序. 主の僕とされて

 今日は、イザヤ書49章の1節から9節までの御言葉が与えられております。このうち、1節から6節までは「主の僕の(うた)」と呼ばれています。イザヤ書の中には「主の僕の詩」と呼ばれるものが4つありますが、その最初のものは42章にあって、ちょうど1年前に聞いたのでありますが、今日のものは、それに続く第2番目のものです。書かれた年代は、ペルシャ王キュロスによってバビロン捕囚から解放された後ではないかと考えられています。
 「主の僕」というのが誰を指しているのかということについては、昨年に42章を学んだ時にも申しましたが、色々な見方があるのですが、特定の個人を指すという見方と、一つの集団を指すという見方があって、個人説には、アブラハムのことだとか、モーセのことだとかいうものから始まって、このイザヤ書のこの部分を書いた第二イザヤ自身のことではないかとか、捕囚後の無名の律法学者ではないか、といった説があるほか、イスラエルをバビロンから解放したキュロス王のことではないかといった説まであります。一方、集団説というのは、イスラエルの民のことを指すとするものです。そのほかに、旧約聖書の中には、やがて救い主が来られるという、メシア待望の思想があって、イザヤ書ではそのメシアが苦難を負われるという思想が出て来るのですが、そのメシアが「主の僕」のことではないかという考え方も出て来るのであります。新約聖書の時代になると、この「主の僕」こそ、イエス・キリストのことを預言していたと受け取られるようになるのであります。たとえば、今日の箇所の8節に、「主はこう言われる。わたしは恵みの時にあなたに答え、救いの日にあなたを助けた」という言葉がありますが、新約聖書のコリントの信徒への手紙では、この箇所を引用しながら、「今や、恵みの時、今こそ、救いの日」(Ⅱコリント62)と述べられていて、イザヤ書の預言がイエス・キリストによって成就したと受け取っているのであります。ですから、今日の箇所の「主の僕」というのは主イエス・キリストのことを表わしていると受け取る読み方は出来るし、大事な読み方なのですが、同時に、今日の箇所の中でも「イスラエル」という言葉が、3節、5節、6節、7節にありますように、集団としてのイスラエルの民のことを表わしていると読むことは自然でありますし、そのイスラエルの民に代わる神の民としての「教会」のこととして聴き取ることも大事なことであります。教会はキリストの体であると言われます。教会は主の僕であるキリストの体なのですから、この箇所の「主の僕」をイエス・キリストと受け取っても、「教会」と受け取ってもよいわけです。しかし、最初からイエス・キリストのことが書いてあるとして読むのではなくて、まずは、神の民であるイスラエルの民のことが書かれているとして読み、それはまた教会に連なる私たちのことでもあるとして受けとめながら、読み進んで参りたいと思います。

1.母の胎にあるわたしを呼び

 まず、1節ではこう述べられています。島々よ、わたしに聞け/遠い国々よ、耳を傾けよ。主は母の胎にあるわたしを呼び/母の腹にあるわたしの名を呼ばれた。――この最初の呼びかけは「主の僕」自身が呼びかけているのですが、呼びかけの相手は、「島々よ」とか「遠い国々よ」と言われているように、外国の民であります。今日の箇所のテーマは最初の小見出しにもありますように、「主の僕の使命」でありますが、その使命の対象はイスラエルの民だけに留まるのではなく、遠い諸外国の異邦人たちにまで及ぶということであります。イスラエルの民は神様に選ばれた特別な民族でありましたが、それは自分たちだけが神様と良い関係を保って幸せであればよいということではなくて、神様との良い関係を異邦人である諸国民にまで拡げるという使命を担っているということであります。これは正に教会が担っている使命であり、神様との関係を与えられたキリスト者の使命であります。教会に召された自分たちだけが幸せであればよい、自分たちが神様との良好な関係を築けばよいということではなくて、周りの異邦人たち、まだ神様との関係が築かれていない人たちをも主の僕に加えるという使命を担っているということであります。その人たちは、「島々よ」と言われ、「遠い国々よ」と呼びかけられているように、物理的な距離は近くの人たちであっても、信仰的には遠くの世界にいる人たちでありますが、その人たちと神様との関係を築くことが、先に主の僕とされた者たちの使命なのであります。
 そして、その使命はいつ与えられたかと言うと、「主は母の胎にあるわたしを呼び、母の腹にあるわたしの名を呼ばれた」とあるように、生れる前からの神様の御計画によって与えられたと言うのです。これは私のように両親がクリスチャンであった者についてだけ言えることではなくて、86歳になって洗礼を受けられた清水さんにも当てはまることであって、清水さんが長く別の宗教の社会で生きて来られて遠回りをして来られたように思えるのですが、実は、お生まれになる前から神様は「主の僕」として清水さんをお選びになっていたということです。清水さんに限りません。私たちの目には分りませんが、求道中の方々の中にも、母の胎にある時から名を呼ばれていた方がいるということをも示唆しているのではないでしょうか。「母の胎にある」というような表現は、預言者エレミヤが召命を受けた際にも述べられています。「わたしはあなたを母の胎内に造る前から、あなたを知っていた。母の胎から生まれる前に、わたしはあなたを聖別し、諸国民の預言者として立てた。」(エレミヤ15)そのように、神様は私たちをも選んでおられるのです。私たちの周りは、キリスト教の世界から見れば「遠い国々」であります。求道中の方々の周囲は、もっと遠い国々かもしれません。しかし、そうした遠くの世界の中から、神様は既に御自分の救いの計画に加える者たちを指名しておられて、その方々の救いのために私たちが少し先に呼ばれた、ということです。

