イエスは言われた。「やめさせてはならない。私の名を使って奇跡を行い、そのすぐ後で、わたしの悪口は言えまい。わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方なのである。」 
               (マルコによる福音書
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 主イエスの名前を使って悪霊を追い出している者を見つけた弟子たちは、やめさせようとした。弟子たちは主イエスから悪霊を追い出す権能を授かっている(67)と自負していたので、自分たちに従わせようとしたのである。ところが、このことを少々誇らしげに主イエスに報告すると、標記のような思いがけない言葉が帰って来た。当時は有名な人の名前を使ってまじないや祈祷を行うことがなされていたようだが、名前とはその人の実体と人格を表わすと考えられていたから、主イエスの名前が安易に使われては決して伝道にはならないと考えたのは間違いではない。それなのに主イエスはなぜ「やめさせてはならない」と言われたのであろうか。ここで考えなければならないことは、弟子たちや私たちが主イエスの名に対して、どれほど深い信頼をもって従っているだろうかということである。弟子たちは、やがて主イエスの名を否定して裏切ってしまうことになる。「やめさせてはならない」との主イエスの言葉には、主に従いきれない弟子たちや私たちに対する赦しの御心が込められているのではないか。
 主イエスは「わたしに逆らわない者は、わたしの味方なのである」とも言われた。主に逆らいがちな私たちをも赦して、味方に加え、弟子としての働きを続けさせようとなさる招きの言葉である。
 主イエスは更に、「はっきり言っておく。キリストの弟子だという理由で、あなたがたに一杯の水を飲ませてくれる者は、必ずその報いを受ける」と語られた。これは、やがて初代教会に対して起こる迫害の時代を見越したかのような言葉である。厳しい状況の中で主イエスの名を語る弟子たちに、一杯の水を提供する者がいることは、天上の大きな喜びにつながり、主の栄光を現わすことになるのだ。
 もちろん、主イエスの名と私たちの関係が中途半端でよいということではない。黙示録にも「冷たいか熱いか、どちらかであってほしい。熱くも冷たくもなく、なまぬるいので、わたしはあなたを口から吐き出そうとしている」(黙示録316)とある。しかし、私たちが人を裁くことにおいては、生ぬるくてよいのである。主の赦しの恵みを忘れて、人を裁いたのでは、かえって天上の喜びにふさわしくない。弟子たちはやがて、主の十字架の経験を通して赦しの恵みの大きさを知ることになる。そして、人々を赦しの喜びに招き入れる働きをすることになる。それと同じことを、主は私たちにも起こされない筈はない。

主日礼拝説教<要 旨> 2015年9月20日  山本 清牧師 

 聖  書:マルコによる福音書9:38-41
 説教題:「
イエスの名のために」 説教リストに戻る