わたしはあなたを僕として/ヤコブの諸部族を立ち上がらせ/イスラエルの残りの者を連れ帰らせる。だがそれにもまして/わたしはあなたを国々の光とし/わたしの救いを地の果てまで、もたらす者とする。
                                   (イザヤ書496 
 標記は、「主の僕の(うた)と呼ばれているものの一つの一節である。「主の僕」とは、特定の個人を指すのか、イスラエルの民のような集団を指すのか、二つの見方が出来るが、どちらかに限定する必要はなく、歴史的には、イスラエルを捕囚から解放した「キュロス王」または「イスラエルの民」を表わしつつ、終末的には「イエス・キリスト」と新しい民である「教会」を指し示していると受け取ることが出来る。
 ここで「主の僕」について言われていることの第一は、「母の胎にあるわたしを呼び、母の腹にあるわたしの名を呼ばれた(1)、「母の胎にあったわたしを、御自分の僕として形づくられた(5)とあるように、主の僕は生まれる前から神の御計画によって使命を与えられていたということである。
 「主の僕」について言われていることの第二は、「島々よ、・・・遠い国々よ(1)と呼びかけ、「わたしはあなたを国々の光とし、わたしの救いを地の果てまで、もたらす者とする(6)と言われているように、救いをイスラエルの民や教会の中だけでなく、広く異邦人や、まだ神との関係が築かれていない人たちをも主の僕に加えるという使命を与えられているということである。その使命をどのような手段で果たすかと言えば、「わたしの口を鋭い剣として(2)とあるように、神の言葉が主の僕の口を通して語られるという形で実現するのである。
 なお、この「主の僕」について、「わたしはいたずらに骨折り、うつろに、空しく、力を使い果たした(4)と述べられている。これは、捕囚から解放後のイスラエルの状況や、現代の教会の状態を暗示していると見ることもできるが、「わたしを裁いてくださるのは主であり、働きに報いてくださるのはわたしの神である(4)と述べられていることから、十字架のイエス・キリストの姿を見ることが出来る。神は「わたしの恵みの時にあなたに答え、救いの日にあなたを助けた。わたしはあなたを形づくり、あなたを立てて、民の契約とし、国を再興して、荒廃した嗣業の地を継がせる(8)と言われた。これは捕囚から解放されたイスラエルに対する励ましの言葉であると共に、先が見えない状況の中にある教会に勝利を約束する言葉でもあるのではないか。

主日礼拝説教<要 旨> 2015年8月30日  山本 清牧師 

 聖  書:イザヤ書49:1-9 
 説教題:「
救いを地の果てまで」 説教リストに戻る