序. 山の下では――無力な教会

 先週は、マルコ福音書の今日の箇所のすぐ前の箇所でしたが、そこには、主イエスのお姿が山の上で真っ白に輝いたという「山上の変貌」と呼ばれる出来事が記されていました。その山の上では、主イエスが旧約聖書の代表者とも言えるモーセとエリヤと話しておられる姿が見えました。そして、雲の中から「これはわたしの愛する子。これに聞け」という言葉が聞こえました。それらの情景と御言葉は、主イエスこそが旧約聖書の約束を成就するお方であり、神の国を完成させる神の子であるということを指し示しておりました。
 この出来事は、福音書の中では、主イエスの公生涯の分水嶺のようなものだということもお話ししました。先週の後半の9節以下では、一同が山を下りたことが書かれていました。ここから主イエスの公生涯の後半が始まるのであります。山の下では、まだ苦しみや悩みがあります。癒しを必要としている人たちがいます。汚れた霊、即ちサタンがまだ力をもって支配しています。人々や弟子たちの不信仰があります。神の国が始まったことがまだ見えない状態にあります。その真只中へ主イエスと弟子たちは下って行くのであります。そこには、主イエスと共に山の上に行った三人の弟子以外の弟子たちが待っていました。そこでは、14節にあるように、弟子たちが大勢の群衆に囲まれて、律法学者たちと議論していました。議論というよりも、とっちめられていたのであります。そのあとに書かれているように、霊に取りつかれた子供が父親に連れられて弟子たちのところにやって来たのですが、弟子たちはその子から霊を追い出して癒すことが出来なかったのであります。以前に弟子たちが伝道に派遣された時には、「多くの悪霊を追い出し」たことが612節に記されていて、弟子たちはそれなりに自信を持っていたのですが、今回はそうはいかなかったのです。律法学者たちは、そうした状況に乗じて、攻撃をして来ます。彼らは主イエスがメシア(キリスト)なんかではないと主張いたします。
 このような状態は、今日のキリスト教会の偽らぬ姿であり、この伝道所の現実の状況を物語っていると言ってもよいかもしれません。私たちの周りには、苦しみや悩みがあります。癒されぬ病があり、解決できない問題を抱えている人たちがいます。そうした人たちが教会を訪れますが、救いを与えられないまま去って行ってしまうことがあります。教会の中にも、破れがあります。礼拝に来ない人たちがいます。そうした人たちを長い間、礼拝に引き戻すことが出来ないでいます。全国の教会の教勢は低下の一途をたどっています。主イエスが来られたことによって神の国が始まったというのに、現実は神の国が遠ざかってしまったのではないかとさえ思える状況が続いています。
 28節を見ますと、こう書かれています。イエスが家の中に入られると、弟子たちはひそかに、「なぜ、わたしたちはあの霊を追い出せなかったのでしょうか」と尋ねた。――私たちも、主イエスに同じようにお尋ねしたいという思いにかられるのであります。「なぜ、私たちの周りに目に見える救いが起こらないのですか、なぜ、教会は今の状況の中で力を持ち得ないのでしょうか」と問いたくなるのであります。
 今日の箇所は、そうした無力感が漂う山の下の状況の中に、主イエスが戻って来られて、御言葉を語り、汚れた霊を追い出し、救いの御業をなさったことが書かれている箇所であります。これは、ただ主イエスの手によって一つの問題が解決されたという出来事ではありません。ここでは弟子たちの信仰が問題とされ、また汚れた霊に取りつかれた息子の父親の信仰が導き出された物語であります。今日は、主イエスは、この物語を通して、私たちに出会ってくださり、私たちの信仰を問いかけ、御言葉によって信仰に目覚ましめ、問題の解決、救いへの道を開こうとしていてくださるのであります。そして、神の国は既に始まっていることを、私たちにもお示しになろうとしておられるのであります。

