序. 主イエスの弟子とは

 マルコによる福音書の8章から10章までは、<主イエスに対して弟子たちが無理解であった姿が描かれている>ということでは、研究者の見解が一致しているところであります。もちろん、福音書の主題は<主イエスとは誰なのか>ということを伝えることでありますが、そのことを語ろうとする時に、弟子たちが主イエスを正しく理解していなかったことを通して、真の主イエスの御姿を浮かび上がらせようとするのであります。というよりも、福音書の記者に主イエスに関する情報を提供した主な人たちと言えば主イエスの弟子たちですから、彼らが弟子として、主イエスの御姿をはっきりとは捉えていなくて、主イエスの十字架と復活の出来事を通して、はじめて主イエスが誰であるかが本当に分かって、かつての無理解であった自分たちの姿をありのままに伝えることによって、主イエスが誰であるかということを知らせようとしているのが福音書だと言えるのであります。そして、その無理解な弟子たちの姿というのは、後に主イエスのことを知らされることになる教会の人々の姿とも重なるのであります。つまり、私たちが主イエスに対して無理解であることに通じるのであります。
 私たちはこうして、教会に来て礼拝に出ています。そして聖書の御言葉を聴いております。これは何のためでしょうか。――教養を身に着けるためでしょうか。立派な人間になるためでしょうか。悩みや苦しみがある中で、そこから何とか脱出するためでしょうか。信仰の仲間たちとの親しい交わりを楽しむためでしょうか。――そういうことがないわけではありませんし、全く間違っているということではありませんが、それらはあくまでも派生的なことであります。私たちが教会に来て礼拝するのは、主イエス・キリストに出会うためであり、主イエスの弟子となるためであります。自分なんかそんな資格はありません、とか、そこまでは考えておりませんと言う人がいるかもしれませんが、もし主イエスの弟子にならないのであれば、教会の礼拝に来る本来の目的に適っていないということになりますし、せっかく得られる筈の恵みを受けることにならないということになります。更に言うならば、なぜ教会に喜んでせっせとやって来ないのか、なぜ信仰を告白して洗礼を受けるに至らないのかと言えば、様々な事情が妨げているということもあるかもしれませんが、根本的には、主イエスがどなたであるのか、主イエスの弟子になるということがどのようなことなのかということについて無理解であるからではないでしょうか。
 実は、主イエスの弟子たちも、この福音書の8章から10章の間では、主イエスの弟子でありながらも、主イエスのことをまだよく理解しておらず、弟子であることの恵みをまだよく受け止めることが出来ないでいたのであります。そんな弟子たちと主イエスの様子、そして主イエスが弟子たちに語られたことを通して、主イエスの弟子とは何か、どうあることが弟子に相応しいのか、そして、主イエスの弟子になることにどれほど大きな恵みがあり、喜びがあるのかということを、今日の箇所からも聴き取りたいと思うのであります。そして、主イエスの弟子としての道、生き方をもう一度新しく歩み始める者とされたいと思うのであります。

1.ガリラヤを通って行った

 さて、今日の箇所の最初の30節にはこう書かれています。一行はそこを去って、ガリラヤを通って行った。しかし、イエスは人に気づかれるのを好まれなかった。――「そこを去って」とある「そこ」というのは、山上の変貌の出来事があった山の麓、フィリポ・カイサリア地方と考えられますが、そこを去って、これまでの伝道活動の中心地であったガリラヤを通って行った、と記すのであります。つまり、ガリラヤが今や目的地ではなくなったということが読み取れるのであります。これまで主イエスはガリラヤ地方で主に活動して来られたので、主イエスの働きを知っている人たちが多くいます。そして、大勢の群衆が主イエスの話を聞こう、癒しの奇跡をしていただこうと待ち構えていた筈であります。そんなガリラヤを通り過ぎて行かれたのでありますが、「人に気づかれるのを好まれなかった」のであります。なぜでしょうか。その理由が31節に述べられています。この新共同訳では、「それは弟子たちに、『・・』と言っておられたからである」となっていますが、原文では「それは、弟子たちに教えて、『人の子は、人々の手に引き渡され、殺される。殺されて三日の後に復活する』と言っておられたからである」となっていて、「教えて」という言葉がはっきりと入っているのです。つまり、受難を前にして、無理解な弟子たちに受難のことをしっかりと教えることが必要で、そのためにはガリラヤで人々の要求に応えておれないので、人に気づかれるのを好まれなかった、ということなのであります。事実、このあと11章までの間では、奇跡の業としては盲人のバルティマイの目を見えるようにされたことが記されるだけなのであります。

