序. 山に登り、山を下りる――公生涯の分水嶺

 マルコによる福音書は16章までありますが、先週で8章までが終わりまして、これから後半に入って参ります。分量的に後半に入るというだけではなくて、内容的にも、先週に聴いた箇所では、主イエスがご自身の死と復活のことを語られたことが書かれていて、いよいよ十字架に向かって行かれることが明瞭になって行く境目に差し掛かっているのであります。今日の箇所の2節には、六日の後、イエスは、ただペトロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて、高い山に上られた、と書かれていて、主イエスの公生涯の頂点に達したことが暗示されていて、9節を見ると、今度は、一同が山を下るとき、とあって、これ以降は下り坂であることが暗示されています。つまり、主イエスの公生涯における転換点=分水嶺に差し掛かっているということであります。
 四つの福音書には「○○○による福音書」という名前がつけられていますが、それはその名前の個人が書いたというよりも、その人が属する教会に伝えられていた主イエスの御業や御言葉をまとめたものではないかと考えられるのですが、そこには、その教会の人たちが主イエスをどのようなお方として信じているかということが表わされていて、一種の信仰告白と言ってもよいのであります。マルコ福音書では、これまでに学んで来たように、人々や弟子たちが主イエスをよく理解出来ていなかった様子が描かれており、それはまた自分たちの信仰の不確かさと重ね合わされるものであったのでしょう。そうした中で、ペトロが主イエスはメシア(キリスト)であるとの信仰を告白するのですが、その直後に主イエスから受難の予告を聞くやいなや、主イエスをいさめ始めて、主イエスから「サタン、引き下がれ」と言って叱責されて、主イエスに対する無理解が露わになりました。そして先週に聴いたように、「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」というお言葉が語られたのでありました。つまり、主イエスがメシア(キリスト)であると告白するだけでは不十分で、<主イエスがどのような意味でメシアであるのか>という主題がこれ以降に展開されることになるのであります。それは、<十字架と復活の主イエスこそメシア(キリスト)である>という信仰の告白であります。
 その転換点に、今日の前半(28節)では、主イエスが山上で姿が変わったという出来事があり、後半(913)では、山を下りてから主イエスと弟子たちとの間で交わされた、人の子の苦しみや復活についての問答があるのであります。今日はそれらの記述を通して、マルコ福音書が私たちに告げようとしていること、そこに込められている主イエスのメシアとしてのお姿を聴き取って参りたいと思います。

1. 変貌――復活の栄光の主

 さて、主イエスが三人の弟子たちを連れて高い山に登られると、そのお姿が彼らの目の前で変わり、服は真っ白に輝き、この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど白くなった、のでありました。ヨハネ黙示録では天上のキリストの姿を「雪のように白く」と表現しております(黙114)。そのことから考えると、この時のお姿は、後に甦られる主イエスの栄光のお姿を示していたということでしょう。もちろん、この時、弟子たちはそのことは分かりませんでした。復活のキリストに出会った後に、この時のことを思い出して、<あの山上での出来事は主イエスの復活のことを表していたのだな>と理解して、このように書き留めているのだと思われます。

2.エリヤとモーセとの語り合い

 続けて4節には、エリヤがモーセと共に現れて、イエスと語り合っていた、書かれています。モーセは神様から十戒を受け取った人で、イスラエルの民にとっては律法を代表する人物であります。また、エリヤはメシアが到来する前に再び来ると信じられていた預言者であります。ですから二人は旧約聖書の律法と預言を代表する人物であって、一方の主イエスは、旧約の律法と預言を成就することになるお方であります。モーセとエリヤが旧約聖書の代表であるとすれば、主イエスは新約聖書の代表であります。ですから、この三人の出会いは、旧約と新約との語り合いということになります。旧約の時代からの神様の救いの御計画が、御子イエス・キリストによって完成されるということがそこに示されているのであります。そのことは、これから起こるキリストの御受難、十字架と復活の出来事が、神様の救いの歴史の中で決定的なことであることを示しています。

 けれども、この光景を見たペトロたちは、そういう意味があることをまだ理解することができません。ただ、旧約の代表者であるような二人と主イエスが話し合っている光景を見て、6節にあるように、非常な恐れを感じて(感激して)、どう言えばよいのか分からずに、5節にあるようなことを口走りました。「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」――この言葉は、この素晴らしい光景をずっと留めたい、固定化したいという思いから出たのでしょう。私たちも主イエスによって救われた喜びの状態を何とかして自分たちの手許に確保したい、という願いを持つことがあります。それは好ましい願いであるようにも思えます。しかし、もしそういう状態を自分たちの力で確保しようとするのであれば、それは間違いであります。キリストによって始まる神の国を、地上的な手段で固定化しようとして、神の御業である十字架を無視するようなやり方で確保しようとしてはならないのであります。例えば、礼拝堂の雰囲気を荘厳なものにするために飾り立てるとか、心に平安をもたらすような音楽で雰囲気づくりをするというようなことです。そういうことがすべて間違いとは言えませんが、人間が作り出す雰囲気と十字架の救いとを吐き違えてしまってはならないのであります。

