序. 何が生死を分けるか

 「命あっての物種」という諺(ことわざ)があります。何よりも命が大切で、命があってこそ何事でも出来るのであって、命を失っては、どんなに豊かで、充実した人生であっても意味がなくなってしまう、ということであります。この場合の「命」というのは、肉体の命であります。肉体が死んでしまっては、一切が無駄になる、ということです。しかし、肉体の命が本当に一番大切なのでしょうか。確かに、精神的に豊かであっても、肉体が滅んでは、その精神を宿す命がなくなるのですから、意味がないということになるのかもしれません。
 今日の聖書の箇所の中の36節を見ると、主イエスはこう言っておられます。「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。」――これは「命あっての物種」という諺と、一見、よく似ています。ここで「全世界」とは何でしょうか。物質的なすべてのもの、ともとれますし、精神的なものも含めた世界全体を自分の支配下に置くという意味にもとれますが、どちらにしても、「命あっての物種」という諺と同じことを言っておられるようにも受け取れるのですが、問題は「命」の方です。ここだけ読むと肉体の命のこととも読めるのですが、その前におっしゃったことを見ると、そうではなさそうです。35節で、こう言っておられます。「自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。」――ここで「命」と言っておられるのは、どういう命でしょうか。「自分の命を救いたいと思う者は、それを失う」と言っておられて、ここで言っておられる「命」というのは、どうも肉体の命のことではなさそうですね。肉体の命よりももっと大切な命があることが示唆されています。肉体の命よりももっと大切な命、「救い」に関わる命のことが言われているようです。35節の後半では、「わたしのため、また福音のために命を失う者」とも言われています。どうもこれが、救いに関わる命、もう一つの命のことのようであります。こちらの命の方が肉体的な命よりも大切だ、ということのようであります。
 冒頭の序の題を「何が生死を分けるか」とさせていただきました。この場合の「生死」というのは、肉体的な命の生死ではなくて、それよりもっと大切な、もう一つの<救いに関わる命>のことであります。その命を失ったら、たとえ全世界を手に入れても、何の得にもならないのであります。その「命」とはどういう命なのでしょうか。また、どうすればそれを手に入れることが出来るのでしょうか。――今日は与えられた聖書の箇所から、そのことを聴き取りたいと思っています。

1.死と復活の予告

 ところで、今日の箇所のすぐ前には、弟子のペトロが信仰を言い表したことが書かれていました。ここは7月に学びましたが、最初主イエスが弟子たちに、「人々は、わたしのことを何者だと言っているか」と問いかけられて、弟子たちは、「洗礼者ヨハネ」とか、「エリヤ」とか、「預言者の一人だ」と言っていると答えました。すると、主イエスは、「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」と迫られました。そこで、ペトロが弟子たちを代表するかのように、「あなたは、メシアです」と告白したのでした。「メシア」とは「救い主キリスト」という意味で、それは他の人々が言っている以上のお方であることを言い表わした、立派な告白で、そのように言えたことは大変なことでありました。けれども、主イエスはその答えを聞いて、「御自分のことをだれにも話さないように」とおっしゃいました。なぜでしょうか。7月の時にも申しましたが、ペトロは、まだメシアというものの真実の全体を理解していなかったからで、そのような理解でもって人々に言いふらすと誤解を与える恐れがあったからであります。人々は主イエスに対して、様々な期待をしておりました。ペトロの理解もその延長上にしかなかったのであります。

2.人間のことを思っている

 ペトロの理解が不十分であったことは、今日の箇所に入ってすぐ明らかになります。31節にはこう書かれています。それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しめを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始められた。――ここで、「人の子」というのは、主イエスがご自分のことをおっしゃる時の言い方です。ここで主イエスは、はっきりと御自分がどのようなお方であるのか、ご自分の御使命について、そしてこれから起こることについて、はっきりと話し始められたのであります。私たちは、ここで言われていることは既によく知っていますので、これを聞いても驚かなくなっているのですが、私たちが信じている主イエスというお方は、このようなお方であるということを、きっちりと認識し直す必要があります。私たちも、当時の多くの人々や弟子たちと同じように、主イエスに様々な期待を抱いています。教会に来て、主イエスを信じておれば、健康が守られる、家族が幸せにしてもらえる、苦しいこと、難しいことに出会っても、それを乗り越えることの出来る慰めや力を与えられる、そして、心豊かな生涯を送ることができる、というような期待を持っているのではないでしょうか。しかし、この主イエスの御言葉は、そういう安易な期待を木端微塵に打ち砕くような言葉であります。これはこれから主イエスに起こることの単なる予告ではありません。言い方に注目したいと思います。「必ず多くの苦しめを受け、・・・殺され、・・・復活することになっている」と言われています。これは、主イエスご自身の決意を述べられたというよりは、神様の御計画としてあらかじめ定められていることなので、必ず成就されなければならない、という意味が込められた言い方です。その神様の御計画に、主イエスは御自身をお委ねになっている、ということです。私たちが信じ、従おうとしている主イエスはそのようなお方であるということを知らなければなりません。