1.「なんと信仰のない時代なのか」

 まず、汚れた霊に取りつかれた息子から霊を追い出すよう願ったが、弟子たちは追い出せなかったとの訴えをお聞きになった主イエスは、こう言っておられます。「なんと信仰のない時代なのか。いつまでわたしはあなたがたと共にいられようか。いつまで、あなたがたに我慢しなければならないのか。」19節)主イエスは時代の不信仰を嘆いておられます。しかし、この主イエスの嘆きは、私たちが現代の信仰の状況を嘆くのと同じように嘆いておられるのでしょうか。三つの点で私たちの嘆きとは違っていると思います。一つは、ここまでの文脈からして、時代一般の不信仰を嘆いておられるというよりも、主イエスの弟子たちの不信仰を嘆いておられると思われます。先に、四千人の人々にパンを与えられた奇跡のあとで、主イエスは弟子たちに、「まだ、分からないのか。悟らないのか。心がかたくなになっているのか。目があっても見えないのか。耳があっても聞こえないのか」と言って、彼らの不信仰を指摘されました。また、ペトロが主イエスのことを「あなたはメシア」と告白したまではよかったのですが、主イエスがご自分の死と復活のことを予告されると、ペトロは主イエスをいさめはじめました。そしてここでも、「なんと信仰のない時代なのか」と言われたあと、「いつまでわたしはあなたがたと共にいられようか」と言っておられます。弟子たちの不信仰を心配されているのであります。弟子たちは汚れた霊を追い出すことが出来ませんでした。それは彼らが霊力に欠けていたということでしょうか。そうではなくて、主イエスに対する信頼が欠けていたということです。主イエスがどんなお方であるのか、主イエスが来られたことによって何が始まっているかということについて、認識が足りなかった、ということであります。
 私たちが現代の不信仰の状況を嘆くのと違う第二の点は、いつまでわたしはあなたがたと共にいられようか」と言っておられるように、主イエスが地上で弟子たちとおられる日が限られているということであります。2章で「断食についての問答」がありましたが、ファリサイ派の人たちが、主イエスの弟子たちが断食をしていないことを批難したとき、主イエスは、「花婿が一緒にいるのに、婚礼の客は断食ができるだろうか」と言われたあと、「花婿が奪い取られる時が来る」と言われました。(マルコ219,20)主イエスの十字架の時は迫っていたのであります。その間に、主イエスとの深い信頼関係が築かれなければならないのであります。
 しかし、主イエスは弟子たちの信仰の成長が遅いのを、ただ嘆いておられるだけではありません。私たちの嘆きと違う第三の点は、「いつまで、あなたがたに我慢しなければならないのか」と言っておられることです。主イエスは弟子たちの信仰の成長をただ待っておられるのではありません。自らの身を削るようにして待っておられるということであります。この場合も、弟子たちが汚れた霊を追い出せないことによって、批難は主イエスに向けられるのであります。主イエスはそうした批難にも耐えながら、弟子たちの信仰の成長を願っておられるのであります。
 このような主イエスの嘆きは、当時の弟子たちに向けられただけでなくて、私たちの信仰に向けられているものでもあるのではないでしょうか。主イエスは忍耐をもって、私たちの信仰の成長を待っていてくださいます。しかし、私たちの場合には、私たちの地上の人生に限りがあります。その間に主イエスとの関係がしっかりと築き上げられなければ、神の国に入ることが出来ないことになってしまいます。主イエスは私たちに向けても、「いつまでわたしはあなたがたと共にいられようか」と呼びかけておられるのではないでしょうか。礼拝において主イエスと出会う、限られた時間の中で、私たちのために我慢し、耐えておられる主イエスの愛に触れることが出来なければ、そして私たちの中にも潜んでいる汚れた霊を追い出していただかなければ、神の国に入ることは出来ないのであります。

2. 「わたしのところに連れて来なさい」

 さて、主イエスは弟子たちの信仰を嘆かれたあと、「その子をわたしのところに連れて来なさい」と言われました。弟子たちと人々に対する命令であります。これはまた、私たちに対する命令でもあります。弟子たちも私たちも「なんと信仰のない時代なのか」と主イエスに嘆かれざるを得ない不信仰な者であります。しかし、そのような者をも生かして用いようとなさるのであります。私たちの周りにも、汚れた霊に取りつかれている人々、苦しみ悩みを抱えている人が多いのであります。その人たちを私たちの手で癒したり、苦しみ悩みから解放することは出来ないかもしれません。だから主イエスのもとに連れて来なさいと言われるのです。

