序. 「わたしの名のために」とは

 今日与えられていますマルコ福音書38節から41節までの中に、「名前」または「名」という言葉が3回出て来ます。38節の中に「お名前を使って」という言葉があり、39節にも、「わたしのを使って」という言葉があって、もう1回はこの新共同訳では分かりませんが、41節の「キリストの弟子だという理由で」と訳されているところの原文では「キリストのものだというのゆえに」となっていて、「名」という言葉が入っているのであります。
 「名」というのは、『広辞苑』を見ると、「その人や事物を、他の人や事物と区別するためにつける呼び方」とか「評判」、「名目」というように書かれていて、「名」と「実質」は必ずしも一致していないという見方を反映しているように思われますが、聖書の世界においては、「名」はそのものの実体と人格を表わすものとされています。従って、誰かの名によって語ったり、行動を起こす場合には、その名を持っている人の代理人となることを意味して、その名の人の権威を行使することを表わしました。ですから、神様の名によって語るとか、主イエスの名によって行うということは、神様や主イエス御自身が言ったこと、なさっていることになります。このことは、十戒の第3戒で、「あなたの神、主の名をみだりにとなえてはならない」とされていることとにも通じるのであります。
 さて、今日の箇所では、誰かが主イエスの名前を使って悪霊を追い出していたことを、弟子のヨハネが問題にして、主イエスに訴えております。舞台はおそらく、すぐ前の記事と同じく、カファルナウムのペトロの家ではないかと考えられます。すぐ前の37節では、主イエスが子供を抱き上げて、「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである」とおっしゃいました。ここにも「わたしの名のために」という言葉があります。主イエスの名のために子供を受け入れるということは、主イエスを受け入れることになる、と言われたのです。弟子たちは、だれがいちばん偉いか、誰がいちばん弟子か、ということで議論をしていたのでありますが、それに対して主イエスは、子供のように何の力も持っていない者を受け入れることが、私を受け入れることになることを教えられたのでありました。つまり、主イエスは何の力も持たない子供のような者を御自分と同一視されているということであります。ということは、偉くなることを目指すのではなくて、何の力もない子供のようにならなければ、主イエスのいちばん弟子になれないということであります。
 この弟子たちと主イエスとのやり取りの中で、「わたしの名のために」という言葉は必ずしも目立ちませんが、今日の箇所はおそらく、この言葉を受けて、「わたしの名のために」ということがどういうことなのかを示す教えとして、ここに記されたのではないかと思われます。

1.わたしたちに従わないので

 今日の箇所では、弟子の中で一番若くて、主の愛弟子(まなでし)とされているヨハネが、主イエスに一つの出来事の報告をいたしました。こう言っております。「先生、お名前を使って悪霊を追い出している者を見ましたが、私たちに従わないので、やめさせようとしました。」(38)このヨハネの言い方は、少々得意気であります。すぐ前では、「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる」ことが、弟子たる者がしなければならないことだと教えられました。ところが、ヨハネが目にしたのは、主イエスの名前を使って悪霊を追い出している姿であります。これは間違っていると思って、やめさせたと言うのです。
 当時、悪霊を追い出すというようなことは、主イエスだけでなく、まじない師や祈祷師のような人も行なっていたようであります。その時に、有名な人物の名前を使って行なうことがあったようで、主イエスは現に悪霊を追い出す業もしておられたので、効き目がある名前として用いていたのでしょう。そういう様子を目撃した弟子たちが、主イエスの名前を無断で使うのはけしからんと思って、「主イエスの名前を勝手に使うな。もし使うのであれば、私たちに従ってもらいたい」というようなことを言ったのでしょう。弟子たちは、以前に、「汚れた霊を追い出す権限」を与えられていました。ところが思うように追い出せなくて、人々から抗議を受けたこともありました。しかし、主イエスの名前を使うのは自分たちだけに与えられている特権だと思っていたのでしょう。そこで、自分たちに従うように命じました。「弟子の仲間に入るなら、主イエスの名前を使うのを認めてやろう」ということです。これは、考えようによっては、彼らを教会の信仰へと導き入れようとしたとも言えることであります。しかし彼らは、弟子たちの言うことを聞きませんでした。それで、「従わないので、やめさせようとしました」と報告しております。自分たちに従わないのならやめろ、と言ったのだけれども、結局、彼らはやめなかったのでしょう。けれどもここでヨハネは、自分たちがやめさせられなかったことを、あまり恥ずかしいこと、あるいは残念なこととは思っていないようです。むしろ、彼らを自分たちに従わせようとしたことを誇らしげに報告しているのであります。「わたしたちなら、主イエスのお名前を自分の利益につながるような使い方はしません。だけど、あの悪霊を追い出している者は、自分たちの名誉と利益のために、主イエスのお名前を勝手に使っているのです」と言って、彼らを批難することによって、自分たちこそ、主イエスをよく理解し、主の名前を大事にしている、まともな弟子であることを認めてもらおうとしているのであります。この報告に対して、ヨハネが期待した主イエスのお言葉は、「そのとおりだ。悪霊を追い出している者のやっていることは間違っている。お前たちの力でやめさせられないなら、私がやめさせよう」と言ってくださることだったのではないでしょうか。――ところが、主イエスから帰って来た言葉は、思いがけないものでありました。

