父親は言った。「…おできになるなら、わたしどもを憐れんでお助けください。」イエスは言われた。「『できれば』と言うか。信じる者には何でもできる。」その子の父親はすぐに叫んだ。「信じます。信仰のないわたしをお助けください。」   (マルコによる福音書92124

 山の上で、主イエスの姿がまっ白に輝き、三人の弟子は栄光の主を仰ぐことが出来たのであるが、山の下では、弟子たちが汚れた霊に取りつかれた子から霊を追い出すことが出来ず、律法学者たちにとっちめられていた。それは、癒されぬ人がおり、解決できない問題を抱えている現代の教会の姿を写し出している。
 主イエスはこの状態を見て、なんと信仰のない時代なのか。いつまでわたしはあなたがたと共にいられようか。いつまで、あなたがたに我慢しなければならないのかと言われた。これは、時代一般の不信仰を嘆いておられるのではなく、弟子たちに主への信頼が欠けていることに対する嘆きであって、主イエスは人々の非難に耐えつつ、自らの身を削るように、弟子たちの信仰の成長を願っておられるのである。主は私たちに対しても、このように忍耐をもって信仰の成長を待っていてくださるのだ。
 その後、主は、その子をわたしのところへ連れて来なさいと言われる。不信仰な弟子たちをも生かして用いようとされることによって、主の御支配がその子に及び始めるのである。
 次いで、汚れた霊に取りつかれたこの父親の中に信仰を産み出そうと、対話を始められる。苦しみや悩みからの解放の原点は、主イエスの超能力や奇跡の力が発揮されるところにあるのではなく、主イエスの愛と、その主を信じる信仰の交わる所にあるからである。主の問いかけに父親は、標記のように、おできになるならと言いつつ、憐れみを求めた。このあやふやで遠慮がちな父親の信仰に向けて、『できれば』と言うかと、訂正をお求めになりつつ、信じる者には何でもできると断言される。「信じる者」とは、主イエスのことだと解釈できるが、同時に<あなたも信じることが出来る>との呼びかけであり、主を信頼することへと引きずり込もうとされる。信じる者には大きな可能性が開かれるのだ。その招きの言葉に対して、父親は、信じます。信仰のないわたしをお助けくださいと叫ぶ。「信じます」と言いながら「信仰のない」とは矛盾する言葉のようだが、不信仰な自分をそのままに主に預けるしかないのだ。信仰とは、いつもそういうものである。こうして、この子から悪霊は負いだされた。
 最後に、主は弟子たちに、この種のものは、祈りによらなければ決して追い出すことはできないのだ」と言われた。これは、単に祈りの機会を増やせばよいということではない。「信じる者は何でもできる」と断言される主の前にぬかずくときに、私たちの祈りが導かれて、救いが始まるのである。

主日礼拝説教<要 旨> 2015年8月16日  山本 清牧師 

 聖  書:マルコによる福音書9:14-29 
 説教題:「
信じる者には何でもできる」 説教リストに戻る