序. 裁きの言葉から何を聴くか

 月一回、ローマの信徒への手紙を取り上げておりますが、先月は118節以下の箇所から御言葉を聴きました。そこでは、小見出しに「人類の罪」とありますように、人間の罪の実相が鋭く述べられていました。今日の21節から16節までの箇所には、「神の正しい裁き」という小見出しがつけられていますが、ここでは、先月の所で述べられたような人間の罪に対して、人間はだれも「神の正しい裁き」を逃れることが出来ない、ということが述べられているのであります。先ほどの朗読をお聞きになって、暗い気持ちになられたかもしれません。今日の後を見ますと、「ユダヤ人と律法」という小見出しになっていまして、神様から与えられた律法を誇っているユダヤ人の愚かさが指摘されているのですが、ここに述べられていることはユダヤ人だけの問題ではなくて、私たちが陥りやすい罪のことが語られているのであります。そして39節以下の小見出しは「正しい者は一人もいない」となっておりまして、ユダヤ人だけでなく、全ての者が罪の下にあることが述べられるのであります。――このように、ユダヤ人を代表とする私たち人間の罪のことが、少々くどいくらいに語られて行くのであります。そして3章の21節以下に至って、はじめて、このローマの信徒への手紙の主題と言っても良い「信仰による義」ということ、言い換えれば福音の内容が語られて行くのであります。
 そこに行き着くまで、しばらくは辛抱して、この暗いトンネルのような部分を通らなければならないということでしょうか。罪の問題を通り過ぎては福音に到達することが出来ないということなのでしょうか。――おそらくパウロは、そういう組立で、話を進めているのだと考えられます。そうであれば、今日の説教でも、私たちの罪の問題を追及され、厳しい神様の裁きの言葉を聞くにとどまらざるを得ないのでしょうか。確かに、自らの罪をはっきりと認識することがなければ、福音を正しく、喜びをもって受け止めることは出来ないのであります。
 しかし、私たちの罪のこと、裁きのことを聞くということは、神様と私たちの関係が問われるということであります。それは神様が御言葉をもって出会ってくださるということにほかなりません。ですから、私たちの罪が暴かれて、底なしの奈落のようなところに放り込まれて、神様との関係が断たれてしまうことではありません。私たちの罪の問題と向き合うことによって、神様の怒りに触れるだけでなく、その背後にある神様の憐みの御心に向き合うこともできるのであります。――そういうわけで、今日は神様の裁きが語られたこの箇所から、私たちはそれを他人事のように聞くのではなくて、自分のこととして真剣に受け止める必要がありますが、それだけでなく、その背後にある神様の憐みの心、福音に通じる御言葉を聴きとりたいと思っています。