2.「やめさせてはならない」

 39節にあるように、主イエスはこう言われました。「やめさせてはならない。わたしの名を使って奇跡を行い、そのすぐ後で、わたしの悪口は言えまい。わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方なのである。」――主イエスは「やめさせてはならない」と言われました。ヨハネにとっては期待外れのお言葉です。なぜ、いい加減に主イエスのお名前を使うことを放置しておいてよいのでしょうか。

主イエスは続けて、その理由を語っておられます。「わたしの名を使って奇跡を行い、そのすぐ後で、わたしの悪口は言えまい。」――確かにそうでしょう。主イエスの名前を使って悪霊を追い出すまじないのようなことをした人が、すぐに主イエスの悪口を言い出すことはないでしょう。でも、そんないい加減なことでよいのでしょうか。伝道というのは、主イエスのことを正しく伝えるのでなければならないのではないでしょうか。名前が使われているだけでは伝道になんかならないのではないかと思ってしまいます。――しかし、そのように考える私たちが、主イエスのお名前をどれほど大切に思っているのでしょうか。自分の幸せとか心の平安といった御利益だけを求めて教会にやって来るけれども、キリストに仕えるという姿勢のないような人を、私たちは<本当の信仰が分かっていない>と批判いたします。しかし、私たち自身が主イエスに対して、どれほど深い信頼の心をもって、主イエスのお名前を使い、主イエスにお仕えしているでしょうか。何かちょっと自分に都合が悪くなると、主イエスのお名前を疎かにしてしまって、自分の名前に傷がつくことを恐れてしまうのではないでしょうか。このヨハネをはじめ、ペトロや他の弟子たちにしても、やがて主イエスが捕われると、主イエスの御名前と自分が結び付けられることを恐れて、逃げ去ってしまうのであります。そんな弟子たちのことも主イエスは見通しながら、わたしの悪口を言わないだけでもよいではないか、とおっしゃるのであります。ここには、やがて主イエスを裏切ってしまうことになる弟子たちへの深い配慮が込められていることを読み取ることが出来るのではないでしょうか。ヨハネたちは、まじない師たちが主イエスのお名前を使って悪霊を追い出すのであれば、その前に自分たちに従うように言いました。もしそれと同じような規準で主イエスが弟子たちに従うことを求められるのであれば、「だれがいちばん偉いか」などと、自分たちの名が高められることだけを望んでいて、十字架の主イエスには従いきれなかった彼らが、再び弟子とされることはなかった筈であります。「やめさせてはならない」との主イエスのお言葉は、主イエスに従いきれない弟子たちや私たちに対する、赦しの御心が込められたお言葉ではないでしょうか。