主イエスが十字架のことを予告されたときに、主イエスをいさめ始めたペトロの過ちが、ここでも顔を出して、自分たちで救いを確保しようとしたのであります。大事なことは、神様の方からの働きかけの御業であり、神の御言葉によって与えられる救いに耳を傾けることであります。

3.「これはわたしの愛する子」

 この時も、ペトロの思いで進められることはなく、7節以下にあるように、神様の方からの働きがありました。すると、雲が現れて彼らを覆い、雲の中から声がして、「これはわたしの愛する子。これに聞け」という言葉が聞こえました。この言葉は既に111節で聞きました。主イエスがヨルダン川で洗礼者ヨハネから洗礼を受けられたときに天から聞こえたものと同じであります。ですから、主イエスが山の上で姿が変わってはじめて神の子になられたのではありません。主イエスは既に神の子でありました。その御子が、いよいよ弟子たちにも御自分の死と復活を告げられたことによって、神の愛する御子であることが一層明白になったということであり、そのことを改めて神様が承認されたということであります。更にここでは、洗礼の時の言葉に加えて「これに聞け」と言われています。イスラエルの民はモーセが伝える言葉を聞いて来ました。神が火と雲の中からの声をもって律法を聞くように命じ給い、また預言者たちを通して御言葉を語って来られました。今、神様は、モーセよりもエリヤよりも、愛する御子に聞け、と命じられます。律法と預言よりも、キリストの福音に聞け、ということであります。「これに聞け」ということは、ただ耳で聞いておればよいということでないことは当然です。「聞いて従え」という命令であります。主イエスに従うという行動・生き方を命じられているのです。また、「これに聞け」ということは、<これだけに聞け>ということでもあります。他のものに惑わされてはなりません。

4.栄光の主、山を下る

 さて、8節によると、雲の中からの言葉を聞いた弟子たちは急いで辺りを見回したが、もはやだれも見えず、ただイエスだけが彼らと一緒におられました。山上の変貌の出来事は、最初に申しましたように、主イエスの御生涯の終わりにあるのではなくて、ガリラヤでの伝道活動からエルサレムの御受難の出来事へと向かわれる転換点(分水嶺)に位置する出来事であります。これから後で、最も大事な出来事が始まるのであります。
 9節の、一同が山を下りるとき、という言葉は象徴的であります。主イエスと弟子たちはいつまでも山の上に留まっているわけにはいかないのであります。彼らは山を下りて、地上に戻らなければならないのです。現実の戦いに戻らねばならないのであります。山の上であったことはまだ隠された姿であって、地上の現実にはなっていません。決定的なことは山の上ではなくて、これから地上で起こるのであります。ゴルゴタの十字架の上で起こることになるのであります。
 9節によると、主イエスは、「人の子が死者の中から復活するまでは、今見たことをだれにも話してはいけない」と弟子たちに命じられました。主イエスによる沈黙命令が下ったのであります。しかし、それは無期限ではありません。「人の子が死者の中から復活するまでは」と言っておられます。それまでは、弟子たちの信仰も曖昧だし、それを聞いても誰も理解せず、誤解を産むだけであります。けれども主イエスの復活が現実となったならば、主イエスのお姿が変わったことの意味が誰にもよく理解できるようになるということです。
 しかし、弟子たちは、10節にあるように、主イエスのおっしゃった「死者の中から復活」ということが分からずに論じ合いました。そして、主イエスに、「なぜ、律法学者は、まずエリヤが来るはずだと言っているのでしょうか」と尋ねました。救い主が登場する主の日が来る前にエリヤが遣わされるということは、先ほど朗読していただいた旧約聖書のマラキ書323節に預言されていて、多くの人たちはそれを信じて待ち望んでいました。ところが律法学者が言うのは、主イエスが本当のメシアであるならば、エリヤより先に来るのはおかしいではないか、ということです。それに対して主イエスは12節でこう言われます。「確かに、まずエリヤが来て、すべてを元どおりにする。」――主イエスもメシアの到来の前にエリヤが来ることを認めておられます。主は何のことを言っておられるのでしょうか。併行記事のマタイ福音書1114節を見ますと、主イエスが洗礼者ヨハネのことを述べておられる中で、「あなたがたが認めようとすれば分かることだが、実は、彼は現れるはずのエリヤである」と言っておられます。その発言と呼応するように、今日の箇所の13節でもこう言っておられます。「しかし、言っておく。エリヤは来たが、彼について聖書に書いてあるように、人々は好きなようにあしらったのである。」――ここにはヨハネの名前は出て来ませんが、ヘロデ王の都合によって殺された、あの洗礼者ヨハネこそ、預言されていたエリヤだと言っておられるのです。更に、12節の後半では、旧約聖書に書かれている苦難の僕のことを語られて、逆に弟子たちに問いかけられます。「それなら、人の子は苦しみを重ね、辱めを受けると聖書に書いてあるのはなぜか。」――ここで、「聖書に書いてある」とおっしゃっているのは、イザヤ書53章に書かれていることだと思われます。こう書かれています。「彼は軽蔑され、人々に見捨てられ/多くの痛みを負い、病を知っている。彼はわたしたちに顔を隠し/わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。」(イザヤ533)――律法学者たちは、メシアがエリヤより前に来るのはおかしいと言っているのですが、イザヤはメシアである「人の子」自身が人々に軽蔑され、捨てられ、無視されるのだと述べていることを指摘されて、御自身の十字架という最も大切なことをここで述べておられるのであります。弟子たちは、9節で主イエスが復活のことに触れられたので、そのことで論じ合っていたのですが、大事なことはその前の十字架のことであります。山上で見た主イエスの栄光の姿も心に留めるべきことでありますが、その前に起こる主イエスの十字架の苦難をすっ飛ばして栄光のキリストだけを求めても、救い主に出会うことは出来ません。私たちは力強い主イエスや、優しい主イエスや、立派な主イエスが好きです。人々に捨てられ、十字架にお架かりになる主イエスからは距離を置きたい気がします。主イエスが十字架にお架かりになったとき、人々は「メシアであるなら、十字架から降りるがいい」と言って罵りました。私たちも、十字架の主イエスよりも栄光の主イエスの方が信頼できるように思ってしまうところがあります。しかし、主イエスは高い山の上で栄光のお姿を弟子たちにお見せになりましたが、その山を下りて、十字架へと向かわれるのであります。その主イエスに従って行くことによってこそ、本当の救い=罪からの救いに与ることが出来るのであります。雲の中から聞こえた神様の声は、「これはわたしの愛する子。これに聞け」でありました。ここだけ読むと、山の上で見た栄光の主イエスの言葉に聞け、と言われているようにも受け取れるのですが、その前に主イエスは御自分の十字架のこと、死のことを予告しておられました。ですから、「これに聞け」ということは、山の上の栄光の主にだけ聞くことではなくて、山を下りて、<十字架につけられるキリストに聞け>ということであります。「聞く」ということは、<聞き従う>ということであります。先週聴きましたように、十字架を共に負うということであります。