1.他人を裁く罪――神の裁きを逃れられない

 さて、今日の箇所は、こういう言葉で始まっています。だから、すべての人を裁く者よ、弁解の余地はない。あなたは、他人を裁きながら、実は自分自身を罪に定めている。あなたも人を裁いて、同じことをしているからです。――先月学んだ118節以下の箇所には、先ほども申しましたように、人間の罪の実相が述べられていて、一つは偶像礼拝のこと、もう一つは人間関係の乱れのことが書かれていました。ところがこれを読んだ当時のユダヤ人たちは、そうした罪の状態を自分たちのことだとは思わずに、神を知らない異邦人たちのことだと受け取りがちであったのです。ユダヤ人は神様から与えられた律法を大切にしていました。律法には、十戒にあるように、偶像礼拝が禁じられており、人間同士の間の歪んだ関係が戒められていて、ユダヤ人はそれを忠実に守っていると自負していました。ですから、彼らは、そこに書かれているようなことを読んでも、それは自分たちのことではなくて、異邦人のことだと受け取って、異邦人を裁いたのであります。しかし、パウロは2章に至って、そのように受け取るユダヤ人たちに向かって、「すべて人を裁く者よ」と語りかけるのであります。つまり、あなたがたは異邦人を裁きながら、自分も同じことをしているではないか、と厳しく迫っているのであります。確かに、ユダヤ人は目に見える像を造って拝むようなことはしていなかったでしょうが、神様を自分たちの願いを叶えてくれる都合の良い存在にしてしまって、偶像化しておりました。また、人間同士の関係についても、様々な掟を形の上では忠実に守っていたかもしれませんが、愛と信頼に基づく誠実な人間関係が築かれていたとは言えませんでした。そうした実態を踏まえて、パウロは「弁解の余地はない。あなたは、他人を裁きながら、実は自分自身を罪に定めている。あなたも人を裁いて、同じことをしているからです」と言うのであります。
 先ほどの旧約聖書の朗読で、サムエル記下12章の記事を読んでいただきました。ダビデ王は、部下のウリアの妻バト・シェバが気に入って、自分のものとするために、ウリアを危険な戦場に送って戦死させました。その罪を預言者ナタンが告発した場面です。ナタンは、豊かな男が、客をもてなすのに、貧しい男の大事な小羊を取り上げて振る舞った話をダビデにすると、ダビデは激怒して、「そんなことをした男は死罪だ」と言うのですが、ナタンはダビデに向かって、「その男はあなただ」と言って、ダビデ王がバト・シェバを奪ったのは同じことだと告発したのです。パウロもここで、同じように、異邦人の罪を裁いているユダヤ人こそ裁きを受けるべきではないか、と言っているのであります。――これは決してユダヤ人だけの問題ではありません。私たちは皆、他人を痛烈に批判して裁きながら、自分の罪には気づかないのであります。キリスト者も決して例外ではありません。否、むしろキリスト者こそ、あのファリサイ派の人たちや律法学者のように、自分が正しい生活していることを誇るかのように他人の罪を糾弾しながら、神様を蔑ろにして自分の満足のために利用し、他人を思いやる心を置き去りにしていることが多いのではないでしょうか。

 1節でユダヤ人をはじめ私たちが他人を裁いていることを告発したパウロは、次に2節以下では、そういう者たちをこそ神様は裁かれるということを述べて参ります。23節でこう言っております。神はこのようなことを行う者を正しくお裁きになると、わたしたちは知っています。このようなことをする者を裁きながら、自分でも同じことをしている者よ、あなたは、神の裁きを逃れられると思うのですか。――私たちは自分のことを棚に上げて、他人を裁いています。そうすることによって、自分はその人たちよりましだと思いたいのであります。しかし、神様は正しくお裁きになるお方であります。この神様を誤魔化すことは出来ません。人間の目から見れば多少の違いがあっても、神様の目を誤魔化すことは出来ません。神様の裁きを逃れることは出来ないのであります。

2.分け隔てなく――行いに従って裁かれる

 次の4節には大事なことが述べられているのですが、それを後まわしにして、先に5節以下を見て参ります。そこには、神様の裁きがどのように行われるのかが述べられています。まず5節には、世の終わりに行われる裁きのことが語られています。あなたは、かたくなで心を改めようとせず、神の怒りを自分のために蓄えています。この怒りは、神が正しい裁きを行われる怒りの日に現れるでしょう。――他人を裁いて自分は悔い改めようとしない者に対する神様の怒りが蓄えられている、と言うのであります。自分は正しいことをしていると思っていたユダヤ人たちにとってはショックな言葉でありますが、私たちも、自分は人から後ろ指を指されることはないと、密かに思っているかもしれませんが、私たちに対する神様の怒りはどんどんと蓄えられていて、世の終わりの裁きの日、いわゆる最後の審判の時には、その怒りがあなたがたの上にも下るのだと言うのであります。これは脅しではありません。私たちは自分自身を見つめ直す必要があります。