 ところが、ペトロをはじめ弟子たちですら、そのことがわかっていませんでした。32節にはこう記されています。しかも、そのことをはっきりとお話しになった。すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。――主イエスがおっしゃることは、ペトロにとって、期待していたこととは大違いだったので、ペトロは、マタイ福音書によると「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません」と言って、逆に主イエスをいさめ始めたのであります。主イエスのおっしゃったことは、ペトロにとっては、これまでの主イエスに対する期待を裏切られるようなお言葉だったからであります。私たちの中にも、このペトロのような気持ちがあることを知らなければなりません。主イエスが人々から排斥されたり、多くの苦しめを受けられるのであれば、当然、主イエスに従って行こうとする私たちに対しても、人々から同じような仕打ちを受けなければならないことになります。そんなことは避けたいのが私たちの本音ではないでしょうか。

 そんな弟子と私たちの代弁者であるペトロに対して、主イエスはどうされたでしょうか。33節にはこう書かれています。イエスは振り返って、弟子たちを見ながら、ペトロを叱って言われた。「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。」――主イエスはペトロを「サタン」と、どなりつけておられます。ペトロは主イエスのことを思っていさめたのでありましょうが、そのペトロをサタン呼ばわりしておられるように聞こえます。主イエスは怒りのために度を失ってこんな発言をされたのではありません。主イエスは御自分に与えられた御使命を妨害しようとするサタンの働きを断とうとしておられるのであります。主イエスは「引き下がれ」と言っておられます。このギリシア語の原文は、「私の後ろに行け」という言葉です。ペトロは、自分が主イエスよりも偉いかのように、主イエスをいさめました。しかし、弟子たるものは、主イエスの前にしゃしゃり出るのではなくて、主イエスの後ろに従わなくてはなりません。主イエスはそして、「あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている」とおっしゃいました。ペトロは自分たちが誉れを得ること、得をすること、幸せになることを第一に考えていました。しかし、大切なことは、神様の御意志、神様の御計画が実現することであります。本当は神様が人間にとって一番よいことを考えておられます。主イエスはその神様の御心に従おうとしておられます。その主イエスを信頼することこそ、弟子や私たちがしなければならないことであります。

3.イエスに従う=十字架を負う

 34節以下は、主イエスが弟子たちと群衆を呼び寄せて語られたことであります。ここには、主イエスに従うということはどういうことなのか、ということが語られています。言い換えれば、<キリスト者とは何者か>ということであります。ここをいい加減に聞いていて、その通りにしていなければ、キリスト者とは言えない、教会に来る値打ちがない、ということになります。何とおっしゃっているでしょうか。3435節のお言葉を聴きましょう。それから、群衆を弟子たちと共に呼び寄せて言われた。「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。」――これは、主イエスに従おうとする者に語られた招きの言葉であります。
 主イエスはまず第一に、「自分を捨てなさい」と言っておられます。これは厳しい命令であります。ここまでの宣教活動の中で、人々は主イエスから多くのものをいただいて来ました。病を癒されたり、パンを与えられたり、苦しみから解放されたりしました。ですから、主イエスについて行くことは、主イエスから何かをいただくことだと思って来ました。私たちも、教会に来ること、信仰に入ること、主イエスに従うということは、私たちが慰められたり、癒されたり、解放されたりする恵みを貰うことだと思っています。しかし、主イエスはここで、<私のために自分を捨てられるか>と問うておられるのであります。私たちはこれまでにも、主イエスのために幾ばくかの物を捨ててきたかもしれません。私の大切な時間を割いて来たかもしれません。私の財産の一部を献げて来たかもしれません。それらは素晴しいことであります。しかし、ここで主イエスが求めておられるのは、私が持っている何かではなくて、私そのものであります。「自分を捨てる」と訳されている元の言葉は、「自分を否定する」という言葉であります。自己否定が求められているのであります。単に、自分のしたいことを我慢することや、自分の欲望を押し殺すことではありません。単なる謙遜や禁欲することではありません。
 御存知のように、後にペトロは主イエスを知らないと言いました。これは主イエスを否定したということであります。ペトロは素晴しい告白をしましたが、やがて主イエスを否定することになることをご存知で、今、「自分を捨てなさい」「自分を否定しなさい」と言っておられるのです。主の弟子になるということは、自分が捕えられるかもしれない時にも、自分を否定して、自分は主のものであることを認めることだよ、とおっしゃるのであります。
 