 この主イエスの招きに応えて、人々は霊に取りつかれた息子を主イエスのところに連れて来ました。すると霊は、その子をひきつけさせました。汚れた霊は主イエスの前では、抵抗を始めるのであります。主イエスの前ではサタンの支配が脅かされるからであります。私たちの力ではこのサタンを追い出すことは難しいのですが、主イエスの前に連れて来ることによって、主イエスの御支配が、汚れた霊に取りつかれた人にも及び始めるのであります。

3.「おできになるなら」/「『できれば』と言うか」

 このあと、主イエスと汚れた霊に取りつかれた息子の父親との対話が始まります。それは信仰についての対話であります。弟子たちの不信仰を嘆かれた主イエスでありますが、ここでは汚れた霊に取りつかれた息子の父親と対話をされることによって、その父親の中に信仰を産み出そうとされます。苦しみや悩みからの解放の原点は、主イエスの超能力や奇跡の力が発揮される所にあるのではありません。主イエスの愛とその主イエスを信じる信仰の交わる所にあります。

 主イエスは父親に「このようになったのはいつごろからか」とお尋ねになると、父親は「幼い時からです」と答えて、汚れた霊が起こすひどい症状を述べます。恐らく色々な手を尽くしたのでしょうが、誰も手に負えない状況であったことが伺えます。何とか癒してやりたいと願いつつも、ひどい状態から抜け出す目処が立たずに、父親は半分は諦めていたのかもしれません。しかし、主イエスに希望をつないで、こう言いました。「おできになるなら、わたしどもを憐れんでお助けください。」――この「おできになるなら」という言い方は、相手を信頼し切っていない不信仰な言葉と見做すこともできますが、これまで様々な手立てに期待して裏切られて来たことを考えますと、無理もないことですし、もしここで主イエスが癒せなかったら恥をかかせることになるという思いから、遠慮勝ちに言ったとみることも出来ます。ですから、この言い方は、人間の経験からすればやむを得ないことかもしれません。

4.信じる者には何でもできる

では、そんなあやふやで不信仰とも言える父親に対して、主イエスはどう対処なさるのでしょうか。主は彼を拒否されるのではなくて、こう言われます。「『できれば』と言うか。信じる者には何でもできる。」――「できれば」と言ったことに訂正を求めておられます。しかし、そんな信仰では駄目だとおっしゃるのではなくて、「信じる者には何でもできる」と断言なさいます。不十分な信仰を確かな信仰へと導こうとされます。ここで「信じる者」とは誰のことでしょうか。主イエスのことだと解釈することも出来ます。しかしそれだけではないでしょう。<あなたも信じる者になることが出来ます>という呼びかけが含まれているのではないでしょうか。主イエスに対する信頼の中へ引きずり込もうとしておられるのが感じられるお言葉であります。

 私たちは主イエスに対して、一定の信頼を持って、こうして教会に来ています。しかし、この父親と同じように、「おできになるなら、わたしどもを憐れんでお助けください」という程度の信頼に留まっていて、期待はするけど、委ね切ることが出来ないでいるところがあるのではないでしょうか。そういう私たちに対して主イエスは、「『できれば』と言うのか」とおっしゃいます。「できれば」という言葉は、主イエスを前にしては不必要だとおっしゃるのです。そして、「信じる者には何でもできる」と言ってくださるのであります。信仰する者には大きな可能性が開かれることを断言されるのです。そうして、私たちをより確かな信仰へと招き入れようとしてくださるのであります。