2.人々の手に引き渡され

 931節の「(カギ)」の中の言葉は、831節にあった第一回の「死と復活の予告」とあまり変わりませんが、一つ違うのは、「引き渡され」という言葉が使われていることです。この言葉についてはこれまでにも何度かお話ししていますが、「裏切られる」とも訳される言葉で、イスカリオテのユダが裏切ったところでも使われるのですが、ローマの信徒への手紙の中では、「イエスは、わたしたちの罪のために死に渡され」(ローマ425)とか、「わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方」(ローマ832)と記されていて、引き渡す主体は神様なのであります。先ほど旧約聖書の朗読で読んでいただいたイザヤ書53章では、苦難の僕のことが預言されていましたが、その中の8節でも、「捕えられ、裁きを受けて、彼は命を取られた。彼の時代の誰が思い巡らしたであろうか。わたしの民の背きのゆえに、彼が神の手にかかり、命ある者の地から断たれたことを」と述べられていて、「神の手に」かかられることが述べられていたのであります。このイザヤの言葉は弟子たちも知っていたはずで、そのことがこれから起こるのだということを、何としても弟子たちに教えなければならないと、主イエスは考えておられたのであります。

3.怖くて尋ねられない

 ところが弟子たちはどうでしょうか。32節にはこう書かれています。弟子たちはこの言葉が分からなかったが、怖くて尋ねられなかった。――主イエスが御自分の死と復活のことを最初に予告された時にも、ペトロは理解出来ずに、主イエスをいさめ始めたので、主イエスから「サタン、引き下がれ」という厳しいお叱りを受けてしまいました。そのあと、主イエスは「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」というお言葉などもいただいていたのですが、主イエスの十字架との関係をまだ理解出来ていなかったのであります。ですから、また主イエスのお言葉の意味についてお尋ねしたら御機嫌を損ねるのではないかと怖れたのでしょうし、もし、主イエスがおっしゃるように、本当に主イエスが殺されるような事態になることがはっきりするならば、自分たちがどうなることかということが怖くて、お尋ねできなかったのかもしれません。
 しかし、この怖れは私たちの中にもあるのではないでしょうか。十字架は決して美しいものではありません。恥に満ちたものであります。十字架上の主イエスは、人々から「他人を救ったのに、自分は救えない。今すぐ十字架を降りるがいい。それを見たら、信じてやろう」と言われて侮辱されました。この主イエスの弟子であるということは、同じ種類の侮辱を覚悟しなければならない、ということであります。<主イエスを信じて、どんな利益があるの、本当に救いがあるの>という問いを受けなければなりません。また、主イエスは、「自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」とおっしゃいました。今は、目に見える迫害はないかもしれませんが、ある種の軽蔑的な目で見られることがあるかもしれませんし、自分の好きなことや楽しみを控えなければならないことは当然あるでしょう。自分中心の自由な生活を制約されるという怖れを感じるかもしれません。

4.いちばん偉い者とは――「仕える者になりなさい」

このような、主イエスの弟子であることに対する怖れの裏返しが、次の3334節に書かれている弟子たちの議論につながっています。
 一行は、ガリラヤ地方のカファルナウムにやって来ました。そこには恐らくペトロの家があり、これまではそこを拠点に伝道をしてきたのではないかと考えられています。ここにはペトロのしゅうとめがいて、かつて熱病に罹ったことがあって、主イエスが彼女の手を取って起こされると、熱が去ったという出来事がありました(マルコ13031)。ファウスティというカトリックの司祭は、そのことと、今回の34節にある、弟子たちが途中で誰がいちばん偉いかと議論し合っていたこととを懸けて、「今度は、違う種類の熱病だ。もっと深刻で、あらゆる人に感染して死に至らせる疫病である」と言っております。〈自分がいちばん偉いと認められたい〉という熱病であります。主イエスは弟子たちが罹っているこの熱病に気づかれたのでしょう。「途中で何を議論していたのか」とお尋ねになると、彼らは黙っていました。黙っていたということは、はしたない議論をしていたということに気づいたのかもしれませんが、そういう議論は熱病のようなものだとまでは気づいていなかったかもしれません。十字架の死が予告されたすぐ後で、「だれがいちばん偉いかと議論する」ということは、主イエスのおっしゃっていることが現実のこととして受けとめられていないということかもしれませんし、状況からして、主が殺されることになるかもしれないということは、さすがの弟子たちでも感じていたかもしれませんが、そのような中でも、主イエスの御受難の意味には考えが及ばず、危機の中で誰が大きな手柄を立て得るかというようなことを考えていたのかもしれません。――こういう愚かしい議論や思いは、弟子たちだけでなく、教会の中にさえあり得ます。教会が苦しい状況にあるときに、誰がよく頑張れるであろうとか、誰がよく奉仕できるだろうと考えて、優劣をつけてみたり、競争してみたりということが、起こりかねないのであります。しかし、ここで弟子たちは黙っていましたが、主イエスは彼らの議論の中身を察知しておられたように、私たちのはしたない思いや議論のことも見通しておられるのではないでしょうか。そのことを私たちは、恥じ入らなければなりません。
 さて、弟子たちの議論を察知された主イエスは、改めて十二人を呼び寄せて言われました。「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。」(35)
 「いちばん先になる」とは、いちばん大きい力を持ち、他の人々を支配することができる、ということです。弟子たちも、私たちも、あからさまに公言するかどうかは別として、そのような「いちばん先になる」ことを望んでいるのであります。そしてそれが、この世の中の当然の秩序のように考えられています。しかし、主イエスはこの秩序を逆転されます。<神の国の秩序は逆である、その神の国の秩序に適合する者になりなさい>、と言われるのであります。これは、へりくだっておれば、尊敬されるようになるといった<謙遜の効用>や<謙譲の美徳>を教えておられるのではありません。主イエスが来られたことによって新しい秩序が始まっている、という宣言であります。主イエス御自身がこの新しい秩序に従った生き方を始められたことによって、大きな転換が始まっている、だから、その新しい秩序にお前たちも従え、と言っておられるのであります。「すべての人の後になり、すべての人に仕える者になる」ことが勧められているのは、それが主イエスによって始められているからであります。私たちが謙遜を積めば、神の国が出来上がるのではありません。私たちが人に仕えておれば、良い社会になるということではありません。主イエスによってこの世に持ち込まれたこの新しい秩序に従うことによって、私たちも神の国の一員とならせていただけるのであります。