第二に主イエスは、「自分の十字架を背負いなさい」と言われます。<十字架を背負う>というと、一般的には、何か人生の重荷を背負うこと、不幸な境遇だとか、病気や弱点を持っていることを表現しますが、聖書で十字架とは、重い罪のために死刑に処せられることであります。ですから、「自分の十字架を背負う」というのは、死に価する自分の重い罪のために死になさい、ということであります。私たちは自分の罪のために死すべき者であります。神様の恵みを裏切る大きな罪を犯した者であります。そのことを認めなければなりません。しかし、その罪のために私たちが背負うべき十字架は、主イエスの十字架につながっています。私たちは自分の罪を自分の死によっても償い切ることは出来ません。だから、主イエスが十字架にお架かりにならなければならなかったのです。ですから、「自分の十字架を背負う」ということは、「自分のためにキリストが背負って下さったキリストの十字架を背負う」という意味があります。私たちが背負ったところで、キリストの十字架が軽くなるものではありません。しかし、私たちが一生、キリストの十字架を一緒に背負う者として生き続けなさい、と命じておられるのであります。キリストの十字架は自分だけのものではありません。多くの人のための十字架でもあります。だから、私たちはキリストと共に、多くの人の十字架をも背負うということであります。
 第三に、主イエスは「わたしに従いなさい」と命じられました。これは今言った、主イエスと共に十字架を背負うということであります。「従う」というのは、考えていることではありません。それは行動であります。体ごと、生活ごと主イエスについて行くということです。しかしそれは、勢い余って主イエスより前に出ることではありません。ペトロは十字架のことを予告された主イエスをいさめ始めました。それは主イエスより前に出ることです。「従う」とは、主イエスより先に行かないことです。自分の思いや考えを主張して、主イエスの言葉に耳を傾けなければ、それは主イエスに従っていることになりません。主イエスが備えて下さった道を主イエスの後ろから歩んで行くよう命じておられるのであります。
 ところで、このような主イエスの命令を聞いて、私たちは尻込みしてしまうのではないでしょうか。そんなことはとても出来ない。自分にはそんな立派な信仰はないし、そんな立派な信仰者になれそうもない。ここで言われているのは、特別に熱心な人、模範的なキリスト者のことではないか、と思ってしまいます。しかし、ここで主イエスが求めておられることは、立派なキリスト者になることではありません。「自分を捨てること」――それは自分を否定することだと言いました。自分の栄誉を求めることと逆です。自分が立派になったり、人から立派に思われることとは逆です。また、「十字架を背負う」とは、大きな課題を背負って格好良く歩むこととは違います。自分の罪を認めて、主イエスが背負ってくださる十字架を共に背負うことであります。そして、「主に従って行く」のであります。人々をリードするとか模範となるというよりは、主イエスの後から従って行くだけであります。

