序. 戦後70年に当たって

 戦後70年の節目の年の、節目の日(終戦記念日)を間もなく迎えようとしています。そのような時期に、この国は大きく舵を切ろうとしています。70年前に、それまでの歩みを反省して、新しい憲法を制定して、平和を旗印にした新しい歩みを始めた筈でありますのに、それがなし崩し的に崩壊しつつあるように思える、最近のこの国の動きであります。そうした中で、単にそうした動きを批判するだけでは何もなりません。私たち自身が、この時に当たって、聖書から何を聴き取り、どのような生き方をするのか、神様との関係がどうなっているのかが問われることになるのではないでしょうか。
 ところで、第二イザヤと言われるイザヤ書40章以降は、南王国ユダの民がバビロンで捕囚になっていた時期の末期に書かれたもので、間もなくバビロン捕囚からの解放があるということを告げているのでありますが、この解放は、かつてイスラエルの民が経験したエジプトからの解放(第一の出エジプト)に次ぐ第二の出エジプトという受け止め方がなされるのでありますが、更に、イエス・キリストの十字架の贖いによって罪の審きから解放されたことを第三の出エジプトとし、終末において神の国へと凱旋する時を第四の出エジプトとする受け止め方があります。そういう見方からすると、イザヤ書に書かれていることは、二千数百年前の遠い世界の話ではなくて、今の私たちに語りかけられているメッセージとして聴くことが出来るのであります。つまり、ここに書かれていることは、罪の捕囚状態になっている私たちがイエス・キリストによって、解放されることが確実であることを知らせると共に、来るべき終わりの日に、神の国に入れられることを約束する喜びのメッセージなのであります。
 私たちを取り巻く現状は、かつてバビロンで捕囚状態にあったイスラエルの民と同じように、この世の支配者の力の下に屈服させられている捕囚状態と言うことが出来るかもしれません。しかし、そうした状態にあることを、この世の支配者たちの責任にするだけでは、状況を正しく理解しているとは言えません。ユダの民にも神様を信じないという信仰上の問題があったからこそ、捕囚状態に陥らざるを得なかったのであります。それと同じように、私たちの中にも、信仰上の問題があるので、このような状況になっているのだということを覚えなければなりません。
 しかし、預言者イザヤは、そういう中で、ユダの民に向かって新しいメッセージを語りました。そして神様は今日、そのイザヤ書を通して、私たちにも新しいメッセージを語りかけてくださるのであります。その中から、私たちの問題の解決の希望と新しい生き方の方向が見えて来るのではないでしょうか。

1.既に告げてきた/新しいことを知らせよう

 先ほどの聖書朗読では、イザヤ書48章の12節以下を読んでいただきましたが、そこに入る前に、1節から11節の部分も少し見ておきたいと思います。
 まず、12節は冒頭に、ヤコブの家よ、これに聞け、とありますように、ユダの民に対する神様からの呼びかけであります。しかし、1節の4行目以下を見ますと、まこともなく、恵みの業をすることもないのに/主の名をもって誓い/イスラエルの神の名を唱える者よ、と言われています。これは形の上では神様を崇めているように見えるけれども、心は神様から離れているユダの民の告発であります。これはまた、こうして教会に来て礼拝していながら、心をかたくなにし、神様に対する心からの信頼を欠いている私たちの状態を告発する言葉であります。しかし、そのようなユダの民を見捨てるのではなくて、「ヤコブの民よ、これに聞け」と言うのであります。そして、これから語られる御言葉に耳を傾けよ、と呼びかけているのであります。
 3節から6節の段落までは、冒頭に、初めからのことをわたしは既に告げてきた、とありますように、過去において神様がイスラエルの民に告げられ、実行されてきた恵みの歴史のことで、その代表が出エジプトの出来事でありました。神様は出エジプトの恵みを告げて、それを実行されたのでありましたが、イスラエルの民は、困難なことが起こるたびに、心はかたくなになり、不平をもらし、神様の約束が信じられなかったのであります。今もまた、それを繰り返しているのではないか、という問いかけであります。
 このようなイスラエルの民でありましたが、6節の後半以降は、これから起こる新しいことを知らせよう、と言って、これからユダの民に起こる新しいことを告げるのであります。その新しいこととは、9節にこう語られています。わたしは、わたしの名のために怒りを抑え/わたしの栄誉のために耐えて/お前を滅ぼさないようにした。かたくなで不信仰な民でありましたが、神様は怒りを抑えて、滅ぼさない、と断言されるのです。その理由は、御自分の名のため、御自分の栄誉のためであって、113行目にあるように、わたし(神様)の栄光が汚されてはならないからであります。私たちもまた、不信仰の故に、神様の怒りにふれて滅ぼされても致し方のない者であります。しかし、神様は御自身の栄誉をかけて、私たちを滅ぼすことを思い止まられるということであります。<わたしの栄誉のため>などと言われると、神様は人間よりも御自分の栄誉の方が大切なのか、と思ってしまいますが、そういうことではありません。神様は御心に適う世界を創造し、人間を神様と向き合う存在として造られたのですが、人間はその神様の目的から逸れてしまいました。そこでイスラエルの民を選んで、この民を通して、救いを実現されようとしたのですが、そのイスラエルの民がまた、御心に従わずに勝手なことをして、バビロン捕囚ということになってしまったのであります。しかし、神様はあくまでも当初の目的を達成されようとなさるのであります。御自身の栄誉をかけてその計画を実現しようとなさっているのであります。