5.子どもを受け入れる

 このあと、36節以下によれば、主イエスは一人の子供の手を取って彼らの真ん中に立たせ、抱き上げておっしゃいました。「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしではなくて、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。」
 主イエスは子供を抱き上げて、弟子たちを子供に注目させられます。「子供」とは、弱い存在であります。独り立ち出来ず、他の人から助けられなければ生きられません。また、子供自身は自分だけでは生きられないことを知っています。この「子供」で何を表わそうとしておられるのでしょうか。一つは、子供を御自身と同一視されているのではないでしょうか。十字架に架けられ殺されるような、弱い存在の御自分を「子供」で表わしておられることが考えられます。もう一つは社会の中の、或いは主に従う群れの中の弱い者を「子供」で表わしているとも考えられます。両方の意味が込められていると受け取った方がよいかもしれません。主イエスは弱い存在を御自分と同一視されているのであります。そして、そのような子供を「わたしの名のために受け入れる者は、わたしを受け入れるのである」と言われます。「わたしの名のために」とは、「主イエスというお方だからこそ」という意味と、「主イエスの名に免じて」あるいは「主イエスとの特別な関係のゆえに」という意味があります。十字架に架けられ、殺されるお方であるけれども、そのような主イエスだからこそ受け入れる、あるいは、その主イエスが愛し、受け入れ、大切にされるという主イエスとの特別な関係にある者だという理由で受け入れる者は、私自身を受け入れていることになる、とおっしゃるのであります。これは、弱い者をも慈しむという単なるヒューマニズムとは違います。主イエスがその人たちを愛し、その人たちのために命をかけられたからこそ、その人たちを受け入れるのであります。これが神の国における人間関係であります。これは、「だれがいちばん偉いか」と議論していた弟子たちの価値観とは真逆の人間関係であり、全く違う価値観の世界、主イエスの十字架と復活によって創り出された新しい世界であります。主イエスは弟子たちをこの新しい価値観の世界に招き入れようとされていますし、今、私たちをもその世界、即ち神の国に招き入れようとしておられるのであります。教会は、この世にありつつも、この新しい価値観によって動く世界の一部であります。「だれがいちばん偉いか」という世界ではなく、「子供」のような者が受け入れられるところであります。

結.受け入れてくださる神

 最後に主イエスは、37節の後半でこう言っておられます。「わたしを受け入れる者は、わたしではなくて、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。」――十字架の主イエスを受け入れる者は、主イエスをお遣わしになった父なる神様を受け入れることになる、とおっしゃいます。これは、私たちが主イエスを受け入れるかどうかが神様によって評価されるような言い方ですが、実は、主イエスが私たちのような罪の世界に生きている者をも赦して受け入れてくださり、そのようにして主イエスが受け入れてくださった者を神様が受け入れてくださるという約束の言葉であります。私たちはこの主イエスの招きの言葉に、あの弟子たちと共に応えて行く者とされ、新しい価値観の神の国に生きる者とされたいと思います。
 祈りましょう。

祈  り

イエス・キリストの父なる神様!
 御言葉によって、主イエスの弟子たちを通して、私たちの愚かさ、過ちをお示しくださいましたことを感謝いたします。
 私たちは自分の偉さを計り、他人と比較して偉さを競う愚かを繰り返しておりますが、どうかそのような愚かさから解放されますように。どうか、十字架の愚かさをもって私たちを引き上げようとしてくださる主イエスにつき従って行く者とさせてください。
 どうか、私たちの周りにいます弱さを持っている方々に、主イエスの御名の故に寄り添うことが出来ますように。どうか主イエスの贖いの故に、共に神の国に導き入れられますようにしてください。
 主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

主日礼拝説教<全原稿> 2015年9月6日  山本 清牧師 

 聖  書:マルコによる福音書9:30-37
 説教題:「
いちばん偉い者とは」         説教リストに戻る