4.失う命と救われる命

それにしても、そんな生き方は面白くない暗い人生に見えるでしょうか。もっと自分で困難を乗り越え、他の人のためにも尽くし、世の中をリードして行くような生き方の方が素晴しいと思えるのではないでしょうか。
 主イエスは続いて35節で、「自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである」と語っておられます。
 誰でも自分の命を救いたいのであります。自分の生き甲斐を見出し、自分の一生を生き生きと過ごしたいのであります。しかし、生まれながらの自分の命を自分の力で生かそうとしても、罪の問題、即ち、神様との破れた関係の解決、それが「命を救う」ことですが、それがなくては、何もならない、と主イエスは言っておられるのであります。それとは逆に、主イエスのために自分の命を失う、言い換えると主イエスの弟子として、福音のために仕える生き方、自分のための生き甲斐を棄てて、主イエスが備えてくださる道を生きるとき、自分の命、自分のための生き方から解放されて、本当の意味で世のため人のために生かされることになる、と断言しておられるのであります。
 主イエスは更に36節で、「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか」と言っておられます。私たちは、あらゆるものを自分のコントロールのもとに置きたい。自分の思いのままに動かしたい、と思います。自分の人生も自分の思い通りに築きたいと思います。しかし、いかに能力があっても、強い意思があったとしても、神様との関係が破れていて、罪の問題が解決されていなかったならば、滅びるしかありません。命は失われるしかありません。それでは、せっかくの命を無駄にしてしまいます。何の得にもなりません。命とは、神様との生きた関係であり、神様がお遣わしになった主イエス・キリストの御言葉をどう受け止めて生きるかが生死を分けるのであります。3738節で、こう言われています。「自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。神に背いたこの罪深い時代に、わたしとわたしの言葉を恥じる者は、人の子もまた、父の栄光に輝いて聖なる天使たちと共に来るときに、その者を恥じる」と。私たちの本当の命、神様とのあるべき関係に生きる命、それを自分たちの力で買い戻すことは出来ません。今は、神さまに背いた罪深い時代であります。「わたしとわたしの言葉を恥じる」というのは、主イエスを信頼してその言葉に聴き従うことを、恥ずべきことと思う、喜びとしない、誇らしいこととしない、ということでありましょう。私たちはそんな風には思っていないつもりです。しかし、私たちの生き方、人との接し方の中で、キリストを前に立てるよりは、自分を大きく見せたり、自分が満足することを求めてしまっているのではないでしょうか。けれども、終わりの日に来られる栄光の主イエスから棄てられたのでは、何もなりません。神の国からは締め出されてしまいます。神様との関係が永遠に断たれて、永遠の命を失うことになります。

結.神の国の約束

 最後に主イエスは91節でこう言っておられます。また、イエスは言われた。「はっきり言っておく。ここに一緒にいる人々の中には、神の国が力にあふれて現れるのを見るまでは、決して死なない者がいる。」――不思議なお言葉であります。この言葉の意味は、今、この地上で、主イエスを信じて、主イエスとしっかりと結びついて歩んでいる者は、既に神の国に生き始めている、永遠の命に生きている、ということであります。
 これらのお言葉を聞いた弟子たちでありましたが、やがて主イエスが逮捕され、十字架にお架かりになると、結局は裏切ってしまうのであります。主イエスはそれを見越した上で、この時から敢然と十字架への道を歩まれ、そして復活された後に、裏切った弟子たちをも、もう一度弟子として再スタートさせられました。私たちも、今日の主イエスのお言葉を聞いても、まだ主の御心を自分の心とすることが出来ず、せっかく与えられた命を失いかねない弱さを持っております。しかし、主は、「ここに一緒にいる人々の中には、神の国が力にあふれて現れるのを見るまでは、決して死なない者がいる」と言ってくださっています。主イエスが強い御意志をもって、私たちを本当の命、永遠の命に生かそう、そして神の国へ入れようと、招いておられます。この主に信頼して、自分の命を献げるものでありたいと思います。
 祈りましょう。

祈  り

命の主イエス・キリストの父なる神様!
 今日も主イエスの御言葉によって、私たちに向き合ってくださり、私たちの命を救おうとしていてくださいます恵みを感謝いたします。
 私たちの信仰の視野は狭く、十字架と復活の御業の恵みを十分に受け取れないまま、なお主にすべてを委ね切ることができないでいる罪人でございます。
 どうか、主イエスの恵みの十字架の一端を、主と共に担う者とならせてください。どうか、主の救いの命に与らせてください。どうか、一人でも多くの人々が永遠の命を与えられて、神の国に導き入れられるように計らってください。
 主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

主日礼拝説教<全原稿> 2015年8月2日  山本 清牧師 

 聖  書:マルコによる福音書8:31-9:1
 説教題:「
失う命と救われる命」         説教リストに戻る