2.わたしが彼を呼んだ

 そのためにこれからなさろうとしておられる具体的な内容が、12節以下に告げられているのであります。

 12節の初めには、1節と同様に、もう一度イスラエル民が耳を傾けるように呼びかけられています。そして123行目には、わたしが神、初めであり終わりであるもの、と述べて、御自身が永遠に変わらず、世界を支配なさっていることが宣言されています。

 14節に参りますと、もう一度、皆、集まって聞くがよい、と言われたあと、彼らのうちに、これを告げた者があろうか。主の愛される者が、主の御旨をバビロンに行い/主の御腕となる人が、カルデア人に行うことを、と述べられています。ここで、「彼ら」とは諸国民のことで、神様以外の者が誰も、歴史を見通せる者がいないことが強調されています。「主の愛される者」、「主の御腕となる人」と言われているのは、既に44章で名前が挙げられていましたペリシャ王キュロスのことで、彼が突如として勢力を拡大して、バビロン、即ちカルデア人の国を滅ぼすことになるのでありますが、15節では、「わたしが宣言し、わたしが彼を呼んだ。彼を連れて来て、その道を成し遂げさせる」とあるように、キュロスを呼んで連れて来て、イスラエルの民の解放を成し遂げさせるのは、他でもない「わたし」である神様御自身であると、宣言されているのであります。歴史の偶然がイスラエルの民を解放するのではありません。国と国との力のバランスの変化がイスラエルの民に幸いをもたらすのではありません。まして、イスラエルの民が十分な苦難を味わったからとか、悔い改めが進んだからとかいうのでもありません。神様が初めからの計画に従って、イスラエルの民を救われるために、キュロスを用いられるのであります。

 私たちが罪の捕囚状態から解放されて救いに入れられるのも、また歴史を逆行するような我が国の流れを変えるのも、その主体は他でもなく神様である筈であります。神様が歴史に介入されるのであります。