 では、なぜ私たちは、そのような神様の裁きを招くようなことになるのでしょうか。神の裁きの基準が6節以下に述べられて参ります。神はおのおのの行いに従ってお報いになります。すなわち、忍耐強く善を行い、栄光と誉れと不滅のものを求める者には、永遠の命をお与えになり、反抗心にかられ、真理ではなく不義に従う者には、怒りと憤りをお示しになります。68節)――ユダヤ人たちは、自分たちは神の民であり、神の与えてくださった律法を守っているから神の前に正しい者であり、それに対して異邦人たちは罪人であり、神の怒りを受けるべきだと考えて、異邦人を裁いていましたが、パウロはここで、神様の裁きの基準は「おのおのの行いに従って」だと言うのです。ユダヤ人の特権は認められないということです。続く9節以下にも同じことが強調されています。すべて悪を行う者には、ユダヤ人はもとよりギリシア人にも、苦しみと悩みが下り、すべて善を行う者には、ユダヤ人はもとよりギリシア人にも、栄光と誉れと平和があたえられます。神は人を分け隔てなさいません。911節)――ここでギリシア人というのは、異邦人の代表として挙げられています。神様は、終わりの日の裁きにおいて、ユダヤ人と異邦人とを分け隔てなさらない、ということです。更に13節でも、律法を聞く者が神の前に正しいのではなく、これを実行する者が、義とされるからです、と述べています。これは極めて公正で、理に適ったことのように思えます。

 しかし、これを読んで、教会に長く来ている人、キリストの福音を聞いて来た人は、「ちょっと待てよ」と思われるかもしれません。「行いによって報われる」ということは福音に反することではないか、「律法を実行するものが義とされる」というのは、「信仰によって救われる」というパウロの主張する福音と矛盾するのではないか、ということです。これは少々難しい議論でして、321節以下の「信仰による義」について本格的に語られているところを読み進んで行く必要があるのですが、ここでは取り敢えず、7節と8節の言葉をもう少しよく見ておきたいと思います。7節では、「忍耐強く善を行い、栄光と誉れと不滅のものを求める者には、永遠の命をお与えになる」と説明されています。つまり、報われる行いというのは、何の苦労もなしに行えるものではなくて、辛いけれども忍耐強く行うものである、ということです。目先のこと、目の前にすぐ見えることで決まるのではなくて、将来の栄光と誉れと不滅のものに希望を持って生きる者こそが永遠の命を与えられる、ということです。逆に、8節に「反抗心にかられ、真理ではなく不義に従う者には、怒りと憤りをお示しになり」と説明されているように、神様に反抗し神様の示される真理に従わないで、神様以外のものに望みを置く生き方をする者には、神様の怒りが示されるということであって、ユダヤ人が拘っているような個々の形式的な律法に従っているかどうかということではない、ということです。つまり、誰もそのままでは神様の怒りを受けるしかないのです。

 ここで大事なことは、ユダヤ人に対して、「神は人を分け隔てなさいません」語られている言葉を、他人事として聞くのではなくて、新しい神の民とされている教会に来ている私たちにも語られている警告として受けとめることであります。私たちが教会に属する者となり、礼拝に連なる者となったことによって、そうでない人よりも上等な人間になったように勘違いして、そうでない人を見下すようなことをするならば、ユダヤ人と同じ過ちを犯してしまうことになる、ということです。神様は終わりの裁きにおいて、人を分け隔てなさいません。ユダヤ人であれ異邦人であれ、クリスチャンであれ、そうでない者であれ、行いによって公平な裁きをなさるのであります。この厳粛な事実を、あらためてしっかりと聴き取る必要があります。

