六日の後、イエスは、ただペトロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。イエスの姿が彼らの目の前で変わり、服は真っ白に輝き、この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど白くなった
                        (マルコによる福音書923 

 主イエスが御自身の死と復活のことを弟子たちに予告され、以降は十字架と復活の主イエスこそメシア(キリスト)であることが明らかにされて行くのであるが、その転換点(分水嶺)において、標記のように、山上で御姿が変わるという出来事が起こった。これは、十字架の死の後に復活される栄光のキリストを示す出来事であると共に、旧約聖書の律法と預言を代表するモーセとエリヤが現れて主イエスと語り合っていたということで、旧約の時代からの神の救いの計画が、御子イエス・キリストによって完成されることを示している。そして、この時、天から聞こえた「これはわたしの愛する子。これに聞け」との御言葉は、十字架と復活の主イエスこそ、神の愛する御子であり、救いの御業を果たされる方であって、その福音にこそ聞いて従うように命じられたのである。
 この後、一同は山を下りて、地上の現実の中に戻る。その時主イエスは、「人の子が死者の中から復活するまでは、今見たことをだれにも話してはいけない」と命じられた。それは、人々がイエスを誤解することになるからだが、弟子たちは復活のことがよく理解できず、論じ合っていた。当時、律法学者たちは、イエスがメシアでない根拠として、メシアの前に現れるとされるエリアが来ていないと主張していたが、そのことを弟子たちが主イエスに尋ねると、主は、「エリヤは来たが、人々は好きなようにあしらった」と述べられ、洗礼者ヨハネが現れるはずのエリヤであるとされ、十字架の苦しみを受けられる人の子(主イエス)こそメシアであることを明らかにされたのである。この十字架の犠牲によって、私たちの根本的な問題である罪の問題を解決してくださる主イエスこそ、「これはわたしの愛する子」と言われたメシアであり、栄光の主なのだ。
 私たちは礼拝において、この栄光の主を垣間見ることを許されたのであるが、一行が山を下ったように、再び地上の生活に戻って行かねばならない。だが、私たちだけで下って行くのではなく、主イエスが一緒に下ってくださる。そして、私たちの地上の生き方も、復活の命に満ちたものへと変えられるのである。

主日礼拝説教<要 旨> 2015年8月9日  山本 清牧師 

 聖  書:マルコによる福音書9:2-13 
 説教題:「
栄光の主、山を下る」 説教リストに戻る