「自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。」
               (マルコによる福音書
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 主イエスが弟子たちに「あなたがたはわたしを何者だと言うのか」と問われたとき、ペトロは「あなたは、メシア(キリスト)です」と答えた。それは世間の人々の理解に優る立派な答えではあったが、キリストの真実の姿を理解していなかった。そのことは、続けて主イエスが「多くの苦しみを受け、…排斥されて殺され…」(31)と語られると、ペトロが主イエスをいさめ始めたことで明らかになる。主イエスはペトロを叱って、「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている」(33)と言われた。私たちも弟子たちと同じように、主イエスから多くの良いものを得ようと期待しているが、その期待を裏切るような主の言葉には、ついて行けないのが本音だ。「引き下がれ」とは、原文では「私の後ろに行け」である。弟子たる者は、主イエスの前にしゃしゃり出るのではなく、主の御心に従わなくてはならない。「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」(34)と言われる。
 続けて標記のように語られた。ここでは、第一に、命を救うためには「自分を捨てなさい」と、自己否定を求められる。第二に、「自分の十字架を背負いなさい」と言われる。十字架とは、死に値する罪があることを示す。私たちは神に対して罪を犯したので、死すべきなのである。だが、私たちが背負うべき十字架を、実は主が代わって負ってくださった。だから、キリストが背負われる十字架の一端を一緒に担うだけでよいのだ。第三に、「わたしに従いなさい」と命じられる。主イエスより前に出ることなく、従順に従うことが求められる。
 このあと、主イエスは標記のように、命の救いについて語られた。私たちの生まれながらの命を、自分のために最大限に生かそうとしても、罪のために神との関係が破れたままでは、命は失われるほかない。失われた命は自分がどれほど努力しても取り戻すことは不可能である。自分の命を救うのでなく、主イエスのため、福音のために命を捧げるときに、本当の命が救われるのである。
 最後に主イエスは、「ここに一緒にいる人々の中には、神の国が力にあふれて現れるのを見るまでは、決して死なない者がいる」(91)と言われた。これは、以上の御言葉を聴いて受け入れた者は、神の国に入ることができるとの約束である。主イエスは、与えられた命を失いかねない私たちのために、御自分の命を注いで救い出そうとしておられるのである。

主日礼拝説教<要 旨> 2015年8月2日  山本 清牧師 

 聖  書:マルコによる福音書8:31-9:1 
 説教題:「
失う命と救われる命」 説教リストに戻る