2.口を鋭い剣として

 次の2節は、そのような使命を与えられた「主の僕」である私たちが、どのような手段をもってその使命を行使するのかということが述べられています。わたしの口を鋭い剣として御手の陰に置き/わたしを尖らせた矢として矢筒の中に隠して、と言われています。イスラエルの民をバビロン捕囚から解放したキュロス王は、彼の政治的手腕や軍事的な優位性が用いられたのであります。異邦人をそういう形で用いられることもありますが、神の世界から遠い国々にいた者たちを主の僕の仲間に加える場合は、そのようなものだけでは、御心は実現しません。神様は私たちの口を鋭い(つるぎ)として用いられるのです。即ち、神の言葉によってこそ、人々を救いの群れに加えることが出来るのです。言葉こそが武器であるということは、先ほど引用したエレミヤ書でも、「このように、わたしの言葉は火に似ていないか。岩を打ち砕く槌のようではないか」(エレミヤ2329)と言われているし、以前に学んだエフェソの信徒への手紙でも、「救いを兜としてかぶり、霊の剣、すなわち神の言葉を取りなさい」(エフェソ617)と教えられていた通りであります。
 「口」とか「言葉」というと、実体がなくて当てにならないような印象があるかもしれません。確かに、口先だけの言葉は当てになりません。コリントの信徒への手紙の中でも、パウロはコリントの教会の中に高慢な者がいることを聞いて、こう言っております。「高ぶっている人たちの、言葉ではなく力を見せてもらおう。神の国は言葉ではなく力にあるのですから」(Ⅰコリント41920)と。如何に言葉巧みに話しても、その言葉に心が伴っていなければ、何も生み出すことが出来ません。しかし、神様は言葉によって光を創造され、万物を造られました。神の言葉には真理があり、無から有を生みだす力があります。「わたしの口を鋭い剣として御手の陰に置き」と言われているのは、主の僕が語る言葉には主の御意思が隠されているということです。キリストのことをヨハネ福音書は神の言(ことば)と語ります。キリストには神のご意思が込められているからです。私たちの言葉は、それだけでは何の力も持ち得ませんが、そこで神の言(ことば)であるキリストのことが語られていて、そこに聖霊が働くならば、新しい命さえ生みだす力を持つことが出来るのであります。

3.あなたによってわたしの輝きは現れる

 3節はそのような力ある言葉として神様が主の僕に語られたことが述べられているのですが、それは、あなたはわたしの僕、イスラエル/あなたによってわたしの輝きは現れる、という約束の言葉です。「主の僕」が神様の御栄光を現わす器として用いられる、というのです。これは極めて大きな働きです。このあと6節の中にも「わたしはあなたを国々の光とし」という言葉が出て来ます。そこで、ここで「僕」と言われている「主の僕」とは何を指すのかということが大きな議論となるのですが、すぐ後に「イスラエル」と書き添えられているので、集団説を採る学者は、ここを根拠にして、「主の僕」とはイスラエルのことを指すと主張するのですが、写本によっては「イスラエル」という語が抜けているものがあって、後から書き加えたのではないかとも考えられるので、結論を出せないのです。しかし、学者たちの議論はともかく、「主の僕」が表わしているのは、特定の個人そのものであるとか、現実のイスラエルの民そのものと言うより、終末的な存在、やがて来るべき存在を指し示していると見た方がよいのではないかと思います。つまり、来るべきメシア(キリスト)のことを指しているとし、イスラエル民に代わる新しい民としての、キリストの体である教会のことをも指し示しているとする新約聖書の理解に立つことによって、ここでイザヤが語っていることを、単に当時の状況の中での預言としてではなくて、今の私たちに対する神様の言葉として受け取ることが出来るのではないでしょうか。主イエスが誕生された時、両親が律法の定めに従って主イエスを献げるために神殿に行きますと、シメオンが主イエスを見て、「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり、この僕を安らかに去らせてくださいます」と言ったあと、「これは万民のために整えてくださった救いで、異邦人を照らす啓示の光、あなたの民イスラエルの誉れです」と述べました。(ルカ22932)また、主イエス自身、「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ」(ヨハネ812)と述べられました。イザヤはこの主イエスのことを「主の僕」という形で指し示していたのであります。