4.信仰のないわたしをお助けください

この呼びかけに、その父親はすぐに叫んで言いました。「信じます。信仰のないわたしをお助けください。」(24)――これは不思議な言い方です。「信じます」と言いながら、「信仰がない」とは矛盾するような言葉です。普通なら「信じます」と言ったら、続けて「だから、苦しんでいる私たちを助けてください」と言いそうです。けれども、この父親は、「だから」とは言えないのです。「信じます」と言いながらも、自分の中には不信仰しか見当たらないのです。「できれば」と言ってしまった不信仰な自分があることを認めざるを得ないのです。だから、「信仰のないわたしをお助けください」と言って、不信仰な自分をそのまま主イエスに信頼して預けるしかないのです。自分を信じるのではなくて、信じることの確かさを主イエスにだけ置いているのです。不信仰な自分でありながら、そこから解放されているのです。信じるということは、いつもそういうことではないでしょうか。

5.手を取って起こされた

 このあと主イエスは、汚れた霊をお叱りになります。「ものも言わせず、耳も聞こえさせない霊、わたしの命令だ。この子から出て行け。二度とこの子の中に入るな。」――1718節の父親の説明によれば、この子は霊につかれて、ものが言えず、てんかんのような症状だったのですが、主イエスは「ものも言わせず、耳も聞こえさせない霊」と言っておられて、聞こえなかったことを重視しておられます。汚れた霊は人の言うことや神様の言葉が聞こえなくなるということです。しかし、主イエスが命令なさると、そんな霊も出て行くのであります。霊は叫び声をあげ、最後の抵抗をするかのように、子供をひどくひきつけさせて出て行きました。そのためその子は死んだようになりました。それを見て多くの者が、「死んでしまった」と言いました。しかし、27節によると、イエスが手を取って起こされると、立ち上がったのです。この「起こされる」という言葉は、後に主イエスの復活の場面で「あの方は復活なさった」(166)と告げられる言葉と同じです。ここに既に主イエスの復活が暗示されているのです。この子も新しい命に生かされたのであります。私たちもまた、いつの間にか汚れた霊に取りつかれて、聞くべきことが聞こえず、言うべきことが言えなくなってしまうことがあります。そのような霊を追い出して、新しい命に生きるようにすることが出来るのは主イエスだけであります。

結.祈りによらなければ

 最後に、28節で弟子たちは、「なぜ、わたしたちはあの霊を追い出せなかったのでしょうか」と尋ねております。この問いは、今日最初に掲げた私たちの問いでもありました。私たちの周りには、教会の外にも内にも、解決されないままの問題が山積しています。<なぜ、私たちの周りに目に見える救いがおこらないのでしょうか>との問いであります。弟子たちの問いに対して主イエスはこう答えられました。「この種のものは、祈りによらなければ決して追い出すことはできないのだ」と。祈りが足りないということです。しかし、ただ祈りの機会を増やせばよいということではないでしょう。どのように祈るかが大切です。今日の箇所の中で、父親が主イエスによって導かれた言葉は、24節の、「信じます。信仰のないわたしを助けてください」という祈りでありました。その前には「おできになるなら、わたしどもを憐れんでお助けください」と祈っておりました。しかし、そこに留まっていては、祈りは聞かれません。主イエスは「『できれば』と言うか。信じる者には何でもできる」とおっしゃってくださいました。その御言葉によって、信じる者へと導かれました。このように語ってくださる主イエスの前に出て、主の前にぬかずくときに、私たちの祈りが導かれて、救いは始まるのです。そして、新しい命に生き始めることが出来るのであります。
 祈りましょう。

祈  り

恵み深い主イエス・キリストの父なる神様!
 主イエス・キリストが天上の栄光の座から下りて、十字架の御業によって、私たちを救い出し給い、今日も御言葉と聖霊において、不信仰な私たちの中に来てくださって、信仰を呼び覚ましてくださいましたことを感謝いたします。
 
私たちの不信仰の故に、汚れた霊に取りつかれて、様々な問題が解決しないままになっております。どうか、信仰のないわたしたちをお助けください。どうか、あなたに全てを委ねる信仰をお与え下さい。どうか、御言葉によって、私たちを御支配くださり、神の国を地上に来たらせてください。どうか、多くの人が救いに入れられますように。
 主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

主日礼拝説教<全原稿> 2015年8月16日  山本 清牧師 

 聖  書:マルコによる福音書9:14-29
 説教題:「
信じる者には何でもできる」         説教リストに戻る