3.悔い改めに導く裁き――憐みの裁き

 それでは、私たちは神様の怒りを受けるしかないのでしょうか。私たちの救いの希望はないのでしょうか。
 さきほど、4節には大事なことが述べられているのだが、後に回すと申しました。その4節にはこう語られています。あるいは、神の憐れみがあなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かな慈愛と寛容と忍耐とを軽んじるのですか、と問いかけています。神様は憐れみをもって悔い改めることを待ち望んでおられる、ということです。ユダヤ人は神に選ばれた民として、エジプトの奴隷状態から解放され、十戒をはじめとする律法を与えられて、神様と特別な契約を結ばせていただいた民でありましたが、ユダヤ人たちはその律法を繰り返し破って、神様との関係においても隣人との関係においても、形の上ではともかくも、実質において、罪を犯して来ました。それなのに、自分たちは神の民としての特権を与えられていると勘違いして来たのでありました。そのようなユダヤ人をも神様はお見捨てになることなく、「その豊かな慈愛と寛容と忍耐」を持って、悔い改めに導こうとして来られたのであります。
 その神様は、そのようなユダヤ人だけでなく、ギリシア人をも、つまり異邦人をも救うために、キリストをお遣わしになりました。そこに神様の大きな憐れみが示されています。そこには御子イエス・キリストを十字架に架けてくださったほどの慈愛と寛容と忍耐があります。その御業によって、ユダヤ人もギリシア人も悔い改めに導き入れようとなさっているのであります。ここに私たちの救いがあります。そこに私たちが神様の裁きを逃れる道が示されています。そのような「豊かな慈愛と寛容と忍耐」とを軽んじたのでは、神様の怒りを免れる筈はありません。私たちはこのパウロの警告の問いかけを、切迫感をもって聴かなければなりません。「神の憐れみがあなたを悔い改めに導く」と言っております。悔い改めるとは、悪かった、申し訳ないことをしたと思うだけではありません。これまでの自分と神様との関係を転換することであります。神様の憐れみに気づくならば、それに伴ってこれまでの生き方が変えられる筈であります。

結.わたしの福音――キリストを通して裁かれる

 最後に、16節を御覧ください。こう言っております。そのことは、神が、わたしの福音の告げるとおり、人々の隠れた事柄をキリスト・イエスを通して裁かれる日に、明らかになるでしょう。――ここでもパウロは終わりの日の裁きについて述べています。ここで「そのこと」というのが何を指しているかは、原文でも分かりにくいのですが、1718節では律法と行いの関係を述べて来ているので、「そのこと」とは人間の行いに関することだと考えてよいでしょう。そして、終わりの日の裁きの時に、神様は全ての人々の隠れていた行いを明らかにされるというのです。人間の目には見えなかった罪が明らかにされるということでしょう。これは大変厳しく、恐ろしいことであります。
 ところが、パウロはここで、「わたしの福音の告げるとおり」と言っております。私たちの行いが明るみに出されて裁かれることは恐ろしいことなのですが、それが「福音」だと言うのです。しかも、「わたしの福音」という不思議な言い方をしております。これは、ただ<私が宣べ伝えている福音>というだけでなく、<私自身がそれによって救われ、生かされ、喜びを与えられた福音>という、パウロ自身の思いが込められた言い方であります。どうしてそのようなことが言えるのでしょうか。その秘密は、「キリスト・イエスを通して」という言葉にあります。終わりの日の裁きは、キリスト・イエスを通して行われるのであります。つまり、神様が私たちをお裁きになるときに、神様と私たちとの間に、主イエス・キリストが立ってくださるということです。十字架に架かってくださったイエス・キリストが私たちの行いの罪をも執り成してくださる、ということです。私たちの行って来たことは、そのままでは、罪に定められて、私たちは滅びるほかないのですが、イエス・キリストの執り成しによって、赦されるという福音であります。この福音を信じるならば、終わりの日の裁きも、喜びをもって待ち望むことが出来るのであります。感謝して祈りましょう。

祈  り

贖い主なるイエス・キリストの父なる神様!
 終わりの日の裁きの座に立つことの出来ない、罪深い私たちでありますが、主イエス・キリストの救いの御業を通して裁いてくださるとの福音を聴くことを許されて感謝いたします。
 どうか、この福音を信じて、これまでの行い・生き方を悔い改め、イエス・キリストに身を委ねて、これからの歩みをする者とならせてください。また、どうか、この福音を求道中の方々をはじめ、多くの人々と共有することが出来るようにさせてください。
 主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

主日礼拝説教<全原稿> 2015年8月23日  山本 清牧師 

 聖  書:ローマの信徒への手紙2:1-16
 説教題:「
憐れみの裁き」         説教リストに戻る