4.いたずらに骨を折り

 ところが、驚かされるのは次の4節です。召しを受けて働いた「主の僕」が、その働きの結果に空しさを感じているのであります。こう語っています。わたしは思った。わたしはいたずらに骨折り/うつろに、空しく、力を使い果たした、と。――骨折りは無駄で、力を使い果たしたことは空しかったと嘆いているのであります。これをどのように理解すればよいのでしょうか。
 これをバビロン捕囚から解放後の状況を踏まえて考えるなら、期待をかけていたキュロス王が望み通りの動きをしなかったこととか、イスラエルの人々が50年以上にわたる捕囚生活に慣れてしまって、元の生活への復帰が順調に進まなかったことを嘆いていると解釈することも出来ます。しかし、ある解説者は、そうした単なる時間的な推移とか、主の僕の感情的な表現としてとらえるのではなくて、神学的な示唆が与えられていることを見なければならないとして、主の僕の働きは、一方では現れているが、同時に一方では、2節で「御手の陰に置き、矢筒の中に隠して」と言われていたように、まだ全貌が明らかにされているのではなくて隠されていて、これまでの体験を超えた新しい主の僕の働きが示されていると考えざるを得ない、としています。そして、7節から13節は捕囚後の状況というよりも終末的な状況を語っていると言うのです。確かに、そのような解釈が出来るかと思います。しかし、ここで「主の僕」と言われている方が主イエス・キリストを指し示していると見るならば、もっとはっきりするのではないでしょうか。小林和夫先生は、ここに十字架に架けられたイエス・キリストの御姿を読み取っておられます。主イエスの御生涯は、弟子たちにも理解されず、伝道者としては失敗としか言えないような、無駄に骨折られ、空しく力を使い果たしたものであったように見えます。ところが4節の後半で主の僕はこう述べられています。しかし、わたしを裁いてくださるのは主であり/働きに報いてくださるのもわたしの神である。――ここに、「一切を神の手に託して、生涯を終えられたイエス様の姿を見ることが出来る」と小林先生はおっしゃいます。イザヤにはまだよく分からなかったかもしれません。終末的な事柄として語るしかなかったのかもしれません。しかし、十字架の主イエスを知っている新約聖書の時代の私たちには、よく分かるのであります。

5.救いを地の果てまで

 このあとも、「主の僕」をイスラエルの民とメシア(キリスト)の両方に重ね合わせながら読んで行きたいと思います。次の56節では、全てを神様の御手に委ねた「主の僕」は、新しい使命が与えられたことを確認しております。こう言っております。主の御目にわたしは重んじられている。わたしの神こそ、わたしの力。今や、主は言われる。ヤコブを御もとに立ち帰らせ/イスラエルを集めるために/母の胎にあったわたしを/御自分の僕として形づくられた主は/こう言われる。わたしはあなたを僕として/ヤコブの諸部族を立ち上らせ/イスラエルの残りの者を連れ帰らせる。だがそれにもまして/わたしはあなたを国々の光とし/わたしの救いを地の果てまで、もたらす者とする。――まず、「主の御目にわたしは重んじられている」と、神様が決して自分を捨てられたのではなく、むしろ重んじていてくださるとの確信が述べられて、「わたしの神こそ、わたしの力」と言って、神様の力への信頼を告白しています。そして、神様から自分に与えられた使命は、ヤコブ、即ちイスラエルの民を御もとに立ち帰らせることだと述べています。ここで「主の僕」をイスラエルの民とすると、イスラエルの民がイスラエルの民を立ち帰らせることになって、おかしなことになるので、ここでは「メシア」のことと理解して、新しいイスラエルの民である「教会」を形成することを指し示していると解釈するならば、分かりやすいのではないかと思います。更に、「主の僕」を「教会」と理解して、先に召された僕が、更に異邦人を含む新しい民を神の御もとに集める役割を与えられていることに思いを及ばせることが許されるかもしれません。そして、そうした使命が、「母の胎にあったわたしを、御自分の僕として形づくられた主」という、1節にあったのと同じような表現を用いて、生れる前からの神様の御計画であったと受け止めているのであります。
 そして、6節では主の僕の使命の内容が更に明らかに示されます。「わたしはあなたを僕として、ヤコブの諸部族を立ち上らせ、イスラエルの残りの者を連れ帰らせる。だがそれにもまして、わたしはあなたを国々の光とし、わたしの救いを地の果てまで、もたらす者とする」と言うのです。既に選びの中にあるイスラエルの民の中で、まだ捕囚地の中に残っている者を立ち帰らせるだけでなく、地の果ての国々の民にまで救いをもたらす役割が与えられているということです。これは、1節の冒頭で「島々よ」「遠い国々よ」と呼びかけられていたことに対応しています。この使命は、正に、冒頭にも述べましたように、異教世界の中にある私たちの使命でもあります。私たちは4節にあったような無力感を覚えざるを得ない状況にあるのですが、イエス・キリストが父なる神様に信頼して十字架にお架かりになることによって、乗り越えてくださいました。そのキリストに続くことによって、私たちも母の胎にあった時からの神様の御計画に参与することが出来るのであります。この6節の最後の2行は、聖書朗読で併読した使徒言行録13章で、パウロが語っていた言葉であります。アンティオキアの町で、ユダヤ人たちの反発を受ける中で、このイザヤ書の言葉を用いて、異邦人伝道を進めることを宣言したのでありました。