結.私たちの変貌へ

 ラファエロという画家が、「キリストの変容」という絵を描いております。その絵の上半分は今日の山上の変貌の場面を描いているのですが、下半分にはこの後の14節以下に書かれている、汚れた霊に取りつかれた子供を弟子たちが癒せなかったことで困惑している情景が描かれているのであります。つまり、下半分は山の下の現実を表現しているのであります。弟子たちはその現実の中に帰って行くのであります。それは私たちも同様であります。私たちは今日、こうして礼拝に来て、聖書によって栄光のキリストのお姿を垣間見ることを許されたのでありますが、これから地上の生活に戻って行かなければなりません。そこは、苦しみや悩みのない世界ではありません。弟子たちがそうであったように、思い通りには行かない生活が待っています。
 しかし、そこへ私たちだけで下って行くのではありません。主イエスが一緒に下って行ってくださるのであります。そして主イエスは私たちの根本問題である罪の問題を、自ら十字架に架かって解決してくださるお方であります。この主イエスの救いに与るためには、この十字架の主イエスの御言葉を聞いて、それに従わなければなりません。ある解説者は、「変貌するのはキリストだけではない、私たちもまた変えられる」と言っております。私たちがキリストの言葉を聞いて従うとき、私たちも変えられるのです。復活の命に満ちた生き方へと変えられるのであります。 祈りましょう。

祈  り

救い主キリストの父なる神様!
 今日も御言葉によって、栄光の主イエスと十字架の主イエスを仰ぐことが出来まして、感謝いたします。
 私たちはなお、この地上の歩みを続けることを許されていますが、そこには罪があり、私たち自身もその中にあって、苦しみや悩みを負わねばなりませんが、どうか、その中にあっても主イエスが共に歩んでくださいますように。どうか、主の御言葉に聴き続け、十字架を共に負い続けることによって、真の救いに与ることができますように。どうか私たち自身が、主によって変えられますように、お導き下さい。
 主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

主日礼拝説教<全原稿> 2015年8月9日  山本 清牧師 

 聖  書:マルコによる福音書9:2-13
 説教題:「
栄光の主、山を下る」         説教リストに戻る