3.逆らわない者

 主イエスは更に、「わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方なのである」ともおっしゃいました。「味方」というのは、困った時、危ない時に一緒に戦ってくれる者のことでありますが、ここでは「わたしたちに逆らわない者は、わたしの味方なのである」と言っておられます。これも弟子たちにとって、また私たちにとって、有難いお言葉であります。弟子たちは捕えられた主イエスに最後まで従うことは出来ず、逃げてしまいました。それでもペトロは主イエスがどうなるのか心配で、大祭司の屋敷の中庭にまで入って様子を伺っていると、居合わせた人々に「確かに、お前はあの連中の仲間だ」と言われて、ペトロは呪いの言葉さえ口にしながら、「あなたがたの言っているそんな人は知らない」と誓い始めた(マルコ1471)のでありました。自分たちこそ主イエスの名を使う資格があると思っていた弟子たちでしたが、しばらく経つと、主イエスへの呪いの言葉さえ口にするようになってしまったのであります。ペトロは主イエスの味方になることが出来なかったばかりか、仲間であることも否定しました。しかし、主イエスに逆らうことまではしなかったと言えるのでしょうか。このように主人に最後まで従うことが出来なかった者は、もはや味方とは言えず、弟子としての資格がないと考えるのが普通ではないでしょうか。けれども、主イエスはここで、「わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方である」と言われます。復活後、ペトロやヨハネをもう一度弟子にされたのであります。そこに主イエスの赦しがあります。
 私たちもまた、これまでに何度も主イエスに逆らって来たのではないでしょうか。自分の思い通りにならないと、主イエスは何を考えておられるのかと文句を言い、うまく事が運んだ時には、主イエスの御名を称えるよりは、自分の力を誇らしく思ったりします。確かに、表だって主イエスに敵対はしていないかもしれないけれども、主イエスを(ないがし)ろにすることによって、主イエスの思いに逆らって来たのではないでしょうか。そんな私たちですから、「わたしに逆らわない者は、わたしの味方である」という言葉を聞くと、自分は逆らうことが多ので、主イエスの味方にはしてもらえないのかと、ギクッとせざるをません。しかし、主イエスはそんな私たちの方にも顔を向けて、微笑みながら、「わたしに逆らわない者は、わたしの味方なのである」と言ってくださるのではないでしょうか。この主イエスの御言葉は、逆らいがちな私たちをも赦して味方に加えようとなさる、招きの言葉なのではないでしょうか。

結.イエスの名のゆえに

 最後に41節で主イエスはこう言っておられます。「はっきり言っておく。キリストの弟子だという理由で、あなたがたに一杯の水を飲ませてくれる者は、必ずその報いを受ける。」
 この中の「キリストの弟子だという理由で」と訳されている部分を直訳しますと、「あなたがたがキリストのものだという名のもとにおいて」となります。ここにも、「名」という言葉が登場しているのです。聖書が書かれた時代にはキリスト教に対する迫害が強まりつつありました。キリストの信者だというだけで、ひどい迫害を受けるという状況がありました。そうした中で、キリストのものだという名のもとに、つまり主イエスを信じている仲間だというだけで、一杯の水を飲ませてくれるということは、とても大きな喜びであったに違いありません。そこには、天国の喜びを前もって味わうことが出来るような喜びがあった筈であります。たった一杯の水を提供するということは、ほんの小さな善意の表れに過ぎませんが、水を提供した人の中でキリストの名が受け入れられたことに対する大きな喜びが天にあるということであります。ヨハネは主イエスの名を使って悪霊を追い出していることを批判の目で見ておりました。そして人を裁いておりました。しかし、そこに主イエスの名が語られているということで、天上の大きな喜びにつながり、主の栄光を現わすことになる、と主イエスは言っておられるのであります。
 もちろん、主イエスとの関係において、私たちが中途半端であってもよいということではありません。ヨハネ黙示録の中には、「あなたは、冷たくもなく熱くもない。むしろ、冷たいか熱いか、どちらかであってほしい。熱くも冷たくもなく、なまぬるいので、わたしはあなたを口から吐き出そうとしている」(ヨハネ黙示録316)という神の声が伝えられています。確かに、信仰者として私たちの態度が生ぬるいことはよくありません。しかし、私たちが人を裁くことにおいては、生ぬるくてよいのであります。主の恵みの赦しを忘れて、人を裁いては、反って、天上の喜びに相応しくないことをしてしまうからであります。ヨハネをはじめ弟子たちは、やがて、主の十字架の経験を通して、赦しの恵みの大きさを知ることになりました。そして、人々を赦しの喜びに招き入れる働きをすることになります。それと同じことを、主は私たちにも起こされない筈はありません。
 祈りましょう。

祈  り

憐れみ深いイエス・キリストの父なる神様!
 人々の過ちや不信仰を批判すること多く、主の赦しの恵みを忘れている者であることを覚えます。そのような者をも赦して、恵みの御言葉に与らせてくださったことを感謝いたします。
 どうか、あなたとの接点を求めて教会にやって来る人たちに、主イエスならどのように対応されるであろうかということを思いながら、暖かく接することが出来るようにしてください。どうか、私たちの思い上がりを戒め、その罪をお赦しください。
 主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

主日礼拝説教<全原稿> 2015年9月20日  山本 清牧師 

 聖  書:マルコによる福音書9:38-41
 説教題:「
イエスの名のために」         説教リストに戻る