神の憐れみがあなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かな慈愛と寛容と忍耐とを軽んじるのですか。
                 
(ローマの信徒への手紙24
 118節以下で、人間の罪の実相を述べたパウロは、2116節では罪に対する神の裁きのことを語るのであるが、そこでまず指摘するのは、他人を裁きながら自分も同じことをしている罪のことで、そのことで弁解の余地はなく神の裁きは逃れられないと言う。私たちは自分のことを棚に上げて、他人を裁いている。それはナタンによって告発されたダビデ(サムエル記下12章)と同様だ。だが神の目を誤魔化すことは出来ないのだ。
 次に指摘するのは、神はユダヤ人もギリシア人(=異邦人)も分け隔てなく、行いに従って正しく裁かれるということである。ここで「行いに従って」というのは、ユダヤ人が固執しているような形式的に律法を守るかどうかではなく、「忍耐強く善を行い、栄光と誉れと不滅のものを求める(7)であるか、「反抗心にかられ真理でなく不義に従う者(8)であるかによって裁かれるということである。
 ところで、このような神の正しい裁きのもとでは、私たちには救いの希望はないのだろうか。そうではない。標記のように、神は憐みをもって忍耐しつつ、悔い改めることを待ち望んでおられるのだ。その神の慈愛と寛容と忍耐が、キリストの十字架によって私たちに向けられている。
 パウロは16節で、「神が、わたしの福音の告げるとおり、人々の隠れた事柄をキリスト・イエスを通して裁かれる日に、明らかになるでしょう」と言っている。私たちの行いが明るみに出されて裁かれるので、それは恐ろしいことであるが、その裁きにおいては「キリストを通して」、即ち、神と私たちの間にキリストが立って執り成してくださるとの「福音」が込められている。ここでパウロは「わたしの福音」と言っているように、彼自身がそれによって救われ、生かされ、喜びを与えられた福音である。この福音を信じて悔い改めるならば、私たちは滅びから救いへと導き出されるのである。だから、私たちは終わりの日の裁きも、喜びをもって待ち望むことができるのである。

主日礼拝説教<要 旨> 2015年8月23日  山本 清牧師 

 聖  書:ローマの信徒への手紙2:1-16 
 説教題:「
憐れみの裁き」 説教リストに戻る