3.贖う主

 では、神様は歴史にどのようにして介入されるのでありましょうか。17節ではこう述べられています。イスラエルの聖なる神/あなたを贖う主はこう言われる。神様のことが「あなたを贖う主」と言われています。また20節でも、主は僕ヤコブを贖われた、と言え、とあって、「ヤコブを贖われた」と言われています。すなわち、神様はイスラエルの民を贖われるのであります。この「贖う」と訳されている元のヘブライ語は「ガーアール」と言って、これはまさに<救い出す>という意味の言葉であります。イスラエルの民がバビロンでの捕囚状態から救い出され、解放されるのであります。具体的にはペルシャのキュロス王がバビロンを征服するのですが、キュロス王は被征服民族を捕囚するという政策は取らずに解放したので、イスラエル民族の帰還を許すことになるわけなのです。ですから、それは政治的な意味での解放であって、宗教的な意味での罪から救い出すという意味合いはないわけです。しかし、先ほどから見て来たように、これは決して単なる政治的状況や政策の変化によって起こったのではなくて、神様の御意志によって起こったことであると告げられているのであります。元々、イスラエルの民がバビロンに滅ぼされたのも、単に政治的・社会的状況からそうなったというよりも、イスラエルの民が神様に対して不信仰であったために、神様の御意志によって滅ぼされ、捕囚の苦難を受けなければならないようにされたというように、宗教的・信仰的な意味合いをもって受け止められていたのであります。従って、そういう意味の捕囚状態からの解放ということは、神様によって罪を赦されるという理解に結びつくことになるわけであります。更に言えば、「贖う」と訳されている「ガーアール」という言葉は、元々はイスラエルの古代の民族生活の中で、親族の誰かが負債などを負ったために、土地の所有権を失った場合に、近親の誰かが金銭を出して買い戻す行為を表す言葉であったと言われています。ですから、この「贖う」という言葉は、もともと単に、政治的・武力的に救い出すだけでなくて、経済的な負担を肩代わりすることによって救い出すという意味が込められているわけであります。一方、イスラエルの宗教活動の中で、罪の赦しのための贖いの業として、動物の犠牲が捧げられていました。この場合の「贖う」という言葉は別の単語が使われていたのでありますが、その辺りの使い分けは、必ずしも明確ではなくなったと言われます。というよりも、政治的・経済的な出来事を、イスラエルの民は宗教的・信仰的な意味合いで受け止めて来たのであります。
 冒頭で、このバビロンからの解放のことが第二の出エジプトと理解されて来たということを申しましたが、私たちは、更に、主イエス・キリストによる罪からの解放を第三の出エジプトと受け止めるわけです。この第三の出エジプトには、十字架の贖いという大きな犠牲が払われており、それは、第一の出エジプトの時に、小羊の血を家の門の柱と鴨居に塗ったことによって救われたことと、主イエスの血によって贖われたことを重ね合わせて受け取っているわけでありまして、今日の、第二の出エジプトの出来事も、単なる苦しい状態からの政治的な解放ではなくて、神様が篤い思いを込めて、罪の中からの解放を行い、神様との関係が修復される出来事として、主イエスによる第三の出エジプトを指し示す出来事であると受け止めるべきなのであります。つまり、ここでの「贖い」という言葉も、単に、人間の側の苦しい状況からの解放ではなくて、神様の側の犠牲を込めた「贖い」の御心を指し示す出来事として受けとめたい、ということであります。

