆるときに神をほめたたえ、神の御心が実現するために仕えることです。」――このように、ユダヤ人は律法を持っていて、割礼を受けていることを、自らの誇りとしていましたが、キリスト者にとって、聖書を知っていることと洗礼を受けたことが、自分の誇りになって、そこに安住してしまっては何もならないのですが、聖書の御言葉に聴き従うことが出来ること、そして洗礼を受けて救いを約束されていることを、自分の功績として誇るのではなくて、そこに神の恵みの豊かさを覚えて神様を誇るときに、神様の御栄光を現わすことが出来る、ということであります。

3.心の割礼

 28節以下には、ユダヤ人が受けている割礼のことに関して、更にこう述べられています。外見上のユダヤ人がユダヤ人ではなく、また、肉に施された外見上の割礼が割礼ではありません。内面がユダヤ人である者こそユダヤ人であり、文字ではなく、“霊”によって心に施された割礼こそ割礼なのです。その誉れは人からではなく、神から来るのです。2829節)
 ここには、外見上の割礼ではなく、内面の割礼、すなわち「心に施された割礼」こそが本物の割礼であると述べられています。ここで「内面」と言われていることは、何を意味するのでしょうか。「内面」とは心の中だけということではありません。単なる気持ちの問題、精神的なことに留まるものではありません。ユダヤ人が選ばれた民であることの目に見えるしるしとして割礼を行うように命じられたことには、選びということが単に心の中の問題ではなくて、神様によって体に刻みつけられたこと、歴史の中に具体的に表わされたことであるという意味が込められています。それは、ユダヤ人と神様との生きた関係が変わらないものであることのしるしであります。29節では、「文字ではなく」とも言われています。ユダヤ人は律法の文字を忠実に守ろうとしました。文字を忠実に守っておれば、即ち、外見上、律法の文字通りの行動をしておれば言い逃れができると思ったのであります。しかるに、神様がお求めになるのは、「文字ではなく、“霊”によって心に施された割礼こそ割礼なのです」と言われているように、「心に施された割礼」なのであります。では、「心に施された割礼」とは、いったい何を意味するのでしょうか。手掛かりになることが申命記10章に書かれています。こう書かれています。「心の包皮を切り捨てよ。二度とかたくなになってはならない。」(申命記1016)申命記というのは、イスラエルの民の出エジプトを導いたモーセが、死を前にして告別説教をしたという形で記されているものです。9章から10章にかけて、出エジプトの道中において、イスラエルの民が神様を信頼せず、如何に頑なであったかが述べられていて、1012節以下に神様が求めておられることを改めて語る中で、「心の包皮を切り捨てよ」と言っているのであります。「心の包皮」とは、荒れ野の旅の厳しい現実の中で、神様がどれほどイスラエルの民を愛し、助け、赦して導いて来られたかを見えなくしている幕のようなものが心を覆っているということでしょう。これを「切り捨てよ」ということは、神様の深い愛と赦しの御心をはっきりと認めよ、ということです。ですから、「心に施された割礼」を受けるというのは、自分たちの頑なさを認めるとともに、そのような自分たちを尚も愛し、関わろうとしてくださる神様の愛の関与を心に受け入れるということでしょう。パウロはそのことを「“霊”によって心に施された割礼」と言っております。心に割礼を受けるのは、自分の反省や決心で出来ることではありません。「“霊”によって」、即ち、聖霊の助けがなくては出来ないことであります。
 ユダヤ人にとっての割礼は、私たちにとっては洗礼であります。洗礼によって私たちに求められることは何でしょうか。それはユダヤ人にとっての「心の包皮を切り捨てる割礼」と同様であります。ユダヤ人と同じように、私たちの心にも包皮が覆っていて、神様が愛と憐みをもって関与してくださっていることが見えなくなっているのであります。ユダヤ人たちは、自分が律法を文字通り守ることで救いを得られると思っていました。私たちも、自分なりに他人から後ろ指を指されない生き方をし、神様のためにもそれなりの役に立つ働きをすることで、神様にも認めていただけると思っている節があります。しかし、神様が求めておられることは、「内面」であり、「心に施された割礼」であります。それは外面のことではありません。しかし、「内面」や「心」と言っても、先にも触れましたように、美しい気持ちとか敬虔な心といったもののことでもありません。要は神様との関係であります。具体的な生活の中において、神様とどのような関係にあるかということです。目に見えないところで、神様とどう向き合っているか、神様の御言葉をどう聴いているかということであります。そして、自分があれこれをしたということでなくて、神様が私にどう向き合っていてくださるのか、どうしてくださっているのかに目を覚ましていること、神様の愛と憐みの御心に向き合っていること、それが私たちにとっての「心に施された割礼」である洗礼の意味であります。そのような心の洗礼は、一回きり受ければ済むものではありません。日ごとに受けるべき聖霊による洗礼であります。それは、ユダヤ人にとっては「“霊”によって心に施される割礼」でありましたが、私たちにとっては、<聖霊によって心に施される洗礼>であります。私たちは、聖霊の助けを受けて、御言葉を受けつつ、心の覆いが解かれて、神様の恵みを知るのです。そして、日々悔い改めて、神様を信頼して御心に従って行く生活を続けることが出来るようにされるのであります。

結.誉れは神から

 最後に29節の終わりの言葉を聞きましょう。その誉れは人からではなく、神から来るのです、とあります。
 人は誰でも「誉れ」を受けたいのであります。殊に、他人からどのように誉められるかがとても気になるのであります。しかし、私たちにとって最も大切なことは、最後の審判の時に、どのような誉れを神様から受けることができるかであります。その誉れは、私たちが善行を積むことによってもたらされるのではありません。律法をよく守ることによってもたらされるのでもありません。もしそうであれば、私たちは終わりの日に決して誉れを受けることは出来ません。しかし、ここに述べられているように、誉れは人からではなく、神から来るのです。神様が罪深い私たちの上にも、誉れを与えようとして、イエス・キリストを遣わしてくださり、罪の問題の解決の道を備えてくださいました。ですから、私たちはこの主イエスを信じ、神の赦しに身を委ねることによって、終わりの日に神様から誉れを受けることが出来るのであります。 祈りましょう。

祈  り

救い主イエス・キリストの父なる神様!
 あなたはユダヤ人との長い関わりの歴史を通して、またイエス・キリストによる罪からの救いの御業を通して、私たちに対する深い愛と憐みの御心をお示しくださいましたことを改めて感謝申し上げます。
 私たちはなお、律法で示されたあなたの御心を行うことが出来ず、また、キリストの十字架によって示されたあなたの大きな赦しの御心にも拘わらず、何とか自分で神様と人から誉れを得ようとする愚かを繰り返しております。どうか、あなたの御言葉に謙遜に耳を傾け、そこに示された御心を信頼し、従って行く者とならせてください。
 主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

主日礼拝説教<全原稿> 2015年9月27日  山本 清牧師 

 聖  書:ローマの信徒への手紙2:17-29
 説教題:「
心に施された割礼」         説教リストに戻る