結.あなたを形づくり、立てた

 「主の僕の詩」は、6節までとされていて、7節以下はその補足のような部分ですが、慰めに満ちた、力強い励ましの御言葉が語られていますので、最後にそれを聴きたいと思います。
 まず、7節の冒頭に、イスラエルを贖う聖なる神、とあります。「贖う」という言葉は、<債務を持った者を、金を払って釈放する>という意味の言葉です。イスラエルの民は神様を信頼しない罪に陥ったために捕囚の憂き目を見なければなりませんでしたが、神様はその民を捕囚の地から贖い出されました。続いて7節の2行目から述べられていることは、そのように聖なる神、主がイスラエルの民を扱われたことを見て、この世の王たち君侯ひれ伏すようになる、即ち、彼らのイスラエルに対する見方が変わって来る、ということです。これはイスラエルの民の力や努力によるのではなく、あくまでも聖なる神がなさったことでありました。この同じ神様が、罪深い私たちをも、キリストの十字架の犠牲をもって贖い出してくださいました。そして、やがて教会が出来ました。教会はこの世の中では、小さい存在に見えます。特に現代の我が国ではそうであります。しかし、神様がキリストにおいてなさってくださった贖いの御業によって、この世の王たちも教会を見直さざるを得ない存在となっているのであります。
 そして更に、主なる神様は8節でこう語っておられます。わたしは恵みの時にあなたに答え/救いの日にあなたを助けた。わたしはあなたを形づくり、あなたを立てて/民の契約とし、国を再興して/荒廃した嗣業の地を継がせる。――これは宣教の勝利を約束する言葉であります。今、教会の宣教の業は、先の見えない状況が続いています。この世に対して、あまり力を持ち得ていないように見えます。しかし、神様があの恵みの時になさってくださった救いの御業が、私たちを変え、教会を変え、この世を変えるのであります。「わたしは恵みの時にあなたに答え、救いの日にあなたを助けた。」――この言葉をパウロがコリントの教会に宛てた手紙の中で引用したあと、「今や、恵みの時、今こそ、救いの日」と述べております。遠い将来のことではありません。今、キリストによる救いの御業が宣べ伝えられている時こそ「恵みの時」であります。そして「わたしはあなたを形づくり、あなたを立てて」と言われています。この小さな教会も、神様の大きな恵みの御業の中で立てられ、形づくられて来ました。私たちはその中で「主の僕」の一員として召されて、用いられているのであります。この確信をもって、歩み続けたいと思います。  お祈りいたします。

祈 り

贖い主なるイエス・キリストの父なる神様!
 教会をこの地にもお建てになり、私たちをも「主の僕」の一員として召して、宣教の御業に仕えさせてくださっております恵みを感謝いたします。今年は一人の兄弟が洗礼を受けるなど、あなたの救いの御業を目に見える形で実感させていただいておりますが、なお、大きな壁が立ちはだかっているようにも見えてしまいます。そのような中で、どうか、あなたがこの教会を用いて、日夜、救いの御業を進めておられることを確信させてください。どうか、ふつつかな私たちをも用いてくださって、あなたの救いを地の果てまでもたらそうとなさっていることを信じさせてください。どうか、あなたの救いの御計画に入っている方々を、一日も早く、信仰告白へとお導きください。
 主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

主日礼拝説教<全原稿> 2015年8月30日  山本 清牧師 

 聖  書:イザヤ書49:1-9
 説教題:「
救いを地の果てまで」         説教リストに戻る