4.平和は大河のように/恵みは海の波のように

 では、贖われ、救い出された結果、イスラエルの民は、そして私たちは、どのような状態になるのでしょうか。1819節にはこう述べられています。わたしの戒めに耳を傾けるなら/あなたの平和は大河のように/恵みは海の波のようになる。あなたの子孫は砂のように/あなたかた出る子らは砂の粒のように増え/その名はわたしの前から/断たれることも、滅ぼされることもない。――まず、「平和は大河のように」と言われています。支配する者と支配される者の間の敵対関係が解消すると同時に、イスラエルの民の中での争いもなくなるということでしょうが、それ以上に大切なことは、イスラエルの民の罪によって生じた神様との間の歪んだ関係が解消されて真の平和が訪れるということでありましょう。そのことは更に、キリストの十字架による神様と罪ある私たちの間の和解と平和を指し示しているのではないでしょうか。パウロが、「実に、キリストはわたしたちの平和です」(エフェソ214)と述べ、「十字架の血によって平和を打ち立て、地にあるものであれ、天にあるものであれ、万物をただ御子によって、御自分と和解させられました」(コロサイ120)と語っている通りであります。そのようにして訪れる平和は、政治的な妥協や軍事バランスや集団的自衛権を行使する「積極的平和」なんかではありません。罪の問題が克服されて神様との間に和解がもたらされることによって造り出される真の平和であります。そのような平和が、滔々と流れて豊かさをもたらす大河のように、この国にも、この地球にも、そして私たちの身の回りにも訪れるのであります。
 また、イザヤは、「恵みは海の波のようになる」とも述べています。この「恵み」と訳されている「ツェダカー」というヘブライ語は、「正義」とも「救い」とも訳される、深い内容を持った言葉で、特にイザヤ書では、創造から終末までの歴史を支配する神様の御計画をあらわす言葉であるとされています。そのような神様の恵みの御計画が、海の波のように、変わることなく尽きることなく、終わりの日に向けて着々と進められて行くのであります。
 18節の初めに、「わたしの戒めに耳を傾けるなら」という条件のような言葉がつけられています。これは、直接的には、バビロンから離れよという恵みの戒めに耳を傾けて、その約束を信じて、素直に行動に移すならば、ということであって、決して難しいことが要求されているわけではありません。それと同じように、私たちに神様が求めておられることも、決して難しいことではなくて、ただ神様の解放の約束を信じて、これまでの罪に囚われの生活を捨てて、御言葉に耳を傾け、それに聴き従う生き方へと切り替えるなら、そこから真の平和と恵みが訪れるのであります。  
 そして、「子孫は砂のように、あなたから出る子は砂の粒のように増え」と言われています。これは直接にはイスラエルの民の子孫の繁栄を約束したものでありますが、新しいイスラエルの民である教会が栄えることの約束として聴くことが許されるでしょう。この時代の中で、行き詰まっているように見える教会の現状ではありますが、神様は終わりの日に向けて、救いの御業を着々と進め、神の国の完成に向かって、信じる者を砂の粒のように増やしておられるのであります。そして、一度、神の国の名簿に刻まれた者の名は、「わたしの前から、断たれることも、滅ぼされることもない」と約束されています。罪からなかなか離れられない私たちは、名前を消されるかもしれないとの怖れを抱くのでありますが、神様が選んで、神の国の一員にしてくださったのであれば、もはや断たれることはないのであります。しかし、神の国の名簿と教会の名簿が一致しているのかどうかを、私たちが確認することは出来ません。もし、一致しているなら、私たちと神様との関係が、紆余曲折はあったとしても、目に見えて変わってくる筈ではないでしょうか。

結.バビロンを出よ/渇くことがない

 最後に、2021節の言葉を聴きましょう。バビロンを出よ、カルデアを逃げ去るがよい。喜びの声をもって告げ知らせ/地の果てまで響かせ、届かせよ。主は僕ヤコブを贖われた、と言え。主が彼らを導いて乾いた地を行かせるときも/彼らは渇くことがない。主は彼らのために岩から水を流れ出させる。岩は裂け、水がほとばしる。――ともかく、神様の御言葉を聴いて信じたら、バビロンを出ることが先決であります。これまでの生き方を変えることから始めることが勧められています。そして、罪から解放されて救いに入れられた喜びを告げ知らせることを始めよと言われているのであります。そうすれば、どのような乾いた土地、すなわち苦難が待ち受けているとしても、あの出エジプトの時に、モーセが杖で岩を叩くと水がほとばしり出たように、主が生命の水を流れ出させてくださるので、渇くことがないのであります。イスラエルの民は、出エジプトの旅の中で、ホレブの岩とメリバの岩で水を与えられました。私たちは教会で主イエスと出会って、永遠の命に至る水をいただくのであります。主イエスは言われました。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」(ヨハネ73738)アーメン。
 祈りましょう。

祈  り

教会の頭なるイエス・キリストの父なる神様!
 かつてはイスラエルの民に語りかけ、バビロンから解放し給い、今はイエス・キリストを通して、私たちに御言葉を賜い、罪に囚われた世界から私たちを導き出してくださる恵みを覚えて感謝いたします。
 私たちはなお、あなたを信じ切ることが出来ず、あなたの恵みの歴史を歪めようとする歩みの中に、私たちも巻き込まれそうになってしまう者であることを思わざるを得ません。
 どうか、そのような私たちをお見捨てになることなく、たとえ荒れ野の道を歩まなければならないとしても、御言葉に従って行く者たちの群れに加えていただき、生ける命の水に与ることができますように。
 主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

主日礼拝説教<全原稿> 2015年7月26日  山本 清牧師 

 聖  書:イザヤ書48:12-22
 説教題:「
平和は大河のように」         説教リストに戻る