イエスが座り、十二人を呼び寄せて言われた。「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。」                 (マルコによる福音書935

 マルコ福音書は、十字架に向かって歩まれる主イエスについて無理解であった弟子たちの姿を描き続けている。主イエスと弟子たちの一行は、フィリポ・カイサリアの地方を去って、ガリラヤを通って行かれたのだが、そこでは「イエスは人に気づかれるのを好まれなかった。」それは、人々に話したり、癒しの業を行うよりも、弟子たちの教育に集中しようとされたからである。
 ここで主イエスは弟子たちに御自分の死と復活について、二回目の予告をされたが、弟子たちは、一回目の時のようにトンチンカンなことを言ったら叱られるのではないか、また、本当に主が人々によって殺されるのであれば自分たちはどうなるだろうかと考えて、怖くて、それ以上はお尋ねすることが出来なかった。
 一行が、伝道の拠点としていたカファルナウムの家に着くと、主イエスは弟子たちに、「途中で何を議論していたのか」とお尋ねになった。それは彼らが、だれがいちばん偉いかと議論し合っていたこと気づかれたからである。彼らは、主イエスの御受難の意味を理解せず、主に危機が及んだ時に、誰が大きな手柄を立て得るのかというような愚かな議論をしていたのであろう。そこで主は、標記のように語られた。主イエスは弟子たちのこの世的な考えとは異なる神の国の秩序を教えられる。主によって、新しい秩序が始まるのである。これは、私たちが互いに仕え合うことによって、良い社会が形成されるというような教えではない。主イエスが御自身の死と復活によって、新しい秩序を持ち込まれ、その秩序に従うことによって、私たちも神の国の一員になれるということである。
 このあと、主イエスは一人の子供を抱き上げて、「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしではなくて、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである」(3637)と言われた。ここでは、弱い存在である子供を御自分と同一視されている。これは、弱い者を慈しむというヒューマニズムの教えではない。これは神の国における人間関係を語っておられるのだ。これは、この世の価値観とは真逆の人間関係である。教会はこの世にありつつも、この新しい価値観によって動く神の国の一部なのである。主イエスは、このような新しい世界に弟子たちや私たちを招き入れようとしておられるのである。

主日礼拝説教<要 旨> 2015年9月6日  山本 清牧師 

 聖  書:マルコによる福音書9:30-37
 説教題:「
いちばん偉い者とは」 説教リストに戻る